5 彼女は王手を掛けられ、腹を括る



 すたすたと歩く彼の後ろを、小走りで着いていく。歩幅を考えろと文句の一つも言いたくなったけど、負けたような気がするので黙って後を追う。

 そのうち彼がぴたりと足を止めて、こちらを振り返った。


「ところで、場所は僕の部屋でいいかな?」

「まあ、ご冗談を」


 私は頬が引き攣りそうになるのを堪えながら、ころころと笑って見せる。

 年頃の男女が二人きりで部屋に籠るだなんて、どんな醜聞を呼ぶか分からない。使用人がいて、扉を開けていて、と充分気を回していても噂が立つ時は立つのだ。

 アイリスとこんな奴を巡っての三角関係を噂されるくらいなら、死んだ方がマシである。


「確か、西の庭園に東屋あずまやがありましたわよね。今の季節なら、風通しも良くてちょうど良いのではないかしら」


 西の庭園は人が訪れることが少なく、かつ東屋まわりは見晴らしが良い。誰かに聞き耳を立てられる恐れも少ないため、密談をするにも悪くないだろう。

 彼は私の提案に頷くと、通りすがりの学院の下働きに伝言を頼む。

 庭園の東屋に着いて待つこと、しばし。恐らく彼の使用人らしい男性が、王棋チェスの遊戯盤ひと揃いと茶の準備を整えて持ってきた。

 男性はエミールと私の分のお茶を注ぐと、頭を下げて去っていった。


「じゃあ、勝負をしようか」


 穏やかに微笑む彼に笑顔で応えながら、私はこっそりと喉の奥で唾を飲んだ。






 彼の長い指が、コツン、コツンと遊戯盤に駒を配置していく。


「君は、王棋チェスは得意かい?」

「手慰み程度ですから、きっと勝負になりませんわ」


 キング王妃クイーンルーク僧侶ビショップ騎士ナイト兵士ポーン。持ち運びが出来る簡易的な遊戯盤の筈だが、随分質が良いのだろう。どれも細工が細やかで、これ自体がひとつの芸術品のようだ。


「色はどちらがいい?

「では黒(後手)でお願いします」

「分かった」


 彼はにっこりとわざとらしいくらいに爽やかな笑みを浮かべ、駒を手に取りカツンと配置する。

 私も迷うように盤面で手を彷徨わせた後、恐る恐る駒を摘み上げ、そっと下ろす。

 二色に塗り分けられた六十四の枡目の世界に、戦端が開かれる。

 もっとも初めは定石通りの手だ。彼は淀みなく、私は拙く駒を進めていく。


「こういった遊戯ゲームには、性格が出るよね」


 不意に、エミールが口を開く。私は冷めつつあるお茶を飲んで、可愛らしく首を傾げた。茶葉もかなり高い等級を使っているな。学生が気軽に飲んで良い代物じゃないぞ、これ。


「まあ、そうなんですね。あたくしはまだ、そのような機微を読み取れるほどには慣れていなくて……」

「君は、相手の出方をじっくり待つ気質タイプだね。見付けた穴をじわじわ広げていくか、或いは自分が有利になるようこっそり誘導していくのが得意だ」

「そんな風に見えるんですのね!」


 まるで占い師に見てもらった時のような調子で、感心して見せる。飽くまで無邪気に、無垢な少女の素振りをする。


(そんなモン、この段階で分かるわけないでしょうが! いい加減なことを言って……)


 そして内心の呆れは、欠片も表には出さない。

 まだお互い、序盤を打っているだけなので、個性なんて見えてくる筈がない。


(それならあんたは、相手が罠に掛かるのを手ぐすねを引いて待つような、陰湿な手が得意に決まっているわ)


