世界が終わるその時まで君の隣にいさせてほしい

トレケーズキ【書き溜め中】

第1話 Heavenly Romance

 初夏、蝉が鳴き始めるような頃。

 どうやら世界は終わるらしい。

 人間は皆いなくなるようだ。

 ニュースで専門家が深刻な表情で何かを語っていた。新聞でも連日その話題だった。外国の武装組織によるテロも、画期的な新薬が実用化された件も、有名俳優の浮気も、スター選手のノーヒットノーランも、新聞の1面やニュースサイトのトップに載ってない。

 ただただ、世界の終わりを大きく報じている。

 どうして世界が終わるのか、誰かが言っていた気もするけど、覚えていない。まぁ、この際理由なんてどうでもいい。どんな論理ロジックを辿っても、納得に至る気がしないし。

 それに……


 "今日、世界が終わる"


 そんな事実を突き付けられているだけで、もうお腹一杯だ。



 休日の昼下がりに僕は家の外に出る。

 少し、暑い。今日世界が終わる事などまるで知らないとでも言わんばかりに、晴れた空が太陽を歓迎している。

 庭に咲く花や向かいの家の木は、消えゆく世界への抗いなのか、限りある生命を輝かせるように青々と茂っている。

 しかし、そんなエネルギーに満ちあふれた様子とは対照的に、静かだった。車の通る音さえ聞こえない。まるで自分以外誰もいないみたいに。

 でも、僕は玄関先に人影を捉えた。

 僕の事を待つ人がいる。


「やっほ、さっくん。お誘いありがと」


 クロックスとシャツ1枚で外に出た僕を、真っ白なワンピースの女の子が迎える。


「…………柚葉ゆずは


 僕は彼女の名前を呼ぶと、嬉しそうな笑顔が返って来た。

 そんな彼女を、じっと眺める。

 日の光を浴びて茶色に染まる長髪と、それを覆う大きな麦藁帽子。まだ日に焼けてない白い腕は、壊れそうな程に細く見える。

 端正な顔立ちは、無邪気に白い歯を僅かに見せている。


「どうしたの。いこうよ」

「ああ、うん」


 背を向けて歩き出した彼女に、僕は肩を並べる。クロックスとサンダルがアスファルトと擦れ、その音が小路に僅かに響く。

 ふと空を見ると、飛行機雲コントレイルが一つ出来ていた。

 文明が空に生み出したあの軌跡も、きっと見るのは最後になるのだろう。

 幾年もの時を積み重ねて来た、僕の好きなこの街並みも、明日を迎える事はない。

 若葉をいっぱいに広げる街路樹も、お洒落なカフェも、店に置かれている高級そうな外車も、全て消えてしまう。もしかして、僕が今歩いているこの地面すら、存在が残る事を許されてないのだろうか。

