戦場の花

あば あばば

戦場の花

 まどろみの中、うす目を開けると、青い小さな花が見えた。

 あれは――彼女が戦場で摘んできた花。ゆがんで、色あせて、でも凛として咲いている。

「まだ寝てる気、アシュリン?」

 凛とした声。私は寝床から手を伸ばして、声の主に触れようとする。コーラルは私の手をすっと避けて、部屋の電灯に火を入れた。まぶしい、無遠慮な光。

「……もう少し寝かせてよ、昨日遅かったんだから……」

 私はぐずりながら、足元のブランケットを手繰り寄せる。コーラルは無慈悲にもそれを剥ぎ取って、私を冷たい床の上に転がした。

「さっさと起きて。同居人の見送りぐらい、ちゃんとしなさい。まったく、穴ぐら生活者は……」

 はあいと気だるく返事をして、私は床の上を這いずり、洗面所に向かう。外での生活時間が長いコーラルは、この窓のない部屋を、そしてシェルター内部の全体を「穴ぐら」と呼ぶ。一方の私はまだ、「窓」という概念がうまく信じられない。どうしてわざわざ穴を開けてまで、外の世界なんて見たがるのだろう。頭上に果てしない穴が空いてるなんて、寒気がする。

「見送りって言ったって……毎週出てるのに、今さらさ……」

 ぶつぶつ言いながらも、私は大人しく顔を洗って身支度をする。コーラルの気持ちも分からないわけじゃない。彼女は軍人だ。シティ住民の半数がそうであるように。よほど運がよくなければ、いつか、行ったきり帰ってこない時が来る。

 だけど私にはまだ、実感がわかない。コーラルは毎週死地に向かうと言いながら、元気にお土産を持って帰ってくるのだし。お土産は、シティの外で拾った石とか。殺した敵の指輪とか。ヘルムに当たって貫通しなかった矢じりとか。あまりロマンチックじゃないな。でも、私たちにはちょうどいいかもしれない。

 私たちは一応、式を挙げて一緒に住んでるパートナーだけど、恋愛して一緒になったわけじゃない。ただ、独りでいたくなかっただけ――他は知らないけど、このシティではよくあること。ただ、私たちが少し特殊だとしたら、本当に「何もない」ってこと。同性と寝たことがないわけじゃないけど、コーラルとは一緒になって3年、知り合って7年、キスしたことさえ一度もない。別に、嫌いなわけじゃない。要はお互い、趣味じゃないんだ。

 そういう関係だから、先週、彼女が瓶に挿した花を持って帰ってきた時は少し驚いた。急に、ロマンチックなことをして。何かスイッチが入っちゃったわけ? それとも、ただのセンチメンタルなのか。

 化粧道具に手を伸ばしたところで、後ろからコーラルの声。

「そんなにちゃんとしてなくていいから」

 舌打ちする私。ちゃんとしろって言ったのは自分なのに。仕方なく、立ち上がって、背を伸ばす。コーラルは、私よりひとまわり背が高い。腕も足も筋肉で太い。とても死にそうには見えない。

「それじゃ。行ってらっしゃい、コーラル。今週も、無事でね」

「……ありがとう。なるべく、生きて帰ってくる」

 お互いの目を見て、顔を眺めて、うなづく。私も、どうせまた来週同じやりとりをするんだと思いつつも、いざ向き合うとなおざりにはできなかった。彼女が本気で言っているのがわかるから。

 恋人ではなくても、付き合いは長い。コーラルはいつも真っ直ぐだ。そしていつも通り、彼女は真っ直ぐに歩いて、部屋を出て行った。


 私たちが生きているのは、もうだいぶ使い古しの世界。恐竜が滅んで、人類もあらかた片付いて、その残り滓が私たち。たった一人じゃなかったのは幸いだけど、その代わり、争いは残った。ずっとずっと長い争い。

 問題は、男という生き物がめっきり減ったことだ。地球全体のことは知らないけど、うちのシティは99%が女だという話。私なんか、まだ人生で数回しか彼らを見たことがない。

 だから、各地のシェルター・シティは、男を奪い合ってずっと戦争している。彼らは生殖のための、大事な大事な籠の鳥。男の数が多いほど、遺伝子の多様性が保たれ、シティの将来は安泰になる。人気のある「種馬」は、同盟シティ同士でたまにスワップしたりする。サウスとの交換で緑の瞳のカートがシティを来訪した時は、それはもう大騒ぎだった。もちろん、私みたいな貧乏人には予約は取れなかったけど。