 ポーンの駒を、コツンコツンと進めて手を離す。エミールは騎士ナイトの駒をすっと滑らせた。


 王棋チェスには、三つの原則が序盤にあるとされている。

 一つ目は、中央の支配。中心を起点とした十六の枡目を、いかに制するかということだ。例えば、中心に近い位置にいる兵士ポーンを動かし、攻めの一歩を踏み出すと同時に道を作る。同じ駒でもより真ん中に近い方が、高い威力を発揮する場合がしばしばあるからだ。


 盤面を支配することを考えた時に重要になってくるのは、実は強い駒ではなく兵士ポーンである。これが二つ目の原則である、いかに効果的に駒を配置していくかということに繋がる。

 慣れていないと、ついつい女王クイーン僧侶ビショップといった機動性の高い駒を突出させたくなるけれど、それは下手げしゅだ。

 最初の位置からとにかく移動させようとして、うっかり意味もなく駒を奪われてしまうのは最悪。そうでなくとも駒を逃がす為に、二手も三手も無駄に消費していくうちに、相手は陣形を整えていく。一方で、兵士に斜め前の兵士を守らせる形が連なる、兵士の鎖ポーンチェインなどという構造もある。

 つまりいたずらに敵を攻めるのではなく、いかにして相手を制する位置に、あるいは守りを固めつつ最大の効果を発揮できる位置に、自陣の駒を配置できるかが肝要となる。


 実際、この盤面でも中心に躍り出た私の黒の兵士ポーンを、エミールの白の兵士が難なく食らって回収する。そして開いてしまった隙間から、敵の駒が狙いを定めようとするのがわかった。

 さすがに中盤にも行き届かないうちに王を狩られるのは癪なので、駒を動かして守りを固める。


「今回の件は、随分と面倒な話になってしまったものだね」


 一瞬なんの話かと怪訝な顔をしかけて、いやいや試験勝負のことに決まっていると思い直す。王棋チェスは飽くまで建前で、本題はそちらの方だ。エミールに対する敵対心から、危うく本筋を見失い掛けた。これはいけないと、私は自分を戒める。


「アイリスもそうですけれど、私も勝負を任されたからには、より一層頑張らないといけませんわ」


 エミールの言葉に肯定も否定もせず、ありきたりな意見を返す。

 彼は遊戯の手を止めないまま、会話を続ける。


「君も気付いているだろうが……。ヴィルはアイリスに加勢をする為に自らも勝負に加わったけれど、あれははっきり言って悪手だ」


 珍しく、エミールの声には苛立ちとも弱音とも付かない響きが混じる。私はそれには答えず、駒を一手進める。


「こう言ってはなんだが、アイリス一人の勝負なら結果は重要ではなかった」


 それはそうだ。勝負だ約束だなどと言っても、結局は学生同士の口約束。ほぼほぼアイリスの負けが確定した勝負だが、負けた所で反省の色を見せて、アイリス自らブリジッタに勉学の教えを乞いでもすれば、それで彼女の気も済んで一件落着となっただろう。

 だが、王族であるヴィルヘルムが関わってくるとなれば、そう簡単な話ではなくなる。


「ヴィルは。その上、今回の場合は勝ち方も重要な要素になってくる」


 親しい者との内輪の話ならともかく、そうでないのならヴィルは王家の名を背負う者として勝負に負けることは許されない。本当に軽率な真似をしたものだと、私だって思う。彼としては勝てる勝負と踏んだのかも知れないが、だからこその問題というのもあるのだ。


 圧倒的な勝利は避けるべき、という観点だ。


 今回の件は、言い方はともかく話の正当性は圧倒的にブリジッタ側にあった。にも関わらずアイリス側が圧勝してしまったとなれば遺恨が残るし、何より公正であるべき第二王子が正しくない側に肩入れしたと言われかねない。

 またヴィルヘルムたちが勝利しても、肝心なアイリスが負けていては何にもならない。勝負には勝つかも知れないが、結局他者に劣るアイリスをよってたかってチヤホヤして依枯贔屓しているとして、評判はますます落ちる一方となる。