 飛行機雲の行く先をじっと眺めながら物思いにふけっていると、左の袖をクイッと引っ張られる。


「さっくん、ボーっとしてる」

「あ、あぁ……ごめん」


 そう言われて、意識は隣に引き戻される。

 そうだ。今は一人じゃない。隣に、歩幅を合わせて歩いている人がいる。

 物思いは、一人の時でいい。

 気を取り直して、真っ直ぐ先を見て歩みを進める。

 僕と彼女が歩いている通りには、誰も人がいない。車さえゼロだ。箱庭の中を歩いているような気分だ。


「誰もいないね」


 それを思わず口にする。

 彼女は何も答えなかった。


 最早存在意義のない赤信号で、僕達は歩みを止めた。

 左腕を挙げて、腕時計を見る。家を出てから10分程度が経っただろうか。あらゆるものから取り残されたような世界の中でも、時計は正確に時を刻んでいる。

 少し不思議な気分になりながら、信号を待ち続ける。


「ねぇさっくん」


 木々を優しく揺らす風の音しか聴こえない道で、彼女はボーっと立ち尽くす僕の名前を呼んだ。


「好きな言葉って、ある?」


 振り向くと、彼女はやけにあっさりとした様子で問い掛けた。


「……どうしたんだよ、突然そんな事訊いて」

「えへへ、何となく」


 怪訝けげんそうな顔をする僕に、彼女は気恥ずかしそうに笑う。

 そんな彼女を見て、答えて損する事もないしな……と思いながら、答えを考える。

 信号が青へと変わる。変わった所で、僕達以外に動き出す存在すらないのだけど。

 僕達は再び歩き始める。


「………………キズナ」


 そして、視線を変えずにそう呟いた。


「……絆?」

「うん。何となく好き」

「何それ……」


 だって実際そうなんだもん。


「それより、柚葉はどうなんだよ」


 一方的に質問されるのもなんだか不服なので、折角だし尋ね返してみた。


「え、私? そうだなぁ……」


 細い人差し指を口元に置いて、彼女は数秒間黙り込んだのち、こちらを向く。


「ビリーヴ、かな」

「……Believe?」

「うん。日本語にすると、どんな訳か分かるでしょ?」

「信じる、だろ?」


 即答すると、彼女はすぐに質問を重ねる。

 口元にあった人差し指を、顔の横で可愛らしく揺らしている。


「ご名答。では、どんな風に"信じる"の?」


 そんな質問に、僕は言葉に詰まる。

 暫く言葉の意味を噛み砕いて、理解しようとする。頭を回すと、彼女の言いたい事が見えてきた。

 あぁ、listenが意識的に、hearが無意識に聞くみたいなニュアンスの話か。

 ただそれが分かっても、正解に繋がるものではない。

 違いはよく分からない。信じる対象だろうか。それとも信じる強さだろうか。


「答えは出ない?」

「あぁ、無理だな」

「そっか〜、なら教えてあげるっ」


 彼女は自慢げに少し声を大きくした。

 足取りも少し堂々とした様子になる。


「Believeって単語はね、希望をこめて何かを信じるって意味なの。後ろにinを付けると、強い確信を持って信じるって意味になるんだよ」

「へぇ、成る程ね」


 少し感心した。そんな事まで知ってるとは……


「しかし、何故その言葉が好きなんだ?」


 その問いを聞いた彼女は、僕の顔を見た後、歩く自分の足元に視線を落とした。


「ほら、私って身体が弱いでしょ? 時々倒れたりもするし」


 僕は返す言葉を失う。

 彼女は生まれつき心臓があまりよくない。

 昔から入院する事が多々あった。そして、激しい運動も出来ないので、運動会や体育の授業にも制限があった。

 僕も病院に見舞いに行った事が何度もある。時折見せる辛そうな顔。慣れたといって笑っていても隠しきれない辛さが、余計に僕の胸を痛めさせた。

 やつれた顔つきに、弱々しい声。物が少ない病室や、カーテンを揺らして吹き込む風。彼女とそれを取り巻く環境の寂寥せきりょう感は、今でも脳裏に焼き付いている。

 たった一度の事だが、はっきりと覚えている。2人で街中に出掛けた時、僕の隣で彼女が倒れた。僕は慌てふためいて119番さえ出来なかった。他の人の通報によって搬送されていく彼女を、見送る事しか出来ずに…………


