第21話 エピローグ

 人が人を幸福にするシステムというものを開発しようという意思そのものは、善意から生まれたものだった。

 だが結局は、人はそれを運用する段階ですでに悪意のシステムへと変質させていた。生まれの善意の欠片もなく、ただ、一部の人たちだけが得をするものになった――たったの三十年で、人はシステムをまるっきり堕落させてしまうものだと誰もが理解して、誰もが理解を拒んだ。

 公島という政治家は、幼い頃からずっと、その過程を見ていた。だから、誰よりも善意によるシステムの構築を信じられなかったのだろう。彼の求める最善とは、悪意を悪意として垂れ流したまま、最小限度の犠牲で最大の幸福を生み出す――悪例を永遠に続けることだった。

 それが正義か悪かのジャッジは、大衆が下すものだと公島は割り切ったのである。そして、予想するまでもなく、公島の予想は当たった――人々は自分の知っている誰かが犠牲にならないのであれば、だれがどんな風に犠牲になり苦しんでも、それはどうでもいいことだと言い切った。

 確かに、その判断は許せないものだろう。悪だと断じられても仕方ない。

 だが人という種はまだ、幼年期の終わりすら迎えられていない――子供ですらない、ガキなのだからそれは仕方ないとも言えた。

 それでも人は、ひとつずつ、時を重ねている。



「まさか君が敗れるとはね」

「あなたはその可能性を捨てていなかった。だから、結局は舞奈の願いは叶わなかった。違いますか?」

「それは当然だよ。私は個人ではない。君のような暴力はないが、君のように人の総意に従って生きる者だからね――その総意に反する思想を、世に垂れ流しにするわけにはいかない。そのために打てる手はすべて打っておいた。それだけのことだ」

 誠一は舞奈に敗北して、二か月間、病院に引きこもる羽目になって。

 一月の八日に退院して、その足で公島と向き合っていた。彼の所有する事務所のひとつの応接室で、公島が出してくれたワインを飲みながら――味は良くないが、曰くがある代物で、高価なものらしい。が、安酒に慣れた舌には嫌味な味しか残らない。

「舞奈は、どうなりました?」

「逃亡した。が、ケダモノは殺してくれている。彼女を支援する組織があるのかもしれないが、心当たりはないな――君には?」

「ありません。俺は五年ほど現場にはいなかったわけですから、その間にあいつが独自にネットワークを築いていれば、俺にはわかりません」

「ありえる話だと?」

「ありえますよ。あの時だって、俺の知らない一手を打ったんです。それくらいはできるでしょうね」

「私は君自身が、君の予想を裏切ったように思えるがね――君はあそこで負けないはずだったが、最後の最後で裏切った。情か?」

 公島はつまらなそうに聞いてきた。たかだかそんなものに心を動かされるなんて、不出来だとでも罵りたいのかもしれない。

「そうですね。……俺は、兄なので」

 公島には、その言葉の意味は理解できなかったかもしれない。政治家とは究極的にはスタンドアローンな存在になるしかないからだ――人のような感情を持ったままで最高の為政者であろうというのは、いかにも都合のいい考え方でしかない。

 だが、世界にはまだ、超人が必要であり、それはつまり人ではないのだからそんな都合の良さを持っていなければならないのだ。

「まぁいい。君にはこれからも私の道具として生きてもらう。あのシステムを再開したいが、また君の妹が破壊しに来るだろうから、まずは彼女を無力化する。今度こそ、裏切るなよ。私を、自分を――人の総意を」

 俺はまだ子供なので、無理ですよ。

「わかりました。次は舞奈を殺します」

 嘘を吐くくらいは、簡単なことだ。公島もそれはわかっているだろう――どうせ本音で語り合うなどない相手だから、どうでもいいが。

 ――ワインの一杯を飲み終える頃には、公島との時間は終わっていた。彼は誠一を使ったシステムの次を稼働させられないという事実を、どうにかして大衆に納得させなければならないから、多忙の身である。病み上がりの誠一に割く時間など、本当はありはしなかった。

