21.入滅

おやじの具合が悪くなったのは、金吾のだんなや、池上の兄弟の騒動がどうやら収まったころだった。おやじが五十七、八のころからだ。腹をくだしちまったってことでね。昼も夜も、何度もかわやに通わないといけなくなった。食も細くなって、やせてきてさ。

お釈迦さんも、亡くなったのは、悪いものを食べて腹をくだしたのが元だったっていうじゃねえか。おやじは悪いものを食べたわけじゃねえけども、おやじが言うには、気持ちの上での苦労というのが、腹の中を悪くするらしい。長年の苦労と疲れがくだり腹にあらわれたんだと言ってたよ。

それで、もうそろそろダメだろうから、お前たちも覚悟しておけと言われたよ。去年、池上兄弟に送った手紙にもそう書いてあった。


【この法門申し候こと、すでに二十九年なり。日々の論義、月々の難、両度の流罪に、身つかれ心いたみ候いし故にや、この七・八年が間、年々に衰病おこり候いつれども、なのめにて候いつるが、今年は正月よりその気分出来して、既に一期おわりになりぬべし。その上、齢既に六十にみちぬ。たとい十に一つ今年はすぎ候とも、一・二をばいかでかすぎ候べき。】


(この南無妙法蓮華経の教えを説き始めて二十九年が経ちました。数々の論議や迫害、二度の流罪のために、体は疲れ、心も痛むせいか、ここ七、八年の間は、年々に病気の症状があらわれて、体調がよくなかったけれども、今年の正月からまた症状が重くなり、すでに命の終わりが近いということでしょう。その上、歳も六十になりました。十にひとつ、今年は大丈夫でも、さらに一年、二年と生きながらえることは決してありません)


そんなだったけど、それでもおやじは弟子たちに法華経の講義をしたり、金吾のだんなや池上の兄弟、熱原で頑張っている日興たち、それから南条時光といった人たちに激励の手紙を書いては送っていた。よほど具合の悪い時には、大人しく布団で横になっていたけれども、少しでもよくなると、布団の中から弟子たちを呼んで、あれこれと指示をしたり、話した内容を手紙に書かせて人に送ったりしてたんだ。


今年、おやじは六十歳になって、夏の七月ごろに、身延の山を下りたいと言い出した。

弟子たちを集めてこう言うのさ。もちろんおれも端のほうで聞いていた。

「皆、聞いて欲しい。私は、寒いのは好かん。死ぬときは暖かいところで死にたい。だから春のうちに死ぬつもりだったが、もう少し書き遺しておく法門もあったから、書いたりしているうちに、はや夏になってしまった。このままではやがて秋になり、冬になってしまう。いや、秋にはもう寒くなってくるだろう。それはいやなのだ。近ごろ、常陸の国まで弘教の旅をしていたときのことを夢に見た。あの時、皆で温泉に入っただろう。あれはいい湯だった。小松原で東条景信に襲われた時の傷も、あの温泉の効力でいっぺんに治ったような心地になったものだ。私は死ぬ前にもう一度、常陸の温泉につかりたい」

弟子たちは、ゴクリとつばを飲んだ。まさか、病も重いのに、山を下って常陸の国まで旅をすると言い出すんじゃねえだろうな、と肝を冷やしていたんだが、そのまさかだったよ。

「私を、常陸の湯まで運んでくれ。今はまだ、一時期よりは具合もよいから、馬に乗るぐらいはできる。波木井殿に頼んで、よい馬を借り受けてくれ。そのほか、旅に必要なものをそろえて、ひと月後には出発できるよう準備するように」

弟子たちの反応は、喜ぶ者と嘆く者と、半々だったかな。だが、強く反対するやつはいなかった。いたらおれがぶちのめしたんだが。


そこからワイワイ騒いで、波木井の殿さまから馬を借りたり、借りたというか殿さまは気前よくおやじにとびきりのいい馬を進呈したんだが、それから各地の弟子たちに知らせてやって、道々でおやじを出迎えるよう伝えた。


金吾のだんなや、富木常忍、池上の兄弟たちは、飛び上がって喜んだよ。病気の体で大丈夫なのかと心配もしたが、おやじが山を出て平地に下りて来てくれる、ってそのことの嬉しさにはかなわない。


身延を出発した時には、おやじは馬に乗っていた。そのくらい元気だった。おれや日興がいて、他にも身延の弟子たちの中から五、六人、足腰の特に頑丈なやつらが荷物運びとしてついてきた他に、波木井の殿さまも自分の息子たちをわざわざお供につけてくれた。その行列が、せまい山道をぞろぞろと進んだのさ。


富士山を右手に見ながら、相模の海に向かって進んで、酒匂さかわに出てからは、海を見ながら鎌倉のほうに行った。しかし鎌倉へは行かねえで、平塚から道を変えて、武蔵の国に入ってこの池上兄弟の屋敷を目指した。