「アシュリンさん、スケッチは進んでますか?」

 歴史データを眺めてぼうっとしていた私を、無粋な声が起こした。長い黒髪の女。品質管理課のモードールだ。変な名前。コーラルと同じように、親がずぼらだったんだろう。

「あ、いいえ……まだ。ひらめきがなくて……」

 私はため息をつく。モードールは実質的な私の上司だ。彼女のオーダーに従って、軍用の戦闘服のデザインを次から次へひねり出さなくてはならない。それが私の仕事。

「急かしに来たわけではないのですよ。あなたを信頼していますから。ただ、何かお手伝いできることはないかと思って。お茶でもお持ちしましょうか?」

 鋭い顔つきのモードールが、にっこり笑う。不気味。もしかして、誘われてる? 考えすぎか。

「いえ、大丈夫です。来週にはきっと、上がりますから……」

「納得いくまで、お時間かけて構いませんよ。今回のタム・リン隊創設にあたっては、軍部もかなり宣伝戦略に力を入れているようで。戦線を引っ張っていく、鮮烈で英雄的なイメージが欲しいと。そのぶん、時間も予算もたっぷり頂いています」

「はぁ……そう、ですか」

 金と時間をかければ、必ずいいデザインができるわけではないけど。両方足りないよりずっといいのは確か。つまり、プレッシャーをかけにきたんだな。

「ノース・シティ跡から旧大戦時代のヴォーグ誌のデータが見つかった話は聞きました? 優先して閲覧させてもらえるそうですから、後でお渡ししますね。それでは」

 モードールが歩き去ると、隣の席の同僚カラが私の肩をつついてきた。

「やな女ね、あいつ。でも、あんた期待されてんのね」

「みたいね。私、他にとりえもないから……」

 私がデザイナーになったのは、とにかく他のほとんどの試験に落ちたせいだ。標準体力テストにも落ちて、救護兵には記憶力が足りず、偵察兵には集中力が足りなかった。事務仕事も折衝もダメ。私がいるだけで、部署全体の仕事効率が落ちるとまで言われた。実証データ付きで。

 綺麗な服は好きだ。着るのも、作るのも。自分の服を着た誰かが、格好よく歩くのを見るのはもっと好き。新しい生き物を創造してる気分。戦場を直接見にいったことはないけど、私の服が好きって兵士は結構多いらしい。だから、まあ、天職に出会えたってこと。

 一方、同僚のカラは傷痍軍人で、仕方なく勤務しているものの服飾にはまるで興味がないらしい。

「ハア~、暇だな。生地の素材がどうとか、手触りとかさ……シェルターの中はやっぱりつまんないわ。外はこれから荒れそうね。聞いた? サウスとの同盟が決裂したって」

「え?」

 サウス・シティ。文字通り、南にあるシェルター都市――正式な名前もあるけど、誰も気にしない。

 私たちのシティを中心に、東西南北にそれぞれ一つずつ都市がある。北はとっくに滅んでゴーストの住処。山を挟んだ東は沈黙状態。南とは40年前から同盟を結んでいる。だから、戦争の相手は主に西の野蛮な女たちだけだった。子供の頃から、ずっと。

「一緒に住んでる突撃兵(クーシー)から、何も聞いてないの? これからはうちと南と西。三つ巴の泥沼になる。タム・リン隊もそれを見越して作られるんでしょ。エリート兵士を集めた決死隊だってさ。あたしはいい時期に負傷したもんだわ」

 カラはそう言って、自分のセラミックの両足をパンパンと叩いて笑った。

「まっ、数が減ったらあたしもあんたも駆り出されるだろうけどね。勝つにしろ負けるにしろ、早めに切り上げて欲しいもんだわ。戦い以外で外に出られるようになればいいのにね。空を見たいわ、また……」

 私はどう返事してよいかわからず、ただ苦笑いをした。

 戦争が激化する。ううん、もうしている。コーラルはどこにいるだろう。南に向かったのだろうか。彼女からは何も聞いていない。やけに見送りをせがむと思ったら。どうして黙っていた? まさか、危険なのを知っていて?

「……アシュリン? どうしたの?」

「何でもない。ちょっと、気分転換してくるわ」


 デザイン室を出て休憩所に向かうと、足下の廊下が歪んで見えた。喉が渇く。モードールにお茶を淹れさせればよかった。

「……フゥ」

 ようやく休憩室のソファに座った時には、もうへとへとだった。そうだ、コーラルにも言われたっけ。私はいつも見ないふりして問題を先延ばしにするから、いざ避けられなくなった時に痛手を受けるんだって。

 訓練所時代、ヘレナという少女にキスされた時もそうだった。私は自分が何も感じないのを知っていながら、ヘレナを好きなふりをして、しばらく一緒につるんでいた。優しくしてくれて、居心地が良かったから。だけど結局、本気じゃないってことが――私が彼女と恋愛はできないってことがはっきりして、ヘレナをひどく傷つけたし、自分にもがっかりした。

