20.熱原の法難
日蓮のおやじは、竜の口で首を斬られそうになったとき、金吾のだんなに向かって、
「これほど喜ばしいことはない。笑いなさい」
と言った。首を斬られることこそ、自分が願っていたことなんだって言うんだ。
夜空に光り物が現れて、役人たちが首斬りどころでなくなって、あわてふためいていた時も、おやじは大きな声で、早く斬れと役人たちをどやしつけてた。
竜の口のすぐ後、富木常忍に宛てた手紙の中では、首を斬られないでいることのほうが、不本意だったとも言ってた。
【御
(あなたが悲しまれるのは仕方のないことですが、必ず首を斬られると以前から覚悟していたので、私は悲しんでいません。今まで首を斬られなかったことのほうが、不本意なことです)
なんだってそんなに、おやじは首を斬られてえのか?法華経のために首を斬られれば仏になれるって言うけども、それはなんでなのか?
おれは何回か、おやじにそれを尋ねたことがある。尋ねて、おやじが答えると、そのときはまあ、そういうもんかと思うけども、しばらくするとまたよくわからなくなって、また尋ねる。それを何回かやった。なんせ頭が悪いもんで、それでもいまだに、よくわかってねえ。
ともかく、おやじが答えたのはね。
「何としても正しい仏法を広めたい人たちと、何としても正義を歪めて悪を広めたい魔の力が、ぶつかることがある。いや、その二つの勢力はいつもぶつかりあって、押し合いをやっている。魔の力はとても強くて、猛烈に押してきたり、逆に引いて油断させたり、うまい酒を飲ませようとしたり、財宝を積んでみせたりするんだが、何をやってもダメとなったら、正しい仏法を広めようとする人の首を、チョンと斬るんだ。斬られる前に逃げ出せば、魔の勝利だ。しかし、その人が逃げ出さず、首を斬られたとき、魔はそれ以上何もできない。正しい仏法が勝利し、魔はそこから先には進めなくなる」
と、そう言うんだよ。それでおれが、ウーンと考えて、
「でも、死んじまったらそれまでじゃねえか。魔は引き返すかも知れねえけど、その正しい人もそこで終わりだ。おやじが死んじまったら、おれたちはどうするのさ。それに、たとえばその人が妻も子もある人だったとしたら、残された妻や子は、ずいぶん困ったことになっちまうぜ?」
とゴネると、おやじは面白そうに、
「お前ならどうする。妻や子のために、魔の軍勢に道を譲るのもいいだろう。だが、魔の軍勢は、喜んで先に進んで、その先で、たくさんの人を不幸にするぞ」
と言う。
「いや、魔にスイスイ進まれるのはシャクにさわるから、おれは譲らねえ。でも、死んじまっちゃあなあ。首まで差し出すこたあねえんじゃねえか。とりあえずその場は何とかしのいで、工夫して、死なないようにうまくやるってわけにはいかねえのかな」
おやじはうなずいた。
「そうだ。誰だってそう考えるだろう。これまで、そうやってたくさんの人が、正義を知りながら、しぶしぶ、このぐらいなら許されるだろうというていどに、魔に道を譲ってきた。その結果が、今のひどい有様なんだと、私は思う。だから私は、魔にいっさい道を譲らない姿をみんなに示したい。首を斬られても退かなかった奴がいたんだ、ということを、みんなの心に刻みたい。一人の仏弟子が首を斬られても、百人、千人の仏弟子が一度に首を斬られても、すべての仏弟子がまったく滅びることはない。退かなかった姿を見た者が、必ず後に続いて仏法を広めていくんだ。竜の口で、首を斬られるところをお前たちに見せてやれなかったのは、本当に残念だった。この身が死しても魔に道を譲らない姿を人々に示すことの意義は、正しい仏法を流布させていく上で、無限大に大きい」
そんなことを言ってたよ。
どうもおれには難しくて、いまだにわからない。ただ、
駿河の国の
この行智は、北条家の威光を背負って、ロクに仏法を学んでもいないくせに、「
この熱原ってところは、日興が小僧のころから暮らしていた岩本実相寺に近い。四十九院っていう、実相寺とは兄弟のような関係にある寺も、近くにある。日興は、佐渡から戻って来たあと、実相寺と四十九院、それから滝泉寺、この三つの寺の周辺の地域を布教の舞台にして、南無妙法蓮華経の教えを熱心に広めた。
日興と言えば、伊豆の流罪の時も、竜の口の時も、佐渡の流罪の時もおやじと一緒にいたけども、おやじが身延に入ってからは、そうでもねえ。身延のおやじのそばを離れて、南無妙法蓮華経の布教の大将として、駿河の国で活躍していたんだ。
実相寺も、四十九院も、滝泉寺も、元々は天台宗の寺だから、法華経を学ぶ伝統はあった。ちゃんと法華経を勉強しているまっとうな坊さんたちの中には、日興の教えを聞いて納得して、南無妙法蓮華経を唱え始める者も出て来た。
特に、