道々、おやじの教えを信じる武士や百姓たちが出て来ては、おやじと顔を合わせて、話し込んだ。中にはおやじに難癖をつけてくる坊主たちがいたりもしたけれど、これは日興たちが法論して蹴散らしていった。


おやじは道中ずっと機嫌がよかったよ。懐かしい人たちと会えたのも嬉しかったし、日興はじめ弟子たちが念仏や真言の坊主たちを蹴散らす姿も、頼もしく思えたんじゃねえかな。


ただ、洗足池とそのほとりにあるこの池上の屋敷が遠くに見えて来たころ、おやじはどんどん調子が悪くなってね。この屋敷に着いたころには、だいぶ弱っていたよ。着くとすぐ、おやじは床に臥せった。


それでも、この屋敷におやじがいると聞いて、おやじを慕って駆けつけて来る人の数がどんどん増えていくと、しばらくの間だけどおやじは元気を取り戻した。せっかくみんなが来てくれたんだったら、てことで、布団から起き上がって出て来た。それで、おれと日興の手を借りてどうにか屋敷の柱に背中をもたれると、その姿勢で、かつて北条時頼に提出したあの「立正安国論」の講義を始めた。寝てるのもつらそうだったのに、最後の力を振り絞って、門下の人たちに教えを説いたんだ。


「立正安国論」は、言うまでもなく、念仏をやめろ、謗法をやめろっていう、おやじの教えだ。おやじは、大きな目を光らせて、念仏、禅、真言、律宗の奴らの教えを、打ち破っていかないといけねえってことを訴えた。門下の中には、謗法を責めるのはもうやめようって考え方の連中もたくさんいる。せめて、比叡山の天台宗とだけでも仲良くして、念仏や真言を責めるのはほどほどにして、ただ南無妙法蓮華経を広めていけば、それでいい。謗法を責めなくても、南無妙法蓮華経のいいところを説いて、広めていくことはできるはずだ。念仏が栄えているのは、もうほっといて、こっちはこっちで栄えるようにしていけばいい。それもまあ、ごもっともな意見だろうさ。でもおやじの考えは違う。日蓮のおやじの教えは、どこまでも謗法の破折だ。比叡山に尻尾を振るなんてこともやるこたあねえ。


その日から1ヶ月もたない、十月十三日の朝、おやじは門下の人たちに見守られて息を引き取った。空気が澄んで気持ちのいい秋の朝だったよ。ちょうど六十歳だった。


おっと、こっちももう朝だね。すずめが鳴いていやがる。いや、長いこと話しちまったなあ。ま、葬式の様子なんかは、お前も知っての通りさ。


おやじがあのまま身延の山奥で亡くなっていたら、どうなってたと思う?そりゃあ大変だよ。おやじの葬式に出て最後のお別れをしたい人たちは、山越え谷越え、身延まで来ねえといけなくなるんだから。わざわざおやじが山を下りたのは、温泉につかりに行くと言いながら、本当は門下のみんなに大変な山登りをさせたくなかったのと、みんなにもう一度会いたかったからだと思う。


それにしても、おやじが死んじまうなんてなあ。おれはてっきり、おやじは体も強かったから、七十、八十、九十、百までも生きると思っていたよ。富木常忍のおっ母さんだって九十すぎまで生きたしね。でもそれは甘かった。おやじもちゃんと生身の人間だったよ。


そう、おやじがどんなすげえ人だったのかと、聞かれれることがあるけども、いやおやじその人自身は、普通の人だったよ。体がでかくて力が強いのと、威勢がいいのと、親切で人の面倒を見るのが好きなのは、すこし抜きんでていたかもしれねえけど、そんなものすごいってほどじゃねえ。あー、勉強熱心なのと、筆マメなのはすごかったかな。


身延にいたとき、おやじが法華経の寿量品のなかの一節をおれに教えてくれた、


一心いっしん欲見よっけんぶつ 不自惜ふじしゃく身命しんみょう 時我じがぎゅう衆僧しゅうそう 倶出くしゅつ霊鷲山りょうじゅせん


仏に会いたいと一心に願って、命も惜しまずに励むとき、仏はいつでも弟子たちと一緒に、霊鷲山に現れる、とこういう意味らしい。


仏っていうのは、日蓮のおやじのことだと考えていいだろう。おやじは死んじまったけども、おれたちが南無妙法蓮華経と唱えて、懸命に信心に励めば、おやじはいつだって、心の中の霊鷲山に出て来てくれる。さびしいし悲しいけど、おやじは、いなくなったわけじゃねえし、お別れしないといけないわけでもねえ。おやじが教えてくれた、南無妙法蓮華経を懸命に唱えて生活に励むとき、いつでも日蓮のおやじは一緒にいるんだ。


だからまあ、何が起きるかわからねえ世の中だけど、いっちょう励んで行こうじゃねえか。ひと眠りしたら、おれと一緒に南無妙法蓮華経を唱えよう。早起きのやつは、もう朝の勤行を始めてやがるよ。


おわり




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末法の荒凡夫 @atta-k

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