 今も、問題の重さは違っても、私の情けなさは同じ。コーラルがずっと無事でいられるわけじゃないってわかってたのに。現実を見たくなくて、独りになるのが怖くて、考えないようにしていた。まったく、ただ「戦闘が激化した」って話を聞いただけで、コーラルがどの戦場にいるかさえ知らないのに、体中が冷えて重く感じてる。

「アシュリンさん、お疲れみたいですね」

 モードールが立っていた。私は会釈する元気がなくて、ただ軽く首を振った。

「お仕事のことで? それとも他に何か?」

「……プライベートのことで、ちょっと」

 私は、なるべく彼女に介入されたくなかった。個人として嫌いなわけではないけど……そもそも、個人としての彼女を知らないけど。彼女の氷のような作り笑いは、うわべだけ綺麗に取り繕った、このシティの象徴みたいに見えたから。

「お悩みがあったら、何でもご相談にのりますよ。私、アシュリンさんのお仕事を尊敬してるんです。私のパートナーは焼夷兵(バンシー)だったんですけれど。彼女、ずっとお仕事を嫌がっていたのに、アシュリンさんがデザインされた12番型のスーツになってから、戦場に出る時の気構えが変わったと言っていましたわ」

 モードールの言葉に、私はぎくりとした。焼夷兵……シティで一番過酷な兵種。死体がゴーストに乗っ取られないように、敵の兵も味方の兵も、時にはまだ息があるうちに、火炎放射器で焼き払う葬送兵たちだ。当然、ゴーストに遭遇する危険も大きい。

 汚れ仕事への抵抗感を少しでも軽減するために、私はずんぐりむっくりと不格好だった彼らの密閉服を、漆黒のエレガントなシルエットに改良した。あくまで厳粛に死者と向き合うための喪服のイメージだったのだけれど、シティはそれを今年の新しいファッションみたいに宣伝して……結果として、焼夷兵の志願者は去年の倍に増えた。一方で、焼夷兵の死亡率は決して下がりはしなかった。私の服が、死人を増やしたのだ。

「あのスーツを着た彼女の姿、本当に綺麗でした。きっと誇りを持って逝けたと思います」

 モードールは笑みを崩さないまま言った。私は、消えてしまいたかった。私の仕事もまた、このシティのうわべの嘘の一部なんだ。泥と血にまみれて死に行く兵士たちに、綺麗な服を着せて、まるで自分が美しいことをしているように思わせて……。

 コーラルが今着ている服も、私が作った。ポケットが沢山欲しいというから、腰と胸に二つずつ付けて。彼女はそこにお土産を入れているだろうか。それとも銃弾を?

「アシュリンさん?」

 私はソファの上で、自分の両肩に手を回して震えていた。シェルターの内と外。壁一枚を隔てて、私たちは死の世界の只中で暮らしている。もうとっくに世界は死んでいるのに、私たちはまだ、こうして殺し合わなくてはならない。きっと、誰一人いなくなるまで。悲しくて、恐ろしかった。

 呼吸を落ち着けようと苦戦するうちに、背中に誰かの手の温もりを感じた。モードールが、いつの間にか私の背をさすってくれていた。私はゆっくり深く息を吸って、それから吐き出した。体が徐々に柔らかく、暖かくなるのを感じた。

「……ありがとう」

 モードールは軽くうなづいて、手を離した。彼女はようやく作り笑いをやめて、少し呆れたような目で私を見ていた。乾いた優しさ。きっと、こちらの方が彼女の素なんだろう。

「ご家族に何か?」

「いえ……まだ、分からなくて。でも、戦いが厳しくなるって聞いたら、急に怖くなって」

 モードールは黒いタイツを履いた足を組んで、目を伏せた。

「私も、怖くなること、ありますよ。養育所に子供が二人いて……あの子たちも、いずれは外に出て行って、統計的には20歳までに死んでしまう確率が高い。シティはもっと作ればいいと言うけど、そんなに簡単じゃありませんから」

 子供――考えたことがないわけじゃない。ただ、今まで3回試してみて、3回とも上手くいかなかった。格の低い相手で気が乗らなかったせいもあるけど(子供の頃はあんなに楽しみだったのに!)、検査によると私の子宮の問題らしい。人工授精なら上手くいくと言われたけど、そこまで欲しいものでもなかった。

 コーラルはあれで高給取りだから、たまに大金を払っていい男をつまみにいく。一度妊娠して一人産んだけど……男の子で、長生きはできなかった。仕方ない。耐性のある男の子はごくごく稀。本人も割り切ってると言ってはいたけど、さすがにその後一ヶ月くらいは暗かった。

「どうすれば、人が死ぬのに慣れるのかしら? もう十年も生き延びれば、だんだん平気になるのかしら?」

 私の独り言に近い問いかけに、モードールは考え込む風だった。

「……どうでしょうね。私が、平気になったかは分かりません。ただ、生きているうちに、生きていることを楽しもうとは思えるようになりました。結局、大事なのはそういうことでしょう? アシュリンさんも、きっと……」