 誠一に与えられたセーフハウスは、つい先日も使ったマンションだった。いくつものそれを用意するのは骨が折れるし、誠一が自前で用意できないのだから、少しでも楽をしたければ既存のものを利用する他なかった。

「……ただいま」

 玄関度のドアを開けて、そう言うと。

「おかえりー」

 そんな声が返ってきた――舞奈の声だった。

 妹分は防人機構を追い出されて、アパートの部屋も追い出された。貧困層の親のいない――戸籍上はいるが、実質的に無関係だ――舞奈が部屋を借りられるわけがないから、彼女の行き先は不透明だった。

 ……これも、裏切りかもしれない。認める。誠一はまたしても、情に絆された。マンションには誠一の生活のサポート役として、名義上は誠一の他に一人、女が暮らしていることになっている。

 その名前を、柊茜という。名義を利用されたことを、彼女は怒らなかった――そうなるくらいの現金を渡したからだ。貧困層の人というものは、とにかく金がもらえれば文句は言わないのである。しかも、その使い道を限定されず、自由に使えるとあれば余計な文句よりもそのために繁華街に繰り出すので忙しくなる。

 名義の上では柊茜の舞奈は、リビングのソファに身を投げていた。だらしない服装で、いかにも兄の前では何を取り繕うことがあるのか、と言わんばかりに。ぼやく。

「嫁の貰い手がいない格好するなよ……」

「何? 兄さん。あたしがお嫁に行ってもいいってわけ?」

「早く出てけよ。お前を住まわせて、ケダモノの情報の仲介役までやって……俺の退院が遅れたの、その多忙さのせいだからなお前、言っておくが」

「仕方ないでしょ! あたし、住む所もないんだから! ひなたも頼れないっていうか、兄さんを助けたせいで絶縁されたし――それとも、何? 兄さんが保証人になるの?」

「なるかよ。お前、ああだこうだ言って俺に家賃払わせようとするだろ」

「うん。だってあたし、給料もらってないのよ、今」

「……公島さん、心変わりしてお前に金出さないかな」

 この二か月間、舞奈の活動資金は全額、誠一が出している。公島の表に出せない会計にこっそりと上乗せしている部分もあるので、本当にすべての意味での全額ではないし、彼から相応の手当てとこれからは給料をもらえるし、マンションの家賃も払わないでいいとはいえ、完璧に金満というわけでは、もちろんない――あまり無駄遣いはしたくないのだが……。

「さて、兄さん。座って」

「ここ俺の……家でもないけど、お前が偉そうにしてる理由は何だよ」

 ぼやくが、舞奈は相手をしてくれない。どだい、男と女の関係なんてそんなものかもしれないが。

 誠一がソファに座り、舞奈と向き合うと。

「これからのルールを決めましょう。あたしはこの二か月家事を全部やってきたんだから、最低でも三か月は――」

「追い出すぞ、マジで」

「短気な兄さん……まぁ、いいでしょ。そういう話、これから決めないとね。兄妹でも最低限のルールがないと、色々と崩壊するもの」

「だからなんでお前が主導なんだろうな……」

 何を言ったところで、その権利を握れるわけでもないのだが。

 ――とにかく、こんなふうにして世界は回っている。これからどうなるかはわからないが、できることならば、舞奈を含めたたくさんの人が幸福になって欲しいし、そのためにできることはなんだってするつもりである。

 まだ人には超人が必要なのだから、その役割を担ってみせようと、そう、思うのだ。

西暦二千七十六年。

 人は未だ、赤ん坊とガキの間で右往左往して、自分自身の幸福すらも自力で確保できない、そんな生き物でしかなかった。

 それでも。

 生きていくだけの価値はあると。

この世界には、人には。それくらいの価値があると。

そう、信じるフリくらいはできた。

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近未来的ディストピア崩壊交響曲 @aoihori

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