 それではなんの意味もないのだと、彼らのお目付役であるエミールは言いたいのだろう。


「ヴィルには僕の方からきちんと因果を含めておく。その上で、君には協力をお願いしたい」


 そこで言葉を切り、彼は盤面に添えていた手を下げる。それで話は終わりのようで、肝心の協力の内容は言わずとも分かるだろうと思っているのか、あるいは良きにはからえとでも考えているのか。

 眼前の駒たちの戦場は、入城キャスリングによって逃げたはずの黒のキングの喉元に、白の騎士ナイトが槍を突きつけていた。

 

 王棋チェスの三つの原則の最後は、王の守りをしっかりと固めること。

 定石としては、入城キャスリングと呼ばれるキングルークを交換できる特別な手により、守りが固いところに王を押し込むことが基本だが、駒の動きを見落とすと今回のようにそれがあだとなって逆に追い込まれるという事態に陥る。

 

 王手を掛けつつ協力を依頼するなんて、お願いをする側の態度ではないよな、と思いつつも、この辺りが順当だろうとわざと作った隙なので、特に悔しいとかはない。

 私はキングの駒を指先でことんと倒すと、困ったように微笑んでエミールに言った。


「ごめんなさい。お話の内容が難して、仰っていることの意味がよく分かりませんわ」

 

 爽やかな笑みを浮かべていたエミールの顔から、爽やかさが消える。笑顔は浮かべていたが、目に一瞬険が浮かび、私は内心ザマアミロとほくそ笑む。

 言質を取られたくないのだろうが、肝心な部分を一切口にしないまま協力を得ようだなんて、そんな無礼な輩をまともに相手するつもりはない。

 向こうには言わなくても分かっているだろうという確信があるのかも知れないが、こっちにはエミールに対する信頼は一切ないし、そもそも協力を受けることで私が得られる利益だってないのだ。


 この件でヴィルヘルムやアイリスは、評判を落とすかも知れない。だが、それによって私が受ける影響は微々たるものだし、彼らにしたって時間は掛かるだろうが、名誉を挽回できないわけではない。

 せいぜいキングを守りきれなかった報いとして、しばらく苦労するがいいなどと思っていると、深いため息を耳に入った。


「……すまない。頼み方を間違えた」


 彼はそういうと、盤面に覆い被さるように身を乗り出し、私に耳打ちする。時折耳にかかる呼気に椅子を蹴り倒したくなるが、注ぎ込まれた話の内容は一顧だに値するものだった。

 私は彼の言葉を吟味する。得られる利益、想定される損失、支払うべき労力を瞬時に計算する。迷いは一瞬。即断即決こそ値万金。


 私はにっこりと笑みを浮かべた。

 正直なところ、未だまったくもってして頼み方はなっていないと思うが、提示された対価にはそれを補って余りある価値があった。


「エミール様があたくしに何を求めているのかが分かりませんので、結果まではお約束できませんわ。ですが、あたくしはあたくしにできる限りのことをさせて頂くつもりです」


 言質を取らせたくないのはこちらも同じなので、言葉は曖昧に。

 だが、結果を出した後に話をなかったことにするようなら、それなりの報復を覚悟してもらおう。

 私の笑みに彼は雰囲気を緩め、手を差し出してくる。正直奴の手なんて握りたくもなかったが、仕方なしに私も手を差し出す。遠目から見れば、王棋チェスの勝負を終え、互いに健闘を讃えているように見えるだろう。

 だがこれは、密約の証。本来であれば、エミールとの間には何一つ関係性を作りたくなかったが、今回ばかりは仕方がない。時には大局の為に、我慢も必要である。


 一度受けたからには今回の試験勝負。もっとも適切な場で適切な成果を出せるよう、自分なりに手を尽くすといたしましょう。私はひとつ腹を括った。

 

 まあ、後でやめておけばよかったと、盛大に愚痴をこぼす可能性はありそうだが。


 

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彼女は絶望に顔を歪めたあいつらの、無様に地を這う姿が見たい 楠瑞稀 @kusumizuki

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