 モードールの視線が、少し泳いだ。どこを見ている? 私の……ああ、そう。「楽しもう」って、そういう意味? コーラルが死んだわけでもないのに、今から唾つけとこうって? 彼女に心を開きかけていた私は、再びきゅっとそれを閉じた。

「話を聞いてくれてありがとう。私、仕事に戻ります」

 立ち上がって、振り向かず歩き出した。モードールは何も言わなかった。自分を恥じてる頃だろうか? いいや。きっと、彼女はそういうタイプじゃない。自分に正直すぎる人間は、どこにでもいる。それを悪いことだとは言わないけど……巻き込まれたくはない。


 デスクに戻って、スケッチ用のシートを広げた。コーラルのことは、今は考えても仕方ないからと――でも、やっぱり何も浮かばない。

 求められているのは、戦場に立つ英雄たちの装束。なのに私はもう、戦場に立つ美しいものが想像できなかった。頭に浮かんでくるのは、死のイメージだけ。死んだ兵士たちに、何を着せればいい? 死体に何を着せても同じだ。

 ありきたりのデザインに予算ぶんの機能性を加えて、上層部が満足するだけのモノにすることはできる。でも、私はきっと自分の手抜きを見過ごせない……私がどんな服を作ろうが、シティはプロパガンダをやめはしない。シティは死を求めてる。シティだけじゃない。この世界全体が、あらゆる死を求めている。

 それなら、せめて死にゆく者に綺麗な服を着せてやるのは、意義あることかもしれない。立派な、死装束を……でも、そんな悲しいコンセプトで、どんなドレスが作れるというの? 希望が欲しい……嘘ではない希望が。

 悩んでいるうち、バタバタと足音が聞こえた。

「あのー、アシュリン・バードさんって、こちらにいらっしゃいますか?」

 半開きの扉の向こうに、幼い通信兵の姿が見える。応対する、モードールの声。

「ええ、こちらですよ。ご用件は?」

「電信が一通……火急です」

 私はすっと立ち上がって、二人のもとに駆け寄った。倒れるかと思ったけど、私はまだ立っていた。足元は浮ついているけど……何故だろう、さっき休憩所に向かった時より、ずっとしっかりしている気がする。覚悟していたから?

「私がアシュリン・バードです。電信の内容は?」

 こちらを見上げた少女は、まだ10歳かそこらだろうか。訓練所でも優秀な子供は、この年頃から通信兵としてシティの雑務に駆り出される。もっとも、戦場に出るのはもう2、3年してからだけど。少女はぎこちない仕草で敬礼して、それから電信を読み上げた。

「コーラル・ハリエット少尉が、西方の戦線にて負傷され、シティ内38地区の医療施設に搬送されました。至急、お越し願いたい……とのことです」

 唇を噛む。つじつまの合わないいくつもの気持ちが、絡まりあって渦を巻く。

 どうして。やっぱり。嘘だ。こんなに、いろんなことが、狙いすましたように起きる。いいでしょう、それがお望みなら。私は、取り乱したりなんかしない。深呼吸。

「……内側まで搬送されたってことは、それだけ悪いのね?」

 ちょっとした怪我なら、シェルターの外で治療されるはず。今までのコーラルの負傷はみんなそうだった。それに、軽い怪我ならわざわざ電信が飛んできたりしない。

 私の問いかけに、小さな通信兵は困った顔で首を横に振った。

「すみません、わかりません、電信はそこまで書いてなくて……」

「いえ、いいの。こちらこそごめんなさい。38地区ね。急いで向かいます」

 38。38……どこ? 歩き出してから、考える。だめだ、すっかり取り乱してる。ふと気づくと、横からクイクイとスカートを引っ張られていた。

「バードさん、道、こっちです。私、案内しますから」

 私は立ち止まって、深呼吸する。

「ありがとう。悪いわね、お仕事中なのに」

 通路を並んで歩き出しながら、ため息をつく。人間には二種類いる。テキパキしてる人間と、どう転んでもテキパキできない人間。こんな状況でも、私は後者なんだな。

「大丈夫です、道案内も、お仕事なので。それに、わたしも気になるし」

 歩くうち、道を知らない私は自然と少女の後ろ側に回る。彼女はふわふわした金色の毛を揺らして、たぶん自覚はないのだろうけど、楽しげな歩き方に見えた。

「何が気になるの?」

 尋ねると、少女はくるりと振り向いて戸惑った顔をした。私はてっきり会話の前振りだと思ったのだけど、本人としては聞き返されると思っていなかったらしい。

「えっと、あの……わたし、エリス・ペリルっていうんですけど」

「ふうん?」

 唐突な自己紹介。子供の話って、話題がどこへ飛ぶか予測がつかない。まあ、不安な気持ちを紛らわすにはちょうどいいかもしれない。黙って歩いていたら、きっと立ち止まって――逃げ出してしまう。