「さっくん」


 強い声色で呼ばれてハッとする。

 彼女はこちらを向き、口角に手を当てる。

 僕は負の感情が表れる際、口角に力が入る癖がある。今も、そうして苦い顔をしていたのだろう。

 そんな様子を気にかけるように、彼女は僕の目を覗き込んで、優しい声になる。


「だから私は、Believeが好きなの。死にそうな程辛くても希望を持って、良くなるって信じたら、頑張れる気がして」


 そう言って、にへっと笑い掛ける。

 そうだ。

 彼女は強い。

 何度も辛い経験をしているからこそ、とても芯が強い。

 一方で僕はどうだろうか。

 いざという時に、誰かに手を差し伸べる事が出来ない人間。

 誰かが何とかしてくれる、その人が何とかする、そんな思い。助けたいと思っても、力になれないかもと思うと踏み出せない勇気。

 結局、僕はいざという時に動けなかった。そんな場面に出くわしても、逃げるように目を背けてきた。


 柚葉と比べると、自分の心がちっぽけに思えてしまう。

 彼女の隣を歩くのに相応しい人に、僕はなれるのだろうか。



 やがて僕達は、山のふもとから始まる坂道を登り、中腹まで辿り着いた。

 この辺りは普段から静かだ。何せ民家と墓地しかない。

 でもそれがいい。僕と柚葉のお気に入りのルートだ。

 しかし、坂道を心臓の弱い柚葉に全て歩かせるのは酷だ。だから途中から僕が背負って登ってきたのだが、人を背負うとなると、すぐに僕まで疲れてしまった。

 呼吸を荒くして、道端の日陰に座り込む。

 周りを見ると、今が盛りと咲く花が点在していた。

 民家の塀や植木鉢に、赤、黄、紫など、色とりどりの花が咲いている。他の方へ目線をやれば、プラスチック製の植木鉢と支柱に、アサガオがつるを伸ばして花を開いている。小学生の子でもいるんだろうか。

