第0話 転

天蓋付きのベッドで目を覚ます。侍女が来るまではする事がないので、幼い少女は窓の外をぼんやりと眺めた。中庭と、野菜やハーブが植えられているささやかな畑が目に入る。その先に広がるのはうっそうとした森。ノックの音で彼女は視線を中に戻した。

「おはようございます、姫様」

少女を着替えさせるために侍女たちがそばに寄った。絹に刺繍が施された布団が取り払われる。彼女らに手伝われて身支度を終えると、別の部屋に移動して、朝食をとる。また侍女に給仕されながら、広い部屋で一人、料理を口に運ぶ。なるべく上品に、食器の音は立てないように。半分も食べないうちに、お腹がいっぱいになってナイフとフォークを置いた。それを合図に食事が下げられる。侍女の手を借りて椅子を降りる。廊下に出ると侍女一人を供に歩き、まっすぐ自室に向かった。いつも付きまとわれるのは嫌だが、淑女たる者一人で歩き回るなどみっともない、と母から厳しく言われていたから仕方がない。

(でも、やっぱりやめてしまおうかしら)

もう誰も、彼女を咎めたり叱ったりしない。雇われていた教師も追い払った。つまらないし、大して役に立つとも思えないからだ。どのみち、一生外に出られず終わるのだから。


自室に戻るなり、侍女を追い出してようやく一人になる。ふと、棚に置かれた箱が目についた。久しぶりに手に取り、ふたを開ける。中に入っているのは小さな杖だ。短い柄、先端には小振りの魔石。彼女の心とは裏腹に、魔石は美しい輝きを放っていた。魔法を発動するときの補助道具。そして「彼」からもらった大事なもの。そっと杖を握りしめると、脳裏に一年前の懐かしい記憶が蘇る。彼はとても物知りで、色んなことを教えてくれた。厳しかったけれどうまくできたときは、頭を撫でて褒めてくれた。目を閉じて幸せな思い出に浸る。


「………さま!姫様!」


突然、乱暴に肩を揺さぶられた。夢から引き戻された。むっとして無礼者を睨む。ノックもなしに部屋に入って来たらしい。服装から見て監視の兵士だろう。


「ここから逃げます。事情は後でお話ししますので」


失礼します、と兵士は前置きして彼女を抱え上げた。随分と慌てた様子だ。そしてようやく、彼女は焦げ臭い匂いに気付いた。心なしか息苦しい。外もあわただしい足音が響いている。


そのうちの一つがこちらに向かってくるのが聞こえた。ほっと息をついたのも束の間、あろうことか兵士は窓枠に足をかけた。


「まって……!」

制止も虚しく、すぐにすさまじい浮遊感に襲われた。自室は二階である。飛び降りればただでは済まない。すぐに来るだろう衝撃を思って、ぎゅっと目をつぶる。


「大丈夫、です」

兵士がなだめるように声を掛けた。どうやら無事に着地できたようだった。兵士は少女を抱えたまますぐに立ち上がると、走り出した。少女は息も荒れて、額に汗もかいている兵士の横顔を見上げた。顔も名前も知らないが、その気配は何となく覚えがある。しばらく記憶を探って、ああ、と声を上げた。


ここ最近、よく珍しい視線を感じていたのだ。使用人は皆、少女を疎み、恐れていた。口にも態度にも出さないが、陰口はたまに耳に入るし、そういう感情は肌で感じ取れる。彼女は自身でも表情は乏しく、無愛想な子供だと自覚していた。だがたまに、気遣うような、同情を含んだ視線を感じるようになった。一様に煩わしいものであることに変わりはなかったが。

その視線の正体が彼だったのだろう。


「ところで、城から遠ざかっているようだけど」

ふと疑問に思って尋ねた。城とは逆方向に走り、どんどん森に近づいてきている。

「最初に申し上げたように、ここから逃げます」

安心させるように兵士が笑いかけた。

「でも、それはいけないわ。だってわたくしの……」

「貴女様はここにいてはいけない。少々不便を強いてしまいますが、少しの辛抱です。そうすれば、宮殿に戻れます。それまで私が姫様をお守りします」


(今は耐えるのよ、私の愛しい子。そうすればきっと、あの方が助けて下さるわ)

脳裏に母の言葉が浮かんだ。一月に一度、居館の隣の塔で会える母が繰り返していた言葉。だが母は塔の中で死んだ。暗い牢屋に押し込められて、来ることのない助けを切望しながら死んだ。


「……ほんとうに?」

「もちろんです」


力強く彼は頷いた。

それに、少女の心が少し動いた。最後に少し、と思って後ろの城を振り返る。

そこで目に入ったものに思わず肩が震えた。


「もう追っ手が来たのか」

兵士が低く呟いた。彼は追っ手が弓をつがえているのを認めて、少女を下ろした。兵士の手が離れていく。彼はくるりと背を向けると追っ手と向かい合った。腰の剣を抜き振り返らずに告げる。


「先に行ってください。私も後から追います」

兵士の静かな声を聞き、幼いながらも少女は悟った。

(まただわ)

一年前の『彼』がいなくなる直前の空気とそっくりだったからだ。彼は『彼』ほど思い入れがあるわけではなかったが、それでも置いていくのは忍びなかった。


母が切望し、手に入らなかったもの。そして彼女も望んだものがもうすぐ手に入るかもしれない。だというのに、彼女の心は晴れなかった。出口のない思いが悶々と胸の中でのたうつ。


「早く!」

兵士の厳しい声がした。と同時に、足元に矢が飛んできた。恐れで一歩後ずさる。流されるようにもう一歩、足を踏み出した。気が付けば風を切って短い足を精一杯動かして全力疾走していた。


この日初めて、プロテリーナ・シュトラヴナは森の外へ出たのだった。

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遍歴皇女 玄月黒金 @hosimiyaruna

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