「お姉ちゃんが四人いて、二番目のお姉ちゃんがベアトリスなんです。わたしたち、いっつもBって呼ぶんですけど。あ、上からアリス、ベアトリス、クラリス、ドリスでA、B、C、Dなんです。頭文字で。ママ・ペリルは名前なんてどうでもいいって、そんな名前にしたんだそうです」

 とりとめのない話を聞いているだけで、なんとなく顔がほころぶ。なぜだろう? この子には死の陰がないから? いいや、きっと見えないだけ。彼女自身に、それが見えていないから。彼女がずっとこのままでいられたらいいのに。

「それで、えっと、電信のことなんですけど。送信者がお姉ちゃんの名前だったんです。あ、二番目のBです。Bは突撃兵(クーシー)の部隊長なんで、たぶん一緒に戦ってたんだと思います。だから、気になってたんです……怪我が、Bのせいじゃないといいなって」

 ようやく、話が元に戻った。最後の言葉を言いにくそうにしているのを見て、私は少しだけ足を早めて、彼女の横に並んだ。

「大丈夫、あなたのお姉ちゃんのせいじゃないよ」

 そう言うと、エリスは少し表情を和らげて、照れくさそうにうつむいた。

 ――じゃあ、誰のせいなの? 彼女はそうは聞かなかったけど。私はふと疑問に思う。直接的には、敵兵士のせいだろう。西の女たち。音も立てずに忍び寄って、弓矢でこちらを射殺すという。

 矢に貫かれたコーラルの姿がふっと頭に浮かんで、一瞬くらっとなる。もしも彼女に何かあったら、私はきっと手を下した相手を一生許さない。でも、「憎しみ」というには、それはあまりに漠然としていた。私は彼らをこの目で見たこともない。写真で見たのは、死体だけ。黒ずんだ肌に蝿のたかったその姿は、憎むにはあまりにも哀れだった。

「外縁近くまで来たので、そろそろだと思います。アシュリンさん」

 顔を上げると、壁に「35」の表示があった。トコトコ歩いていくエリスの背中を見ているうち、急に、足がすくむ。コーラルが死んだら。一人になったら。私はどう生きていけばいいだろう。負傷した彼女の心配より、自分の心配をしているのか、私は? でも……考えずにはいられない。コーラルのいない世界。彼女の形に、穴の空いた世界。


 38地区は静かだった。医療施設に来るのは、母親が死んだ時以来だ。あの時は、そんなに怖くもなかった。私はまだ子供だったし、母はずっと病弱だったから、覚悟もあった。何より、母とはそれほど長く過ごしたわけじゃないから。

 静けさは、死を感じさせる。戦場の死よりも、もっと暗いもの……動きのない、終わりの世界。緩慢な足取りで廊下を歩いていると、突然、静寂が破られた。後ろから、ガラガラとけたたましい車輪の音。

「すみません、そこ、どいて下さーい。患者さん通りますのでー」

 言われた通り壁際に退いてから、通り過ぎるものの正体に気づく――担架だ。乗せられているのは……

「コーラルッ!」

 反射的に、叫んでいた。担架の上には布がかけられて、血まみれで、顔なんかまるで見えなかったのに、私はすぐにそれが彼女だとわかった。勢いよく通りすぎて行く担架に、走って追いすがろうとする私を、一人の女が遮った。

「大丈夫、落ち着いて。アシュリンさんよね?」

 なおも担架につかみかからんとする私の両手を、彼女はぐっとつかんでひとまとめにし、上からさすった。すごい腕力。思わずきょとんと見つめてしまう。金色の髪に、凛々しい顔。鳶色の瞳。

「あ……」

「私、ハリエット少尉の同僚です。彼女、これから手術だから、今は会えないの。でも、命には別状はないから、安心して。大丈夫、ほら、深呼吸」

 担架は音を立てながら、廊下の奥へ消えていった。私は言われるまま深呼吸して、ようやく落ちつきを取り戻す。今日は、取り乱してばっかりだ。女性に付き添われて、近くの椅子に腰掛ける。

「……無事なんですね?」

「ええ、無事……と言ってしまっていいものかどうか……っと、余計なこと言ったな。くそ、私も動転してるのか。みっともないな。ごめん」

 急に暗くなったり、笑ってごまかしたり。表情豊かな横顔を見て、私はようやく彼女の正体に気づく。エリスがさっき話していた、二番目の姉……Bだ。名前は忘れたけど、同じ髪の色、瞳の色、顔つきもよく似ている。そういえば、エリスはどこに行った?