 そうして息を整えつつ辺りを見回していると、あっ、という反応と共に、柚葉はにわかに立ち上がった。

 そしてある方へ駆け寄ろうとする彼女に、僕もついていく。


「どうしたんだ?」

「ほらほら、見て」


 そう指差されたのは、一つの大きなプランター。

 南京錠カデナを掛けられた門のそばに、来客を祝うように咲く花々。それらが植えられているプランターの、その一角。

 近寄って見てみると、白い花が咲いてあった。何本もの垂れた茎から、沢山の花を咲かせている。


「胡蝶蘭だよ」


 胡蝶蘭ファレノプシス────

 あぁ、思い出した。

 彼女の好きな花だ。

 いつだかに話していた。前に友人が見舞いに来た時に貰って、いたく気に入ったらしい。


「珍しいなぁ……」

「そうなの?」

「胡蝶蘭はね、春が花の季節なの。夏に花を咲かせてるって事は、上手く温度調節をしてるのかも」

「へぇ……」

「ねね、さっくん」


 僕の方を向き、彼女が食い気味に続ける。


「胡蝶蘭の花言葉って、知ってる?」

「いや。詳しくないし……」


 彼女の視線は再び花の方へと戻る。そして、人差し指と中指の腹で、優しく花に触れる。

 一呼吸おいて、彼女は優しく呟く。


「"幸福が飛んでくる"なんだって」


 柔らかな指の上で、風に吹かれた花びらが揺れた。

 幸福が飛んでくる。

 病弱な彼女にとっては、縁起のいい花言葉だ。


「いいでしょ?」


 理由の説明もなく、そう同意を求めた。

 でも、そうかもな。彼女は何かに仮託して希望を抱ける、強い人だ。

 僕は微笑んで頷いた。



 それにしても、と僕は呟く。


「どこから飛んでくるんだろうね」


 僕は空を見上げた。

 幸福と実体のないもの。目には見えず、心で感じるもの。エピクロスはアタラクシアなんて言っている。

 どこからともなく、手を振ってこっちに来てくれそうな様子はない。


「もーっ、そういうのは考えないの‼︎」

「はは、そうだな」


 呆れた声でそう指摘され、思わず笑いがこぼれた。確かにつまらない事を考えてしまった。


 そのまま、僕はじっと空を見つめる。

 すると、あるものに気付いた。

 何やら白いものが飛んでいる。

 空に雲は殆どなく、まさに快晴。その中で、滑らかに青空を舞うそれは、目立つものだった。


「………………鳥だ」


 1羽の白い鳥。

 羽を広げてスーッと空を滑り、やがてその羽を上下させる。晴れの空に、大きく円を描くように。

 思うにカモメの類いだろう。海という食事会場も近いし。

 僕はスッと立ち上がり、その行く先を見つめる。視界から消えていくかと思えば、方向を変えて再び羽ばたき始める。

 何をしているのだろうか。

 他の鳥は見当たらない。空にただ一つ、白い羽を広げている。海上や地上に接近するような動きも見せない。餌を探している訳でもないように思える。


 あの鳥は孤独だ。

 ずっと、ひとりで空を漂っている。


 その時を楽しんでいるのか。止まり木でも探しているのか。ただ何も意味なく飛び回っているのか。

 それとも、どこにも行けないのか。

 揺れ動く青と白のコントラストを、僕は柚葉の隣で、じっと眺めていた。

 視線を左へ流すと、彼女も無言で、僕と同じ方向を見ている。白いワンピースをアスファルトに触れないようにして足をたたみ、小さく佇んでいた。

 再び僕は、視線を鳥へと戻す。

 そして、ふと呟く。



「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」



 記憶のタンスにしまわれていた一つの短歌を思い出した。


「……誰だっけ?」

「若山牧水だよ」

「あ〜思い出した」


 昔、学校の授業で触れた事のある歌。だから短歌自体は柚葉も覚えていたみたいだ。

 何か言おうと思って、それで出たのがこれだった。

 僕達が今見ている情景と重なるからだろうか。三十一文字を振り返ってみると、確かに同じだ。

 広々とした空に、一羽の白い鳥。僕達のいるこの坂道からは、海が見える。穏やかに水面を揺らし、無数に太陽の光をはね返している。

 そんな中で、あの鳥は染まる事なく、歌の通りだった。


「でも」


 突然、思惟に耽る僕に向かって、柚葉は切り出した。


「あの鳥は独りじゃないと思うな」


 しめやかな声色で、僕の方を向く。

 1〜2秒、言葉に詰まる。


「…………どうして?」

「私がそう見えるだけなのかもしれないけど」


 そう言うと、彼女は寂しそうな笑顔を見せる。



「誰かを探しているんじゃないかな」



 その不思議な笑顔に、どう反応したら良いのか分からなかった。

 その表情は、何を思ったが故のものなのか。

 それは鳥への共感か。

 まるで彼女がそうであるかのような笑顔には、僕が理解できないようなメッセージがあるような気がした。



 ふと、空へ視線を戻す。

 いつのまにか、鳥の姿は見えなくなっていた。

 餌でも取りに行ったのか、それとも木の枝にでも止まって休んでいるのか。もしくは……探していた誰かを見つけたのか。

 鳥が消えた空は青一色だった。雲一つない、澄み切った青空。


 そして、僕達以外は誰もいなくなった。


 無音のような時間が広い世界を包み込む。周りに聴こえるのは、小さく風が草花を揺らす音だけだ。

 呆然と、僕は固まっていた。空に釘付けにされたみたいに、視線も、口も動かせないでいた。

 不気味だ。

 僕と柚葉の目の前から、生命も、音も、何もかもが消えていく感覚がする。ただ音のない世界に立っているようだ。RPGで、ボスのいる場所に戦いにきた時、物語のキーポイントとなるような場面に出くわそうとする時。BGMが止まり、主人公の足音しか聴こえないような、あの感覚。