滝泉寺の院主代、行智は、日興の布教に怒り狂った。この行智は念仏の信者で、坊さんたちに念仏を唱えさせていた。それを、日興は、日蓮のおやじの言う通りに「念仏は無間地獄の因」と説いて、念仏をやめさせるんだもの。しかも、滝泉寺の坊さんたちだけでなく、地域の農民たちまで、日興や日秀、日弁の教えに納得して、念仏を捨てて、南無妙法蓮華経を唱えるようになっていった。
行智から見たら、日興は、自分の縄張りを荒しに来た侵略者に見えただろう。黙ってやられてたら滝泉寺の院主代という自分のメンツをつぶされちまうし、立場が危うくなると焦ったにちげえねえ。
そこで行智は、日秀と日弁、そのほか南無妙法蓮華経の信心を始めた滝泉寺の坊さんたちを呼び出して、南無妙法蓮華経をやめて南無阿弥陀仏と唱えると誓え、そうでないと追放するぞと脅した。
日秀たちは、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏、どっちが正しいか、正々堂々、法論しようと求めた。しかし行智は、極楽寺良観なんかと同じで、攻撃はしてきても法論には応じない。追放処分は、滝泉寺の方針に従わない、決まりごとを守らないことへの処罰であって、法論は関係ない、とそういう理屈さ。
この時に、追放を恐れて、行智に言われるまま、南無妙法蓮華経の信心をやめますと起請文を書いて降参した奴もいた。ただ、日秀と日弁は、行智のやることはデタラメだと主張し抜いて、追放の処分をくらった。とはいえその処分も不当だってのが日秀たちの主張だから、寺からは追い出されたものの、日秀と日弁はそのまま熱原の地に留まって布教を続け、農民信徒たちと一緒に生活していた。
行智のひどいやり方を見て、日興や日秀、日弁たちはかえって農民たちから信頼されるようになった。もともとこの滝泉寺も、滝泉寺と連携してる実相寺と四十九院も、悪名高いクソ坊主どもが充満していて、農民たちを困らせていたからね。寺に女たちを連れ込んで朝まで飲んで騒ぐ、池の水に毒を入れて浮いて来た魚をとって村人に売りつける、村人に鹿やうずらを狩らせてその肉を食う、そんなことをやって平気な坊主どもだった。
日興たちは、正しい仏法を広めただけじゃなくて、それぞれの寺の坊主たちの、人として許せない悪行を指摘して、抗議して、場合によっちゃ訴訟するってこともやっていたんだ。
行智たちの攻撃はだんだんと激しくなった。最初は脅しや嫌がらせだったのが、あからさまな暴力行為に変わっていった。それでも農民信徒たちは理不尽な念仏の強制に従わない。
日蓮のおやじが五十八歳のとき、行智は強引な実力行使に出た。熱原の農民信徒たちを、無実の罪で逮捕して、連行したんだ。
一応の理由としては、農民たちが他人の田んぼに乱入して稲を刈り取って盗んで行った、というんだが、全くのデタラメさ。農民たちは日秀が持っていた田んぼの稲の刈り入れを手伝っていたんだ。そこに行智の息のかかった役人たちがやってきて、稲を盗んでいると難癖をつけて、逮捕しちまった。
なんでそんな無茶な逮捕ができたかというと、ウラにいたのは
連行された農民たちは二十人ほどいたそうだ。頼綱は農民たちを、罪人として厳しく尋問した。尋問といっても、罪を犯したかどうかを調べたんじゃねえ。
「南無妙法蓮華経の信心をやめて、南無阿弥陀仏と唱えろ」
と、脅したんだ。裁判でも何でもねえ。
熱原の農民たちは、誰も頼綱の脅しに屈しなかった。逆上した頼綱は、
「南無阿弥陀仏と唱えないと、首をはねるぞ」
と、わめき散らした。
どうだ、この狂いっぷりは。人々を救ってくださるありがたい仏様の名前を唱えないと、罰としてブチ殺すっていうんだ。仏法の荒廃も極まれりだよ。
ところで、形の上では、農民たちを訴えたのは、同じ熱原の農民である
頼綱が怒り狂って、農民信徒たちの首を斬るとわめいた時、じゃあ俺たちの首を斬れと進み出たのは、この弥藤次の弟たちだった。神四郎、弥五郎、弥六郎っていう三人の男たちだ。自分たちの兄が、悪僧・行智と手を組んで、熱原の仲間たちを訴えたことに、悔しい、情けない思いをしてたことだろう。そうでなくても、純粋一途な男たちだったそうだよ。首を斬るなら、訴え出た本人の弟である、自分たちの首を真っ先に斬れ、と頼綱に迫った。
狂乱の極みにあった頼綱は、堂々とした三人の雄姿を見ると、目もくらむほどに逆上して正気を失い、とうとう、三人の首をはねちまった。
だが、それ以上は、どうすることもできなかった。いくら暴悪な平頼綱でも、罪人と決まったわけでもない農民たちを、まさか二十人も斬首するわけにはいかねえ。結局、裁判どころではなくなって、農民たちは村に帰された。
その後も、滝泉寺、実相寺、四十九院の悪僧たちと日興たちの闘いは続いてる。おやじは死んじまったけど、日興がしっかり後を継いで、悪僧たちとの闘いも続けていくだろうよ。
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