 見回すと、エリスはどこからかコップを二つ持って、こちらに歩いてくるところだった。その姿に気づいて、Bが「げっ」と声をあげる。

「E、ここで何してる? 初仕事だってはしゃいでたくせに、もうサボってるわけ? あきれた妹だよ、まったく」

 開口一番に責め立てられて、憤慨するエリス。

「わたし、お仕事でアシュリンさんについてきたの! 外で恥ずかしいこと言わないでってば。Bは無神経なんだ、いっつもいっつも……Aが戻ったら叱ってもらわなきゃ」

 姉妹喧嘩の間に座った私は、苦笑いするしかなかった。こんな風に距離の近い姉妹は、珍しい。シティの子供達は年齢差が大きいし、幼い頃は養育所で他の子供と一緒くたに育ち、少し経つとすぐ訓練校に入れられるから、姉妹と過ごす機会はほとんどないのだ。私にも三人姉妹がいるが、一人はだいぶ昔に死んで、二人は顔も知らない。

「ごめん、変なとこ見せて。それより、あなたには……話しとかなきゃいけないことがいくつかある。エリス、ちょっと向こうに行ってて」

 Bはふっと表情を曇らせた。エリスも空気を察したのか文句を言わず、水の入ったコップを私のそばの椅子に置いてから、隠れるように私たちから離れた。

「まず、何があったかということね。私たちは、西側の偵察に出てた。南で戦端を開く前に、西の落ち着き具合を見ておきたかったわけ。でも、シティが予想したほど連中は大人しくはなかった。あるいは、向こうの領域に踏み込みすぎたのか……観測地点に着いてすぐ、ハリエット少尉は、炸裂矢にかすられた。……顔を。幸い、火薬は不発だった。だから、身体は無事。でも、顎を半分持っていかれた」

 掌から、汗が吹き出た。ほっとする気持ちと……ぞっとする気持ちと。心がねじ切れそうだった。

「再形成が必要になる。骨と、皮膚と。うちのシティはそういう技術ならしっかりしているし、最近はいい素材があるから、生活に支障はない、はず。いいえ、ないようにする。私の全てを賭けても」

 Bは唇を噛んで、思いつめた表情で私を見た。

「つまり……彼女、私をかばって矢を受けたんだ。上官としても、友人としても、人間としても、彼女に返せないぐらいの借りができた。だから、少なくとも、できる限りのことをさせてほしい……そうすることを、許してくれる?」

 Bの声は震えていた。軍人らしく、泣きはしなかったけれど。上官といっても、私やコーラルと年齢はそう変わらない。せいぜい20代半ばだろう。責任の重さに怯えても無理はない。

「私はあなたを責めないし、コーラルも望んであなたを守ったんだと思うけど。あなたがそうしたいなら、気の済むようにしてくれていいわ」

 これから、何が起きるかわからないし、お金の支援があるに越したことはない。それに、きっと彼女が自分を許すために、罪滅ぼしが必要なんだろう。私の答えに、Bはふーっと長いため息をついた。

「ありがとう。少し楽になった」

 もう一度、大きなため息。今度は、ややぶっきらぼうに。

「あとで、ハリエット本人も説得しなきゃいけないけどね。頑固な奴だから、どうすりゃ聞いてもらえるか……そう、あなたも、必要なことがあったら何でも言ってよ。アシュリン」

 きょとんとして顔を上げると、Bはさも当然の事という風に笑っていた。

「あなたは彼女のパートナーで、つまりは半身(ベター・ハーフ)でしょ。だから、私はあなたにも半分借りがあるわけ。まあ、それを抜きにしても、友達の友達でしょ」

「……ありがとう」

 コーラル本人が寝ている間に、彼女を介して初対面の私たちが仲良くなるのは不思議な感じがした。

「ベター・ハーフか。結構、可愛いこと言うんだ。独身?」

「……」

 つい調子に乗る私に、Bはむっとして黙り込んだ。そういえば、まだ本当の名前も思い出せてない。

 ――静かになった途端、手術室の機械の音が聞こえた。ぞくっ、っとまた寒気がして、私はBのそばに手を伸ばす。彼女は何も言わずそれを握り返した。彼女の手も、汗をかいていた。


 手術はまもなく終わったが、人工骨が固着するまでは絶対安静ということで、病室に入れるのは結局次の日になった。医師からははっきり成功とも失敗とも言われなかったけれど、大きな問題はなかったようだ。Bは事務処理のために軍に戻って、私は待合室で毛布をかぶって眠った。浅い眠りだったけれど、コーラルが近くにいることを知っているせいか、寝つきは悪くなかった。


 目が覚めると、天井の灯りはまだ明け方の薄明モードだった。深く呼吸して、腰を上げると、なぜだか、無性に胸がわくわくした。なぜだったのか? 今になって、はっきりと、気がついたのかもしれない。コーラルが、生きているということ。それが、自分にとってどれだけ大きい意味を持っているか。そう、いつも口に出しては言わなかったけど……彼女は確かに私の半身で、彼女がいないと私は生きていけないんだってこと。