 嵐の前の静けさを、ひしひしと感じる。


 ふと、ひとりおののく僕に、柚葉が触れた。

 細い指に服が引っ張られ、意識は彼女へと向かう。


「ねぇ……さっくん」


 その声は、一筋の途切れそうな糸のように、弱々しく絞り出されて僕の耳へ届く。

 俯いた彼女は麦藁帽子に遮られ、表情は見えない。ただ、その弱々しさには、どこか不安を覚えた。

 やがて、彼女は視線を上げ、再びか弱い声を、聴くのもはばかられるような震える声を絞り出す。


「今日、誘ってくれたのには、意味があるんだよね……?」


 ハッとする。

 そうだ。今日、こうして一緒に歩いているのは、僕が誘ったからだ。

 うん、と肯定したが、それは彼女に届いたか分からない程弱々しかった。

 僕はやはり不安そうな表情の柚葉の方に向き直し、ゴクリと唾を呑み込む。

 心臓の鼓動が早く、激しくなるのが分かる。頭の中で、何かが目まぐるしく回っている。たった一つ秒針を刻む間に、いくつもの想いや考えが駆け巡る。

 僕は、自分の中に眠る勇気を探す。

 今際いまわの別れを告げるだけのつもりではなかった。ずっと前から、いつか伝えなくてはと思っていた。彼女は何度も伝えてくれたのに、一度も僕は返せなかった言葉。恥ずかしくて逃げてしまいたい程の、幸せな言葉を。

 昔から、隣にいてくれた。

 良い事を、見つけてくれた。

 情けない所があっても、励ましてくれた。

 そんな彼女に、最後に、この一度だけでも、伝えてなくちゃいけない。


「柚葉‼︎ 僕は………………‼︎」


 僕の想いを、精一杯の言葉にして。

 決意した。



「柚葉を……ずっと………………‼︎」

「やっぱ待って‼︎」



 しかし、僕の言葉は突然に遮られる。

 勇気を振り絞った決意は、容易く僕のもとへと返された。

 見ると、先程まで不安そうな表情をしていた柚葉が、微笑んでいた。

 少し照れくさそうに目を細め、僅かに笑う彼女の瞳には、何か光るものがあった。

 いまだ心臓の鼓動は治まっていない。言いかけた状態で退けられた僕に、何かを言う余裕などなく、彼女の言葉を待つのみだった。

 彼女は胸に手を当てる。


「言わなくても、伝わったから……さっくんの、言いたいこと……」


 そして、そう噛み締めるように呟いた。

 やがて彼女の瞳から一粒、雫が溢れるのが見えた。

 そして、彼女はすする涙を混じらせて、声をはっきりと振るわせる。


「最後まで、聞いたら……また、会えなくなりそう、だから………………」


 途切れ途切れのその声を聞き、僕は戸惑いを覚える。

 勿論、涙を見せる彼女にどう接すればいいのか分からないという事もある。しかしそれ以上に、言おうと思った言葉を最後まで言わせてもらえず、肩透かしを食らった気分と共に、彼女の言葉に何か引っかかるものがあった。

 何も言えず、僕は立ち尽くす。ただただ、柚葉の一挙手一投足を見ているだけだった。

 彼女は溢れて流れる雫を人差し指で拭うと、まだ光るものがある瞳を、まぶたで蓋をする。そして、僅かに白い歯を覗かせて、笑顔を見せた。



 その瞬間。

 彼女の仕草に呼応するかのようだった。


 轟音が鳴り響く。


「ッ⁉︎」


 僕は思わず身構え、その音が聴こえる方向────青い空を見上げた。

 雷鳴のような、いや、もっとおぞましい音。胸に突き刺さるように響いている。


 まさか────

 僕の嫌な予感は、直後に答え合わせが来た。


 突然、空が破れた。


 視線の先、青かった空は、先程まで白い鳥が羽ばたいていたとは思えない程の闇の色が顔を出す。

 切れ目を入れられた袋が破けるように、小さな穴のようだった暗黒の空間は、次第に広がっていく。


「来たか………………‼︎」


 この瞬間がとうとう来てしまった。

 そして、僕は漸く、世界が終わるという実感が湧いてきた。

 深く考えず、目を背けてきた。今まで頑張ってきたものが無駄になって、今まで出会ってきた人とも二度と会えない。やり残した事も、将来やりたかった事もあるのに。そんな恐ろしさなど想像したくなかったのに、この状況で、走馬灯のように一瞬で駆け巡る。