 面会できるのは10時頃になるということだった。私は一旦、部屋に戻っていろいろ持ってくることにした。入院が長引くなら、コーラルの着替えがいるし、彼女が気に入ってる旧時代の俳優のポスターも、あれば気が安らぐかもしれない。

 普段は方向音痴なのだけど、今日に限っては、不思議と迷わずにシティを横断できた。帰巣本能というやつだろうか。昔は「鳥」って生き物が空にいて、そんな能力を持ってたらしいって、本で読んだ。

 空を飛べたら――こんなシティを離れて、こんな世界を離れて、争いもない、血の流れない、静かで、ずっと笑って暮らせる場所に行けるだろうか。でも、鳥たちも結局は死んでしまった。つまり、空を飛べても、同じようにただ血を流して死ぬのだろう。

 部屋に戻ると、匂いを感じた。慣れた部屋の生活臭に混じって、どこか、遠く覚えのない匂いがした。花だ。コーラルが持ち帰った、お土産の花。いつも枕元に置いていたのに、この香りに私はまるで気がついていなかった。コーラルと喧嘩した時、必ず「無神経」と罵られる理由がよくわかった。

 自分のベッドまで歩いていって、瓶に挿した小さな花を眺めた。わずかな水を吸って、かろうじて生きている、青と緑の、奇妙な生体オブジェ。なんて儚いんだろう。きっと、あと数日もすれば萎んで死んでしまうに違いない。なのに、おまえはどうして、そんなに美しくあろうとするの? ただ生きているだけ、それだけのことを、どうして……

 不意に、どっと涙があふれた。理由なんかない。要するに、情緒不安定になっていたんだろう。でも、いやな気持ちではなかった。涙も悪いものじゃない。ただ、頬の上をすっと流れて消えていく、儚いしずく。手折られた花のように。この星を生きる私たちのように。

 私は他の荷物をあきらめて、ただその瓶だけ抱えて部屋を出た。両手でそっと、こぼさないように、落とさないように。運動神経の鈍い私も、この時ばかりは転ばなかった。


 病室に入ってからも、コーラルはしばらく薬で眠らされていた。顔は固定器具で覆われて、顎のあたりはガーゼで見えない。見えなくてよかった、と一瞬思う自分の不甲斐なさ。まあ、それぐらいは許そう。

 あれこれ数値をメモする看護師の横でじっと待っていると、やがて、彼女がうっすら目を開けた。飛びつきたい気持ちを抑えて、そっと右手を握る。コーラルの瞳は、二、三度部屋を見渡して、それから私をじっと見た。何か言いたげだったけれど、自分の顎を動かせないのは分かっているらしかった。

「コーラル……」

 言いたいことがたくさんあって、それしか口に出せなかった。コーラルはまだ麻酔で朦朧としているみたいだったけれど、鼻で深く息を吐いて、「あきれた」という風に瞳をぐるっと回した。いつもの彼女だった。


 それから三日、コーラルはずっとベッドで横になっていた。意識はもうはっきりしていたから、筆談で、いろいろと話をした。Bことベアトリス・ペリルも何度か訪れて(ようやく名前を聞き直せた)、私はその間少し席を外したけれど、話したいことは話せたようだった。

 三日目の夕方、仕事場に顔を出すと、同僚のカラにうわっと驚いた声を出された。

「あんた、何してるの。しばらく休むって聞いたけど」

「……そうなの?」

 こちらからは何一つ連絡を入れていなかったから、今頃クビかと思っていたのに。モードールが手を回しておいてくれたのか。なんだかんだ言って、上司としては頼っていい人間なのかもしれない。

「何、忘れ物?」

「ええ、ちょっと。描きたくて」

 私は再生紙のスケッチ帳を数冊たばねて、病室に戻った。

 自分でも言った通り、心底絵が描きたかった。こんな風に、仕事以外の理由で絵を描きたいと思ったのは初めてだ。もともと、シティ住民が絵を描く機会は多くない。私もデザイン室への配属が決まってから、当時の先輩方の見よう見まねで描き方を覚えた。画材もタダじゃないし。今だってスケッチには、支給品の鉛筆がもったいないから自前の炭を使ってる。

 コーラルが眠る横で、私は彼女の閉じた瞼と、瓶に入った花を見比べながら、無心に炭を動かした。花は毎日、少しずつ枯れていった。一方、彼女は毎日少しずつ元気になっていく。まるで命が移っていくようだけれど、それはただの錯覚だろう。