 でも、そこに深く思いを馳せる余裕なんてなかった。


 突然、地面が溶け始める。

 いや地面だけじゃない。建物も、木々も、全て姿を失おうとしている。

 僕も消えていくような気がして、地上と共に崩れ落ちる。


 死ぬ。

 直感的にそう思った。


 その時だった。

 地面が崩壊するその瞬間、向かい合っていた柚葉が、僕に向かって飛び込んできた。

 麦藁帽子が宙に舞う。

 150cm程あった間合いが一気に縮まる。

 飛びついた彼女は、僕の頭を両手で掴む。

 地面が崩壊し、どうする事も出来ない僕は、ただ彼女を受け入れる以外にやりようがなかった。



 そして、顔が近づく。

 唇で、僕と柚葉のシルエットが繋がった。



 柚葉は、僕を掴む手も、唇でさえも冷たかった。だけど、温度計では示せない、何か温かいものが伝わってきた。

 もう感じる事のない、人の温もり。

 本当に死んでしまうのなら、いっそこのまま終わりたい気分だった。

 しかし、体勢的に下にいた僕は、彼女から引き剥がされるように、先に沈んでいく。そして、彼女との距離がどんどん離れる。

 柚葉は儚げに笑っていた。次の瞬間消えてもおかしくないとさえ思えるような、悲しそうな笑顔だった。

 そんな柚葉を見て、僕は咄嗟に彼女に向かって……


 しかし、声は出なかった。

 アの口の形。

 イの口の形。

 アの口の形。

 オの口の形。

 ウの口の形。

 喉元を掴まれたように、僕の言葉は無音の叫びにしかならなかった。

 それでも彼女は、より一層儚げな笑みを浮かべて、僕の感謝の5文字に応えてくれた。

 間もなく意識が遠のいていく。

 奈落の底へと沈んでいく感覚、死へと向かう感覚さえ、薄くなってきた。


 そして僕は、完全に闇に呑まれた。



 さいごに見たのは、果てしない闇の空で。

 さいごに見たのは、彼女の笑顔だった。




 ≪≫




 ────またいつか会いに来てくれるって"信じてる"ね────



 消えかけていた意識が戻ってくる。

 そして、僕は醒覚する。

 初夏の眩しい日光が、カーテンの隙間から目覚めを促してくる。

 上半身を起こして、周りを見渡す。


 僕の家だ。

 そう認識してから、今までの事が何だったのかに気付くまでは一瞬だった。


 眼鏡を取って、スリッパを履き、階段を下ってリビングへと向かう。


「あ、おはよう」

「…………うん」


 僕に気付いたお母さんは、座椅子に寄り掛かりながらチラシを眺めていた。

 挨拶に雑に相槌を打って、僕はぼーっと立っている。

 それを見たお母さんは、チラシを畳んでおもむろに立ち上がる。


さとる、顔洗ってきなさい。もう朝ご飯準備する?」

「うん、お願い」


 促されるままに僕は洗面所に向かい、顔を洗って寝癖を整える。

 大分目も覚めると同時に、柚葉と過ごしたあの時間が、少しずつ曖昧なものになってきた。大体何をしてたか、最後の方は覚えているけど、ハナから説明しろと言われたら、少し厳しい。