 ある午後、うたた寝していた私を、コーラルの手が揺り起こした。彼女の目は怯えていた。看護婦を呼ぼうとする私の手を力強く抑えて、スケッチ帳を奪い取り、一言書いた。

(死にたくない)

 私が肩を抱いて、大丈夫、あなたは死なないよと言い聞かせると、今度は別の字を書いた。

(死にたい)

 その時、コーラルが何を思っていたのかわからない。あとで聞いても、覚えていないと言った。痛み止めのせいで意識が混乱していたのかもしれない。あるいは、射られた時の恐怖が蘇って、パニックになったのか。

 それとも、本当にその両方を思っていたのかもしれない。生きたいと、死にたいと。死を免れても、この世界に残ることは、苦しみの方が多いと私たちは知っているから。それでも、彼女が生きてくれたことを私は喜ばしいと思う。勝手なものだ。


 そうして、彼女が一ヶ月寝ている間に、私はタム・リン隊の制服デザインをすっかり仕上げていた。そう、私は結局仕事の絵を描いていたのだ。職業人の悲しさか、何を描こうとしても、いつのまにか服の絵になっていた。

 でも、今度は誰かの思惑のために描くわけじゃない。私はシティの要望も、モードールの話も全部忘れて、ただ自分が見たいと思うもの、あってほしいと思うものを形にすることだけ考えていた。それは、私自身のためにこそ、形にしなくてはならなかった。絶え間なく、死に向かって進み続ける世界にあって、何かひとつ、たったひとつでいいから、そこにあり続けていてほしいと思えるもの。瑞々しく、しなやかなもの――私の小さな祈り。

 ほとんどボツにされるつもりで描いたのだけれど、モードールは気に入ったらしく、彼女の推薦でめでたく最終審査に提出された。あとは上層部の判断待ちだ。

「こえ、なに?」

 固定器具を外したばかりのコーラルが、私のスケッチ帳を覗き込んで言った。発音が舌足らずなのは、新しい骨にまだ舌が慣れていないせいだとか。

「次に作る服のスケッチ。まだ見せてなかった?」

 私が絵を差し出すと、コーラルはしばらくそれをじっと見て、首をひねった。

「これ、服なの? ふうん。花かなんかと、おもっら……おもった」

 彼女は回らない舌に不満な顔をしつつ、言い直す。一週間もすれば元に戻るだろうと言われたけれど、本人は少し不安そうだ。気持ちはわかる。体の一部がなくなって、別のものに置き換わったのだ。全く同じに戻れると考えるのは、楽観的な幻に思えてしまう。

「それはまだ、アイディア用に描いたやつだからでしょ。これに手足をつけて、もう少しシュッとさせれば服らしくなるの。今度、決定稿を見せてあげるわよ」

 私は言い訳がましく口にして、スケッチ帳を取り上げる。

「はい、はい。まあ、でも……きれいらと思うよ。いい服になうんじゃない」

 その小さな一言が、どれだけ私の救いになったか。

 祈りが誰にも届かないとしても。この世界が何も変わらないとしても。あなたの言葉で、私は絶望せずにいられる。この世界を呪わずにいられる。あなたが生きていてくれたから。

「ありがと」

 はにかむ私をよそに、コーラルはふーっと長いため息をついて、おそらく無意識に、そっと、自分の顎に触れた。まだ青黒い皮膚の途中から、生々しいピンク色の人工皮膚へとつながり、その内側には白い人工骨が薄っすらと見えている。まわりの皮膚と馴染めば見栄えもよくなるとか、後で「お洒落な顔面カバー」をしつらえて隠す手もあるそうだけど、退院まではひとまずこのむき出しの傷に慣れなくてはならない。実を言うと私はもう結構慣れつつあるのだけれど、コーラルはまだそれを新しいチャームポイントとは思えていないらしい。

「ねえ、コーラル」

 不安げな気持ちを感じ取って声をかけると、コーラルは身じろぎして、眠たげな目で私を見た。

「なに」

「戦争が終わったらさ。あの花を見つけたとこに連れていってよ」

 壁際に置かれた瓶には、すっかり枯れた植物の茎だけがまだ刺さったままになっていた。花は落ちてしまったから、拾って部屋に持って帰った。コーラルによると、花の中には種があるという。質のいい土に埋められれば、また新しい花が生まれることもあるのだとか。

「私たちが生きてう間には、終わらないと思うけろ」

「……たぶんね。でも、夢みるくらいはいいじゃない」

 夢みよう。きっと、いつか美しい朝が来ると。目の前にある世界の醜さを見据えて、それでも少しずつ、傷つきながらも、生きてゆけると。戦場に咲いていた、小さな花のように。

「愛してるよ、コーラル」

「……変な薬でも飲んだの?」

 しかめっ面をしながらも、彼女は自分の左手を私の右手に載せた。


(おわり)

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戦場の花 あば あばば @ababaababaabaaba

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