 リビングに戻ると、食卓の手前の椅子に腰掛ける。


「パンいるなら自分で焼いてね。目玉焼きにベーコンいる?」

「いや……今日はいいかな」

「じゃあ卵だけ焼いておくから」


 分かった、と言って、僕も自分の朝食を用意する。

 食パンをトースターに突っ込み、2分にセットする。昨晩の残り物を取って、少しレンジにかける。それらを暫く温めて取り出し、箸とコップを用意して再び座った。

 軽く手を合わせ、僕は箸を右手に握る。

 丁度、お母さんも目玉焼きを持ってきた。


「今日、お墓に行くんだっけ?」


 目玉焼きと引き換えに、お母さんは質問の答えを求めてきた。


「…………うん」

「1人で?」

「うん」

「あそこの家と一緒に行けばいいのに」

「いいよ。1人で向き合いたいし」


 小さく溜息をついたお母さんは、再びチラシを手に取る。


「いいけど、もし同じタイミングで来てたら挨拶しときなよ?」

「家族ぐるみで付き合いのある相手に何を今更……」

「だからこそよ」


 まぁ、分かってるから。

 僕はそう呟いて、新聞を手に取る。

 一面には、首都を制圧したテロ集団に対し、アメリカ大統領が和平交渉を持ち掛けるという話が載っていた。



 コンタクトレンズに付け替えた僕はクロックスを履いてシャツ1枚で外に出る。

 小さなショルダーバッグに、線香と蝋燭ろうそく、タオルと携帯だけを入れて、財布はズボンの右ポケットにしまう。

 初夏だというのに暑い。雲一つない晴天だ。サングラスをしてもいい位。

 そんな太陽の恵みを浴びて、木々は青々と茂っている。


 夢の時と、とても似ている。


 まるで先程までいた世界の焼き直しのような光景が広がっている。ただ、それでもやはり違う世界であるのは分かる。

 歩みを止めて、赤信号が青になるのを、車道にいるセダンと一緒に待つ。

 その間に僕は夢の中の世界を考えてみる。


 あれはで。

 実際終わっていたのは、なのだ。


 僕は日差しを避けるように、街路樹の陰を頼りにして歩く。お洒落なカフェでは数人の客が遅めの朝食を楽しんでおり、カーショップのガラス越しに、高級そうな車を前にディーラーと客が何か話しているのも見える。

 暫く歩いて、通りの角で足を止める。

 花屋がある。

 柚葉を見舞いに行く時に、何度かここで花を買っていた。

 僕は店の中へと入って、その品揃えを眺めながら歩き回る。

 一応目当てのものというのは決まっていて、一通り見ていくうちに、それは簡単に見つかった。


 僕はピンクの胡蝶蘭に手を触れる。


 柚葉が気に入っていた花。確か夢に出てきた胡蝶蘭は白かっただろうか。

 店員に声をかけ、花をまとめてもらう。


 知ってるか、柚葉。

 夢の中で、胡蝶蘭の花言葉を言っていたよな。さっき僕も調べてみたんだ。"幸福が飛んでくる"が、柚葉が言ってたものかな?

 確かにその通りだった。でも、それだけじゃないみたい。

 白い胡蝶蘭は"清純"。

 ピンクの胡蝶蘭は────


 あの時僕が言おうとした言葉だ。


 僕は代金を支払い、墓花用に纏めてくれた花束を受け取る。

 そして店を出ながら、その一つ一つをまじまじと見る。


 また、夢と現を超越トランセンドして、柚葉に逢えるのだろうか。

 また、彼女がいる世界が終わるまで、僕は一緒にいたい。夢なんだし、現実ではやれなかった事をやってみたいのだけれど。一緒に海で泳いだり、遊園地に行ったり。

 しかし、彼女をこの世界から消した心臓の病は、あの世界でも彼女と不離一体のようだ。

 それならば、またああやって、二人でゆっくりと時を過ごしていくのだろう。

 ふと、考えた。

 もし逢えるのなら、来年、再来年と逢っていくうちに、彼女は変わるのだろうか。僕だけが大人になっていくのだろうか。

 いつまでも、もういない人に執着している訳にもいかない。僕だってやがて誰かと結婚する筈だ。その頃になっても、僕はあの世界へと行けるのだろうか。もし行けたとしても、その頃になれば流石に「今の人を大切にしなよ」って、背中を叩かれるかもしれないな。過去への執着も程々にしなければ、きっと彼女に怒られるだろう。


「でも…………」


 僕はポツリと呟いた。

 そしてもう一度、ピンクの胡蝶蘭の花言葉を思い出す。


 僕とずっと一緒にいてくれて、僕の良さを認めてくれて、僕に可愛らしい笑顔を見せてくれて、僕に何度も希望をくれた。


 そんな"あなたを"僕は………………



今でも"愛してる"スティルインラブ



 僕は顔を上げて、柚葉の眠る山の中腹の墓地へと歩き出す。

 そんな僕の向かう先では、一羽の白い鳥が羽を広げて空を舞っていた。

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