第20話
誠一のバイクに並走して、辿り着いたのは郊外の廃墟だった――貧困街にすらなれずに、朽ちていくのを待つだけの街並み、とすら言えない建物たちが並んでいるだけの、虚しさを覚えずにはいられない、そんな。
時刻は夜の七時を過ぎていて、月明りくらいしか光源がないから少し離れれば兄の顔は見えなくなるだろう。ゴーズを起動すれば鮮明に見えるようになるが、今はまだ起動していない――バイクから降りた無防備な兄の背中を急襲すればすべてが終わる。わかっているのだが、そんな結末は認められなかった。
「廃棄されて二十年。この街――と呼ばれなくなってから二十年経ったわけだな――は、今でも遺っている。完全に解体するのにだって金は掛かる。金をどぶに捨てる趣味の成金がいれば、とっくに消えていただろうな」
「そんな所だから、いくらでも壊してもいいってこと?」
「ああ。ここは地図からも消えた、存在しない場所。そこで何が起きても誰も気にも留めない――死体が転がっていても、誰も気づかない」
「無縁仏になる覚悟はしておきなさい、兄さん」
舞奈がそう言うと、兄は苦く笑った。
「お前の入る墓くらいは用意してやるさ」
「そ。でもあたしは用意する気ないからね? だって、勝つのはあたしだもの――あたしの方が正しいとかそういうんじゃなくて、それが世の道理。弱者を生かしてあげるほど、この世界に慈悲なんてものはないの」
「強くなければ死ねってか?」
「弱くてもいいのよ。いずれ強くなるならね――兄さんが守ろうとしている劣等種たちは、自分たちが弱いことを誇りにしているでしょ。ありのままの、弱い自分こそが尊重されるべきだって。ふざけた話よね。つまり、自分が何もしないしできないことを正当化する理屈だけ持って、それが叶わない世界に文句を言うんだもの」
兄は悲しそうに目を伏せた。
わかっているのだろう。
舞奈の言葉が正しく、兄が守ろうとしている人間面した劣等種では滅びるだけだと――それは兄が言っていたことである。兄はすべてが無意味だと知りながら、今という時間を続けようとしている。
今が――日常が永遠に続けば、その果てには緩慢な死しか待っていないのに……。
兄が少しずつ、距離を取って行く。その背中に、向けて。
「どうして兄さんは、そこまで尽くすの?」
「それが俺の生まれてきた意味なんだ」
顔は見えない。兄は振り向かないで続ける。
「今の世の中、子供は計画的に生産されるものだ。増えすぎても減り過ぎてもいけないんだから、国が管理して生産と消費をする方が合理的だ。無論、そうでない形で生まれてくる子供たちだっているが、それにしたって、ある程度は国に管理されている。中絶に保険が適用されるなんて、昔はあり得なかったそうだ」
「何が言いたいの?」
「俺もお前も、国が計画的に生産した命だ。表向きは自然出産とされているが、現実は人工子宮で育って、必要な成長と栄養を得て人工子宮から出た――この計画の最たる目的は、技術者たちが子供たちに期待と、義務を押し付けることだった」
兄の足が止まるが、やはり顔はこちらを向かない。空を見ている。
「俺は人を幸福にするために作られた――そういうことができてしまう人として、俺は調整されて作られた。おかしいと思わなかったか? 俺が人を幸福にできて、そんな俺が公島さんのような人に見つけられるなんていう偶然が、あるはずがない」
「すべてを計画した屑がいる」
「そうだ。俺たちの育った児童養護施設にも同じことが言える。あそこは超人的な精神――つまり必要であれば、人のために心を捧げて尽くすことのできる人を作り上げるための施設だったんだ」
「だから政府は運営のための助成金を出すことを、躊躇しなかったの……?」
「ああ。考えてみれば、おかしなことだろ? 納税くらいしかできない出来損ないの子供たちを、慈善事業というだけで助けるわけがない。一時的なそれはするかもしれないけど、恒常的にするなんてどう考えても税金の無駄遣いだ。財務省がまっさきに予算を削れ、と言ってこないとおかしいが、見逃されたのは実利があるからだよ」
兄はすべてを知っている――のか、知っていたのか。
なんにせよ、彼は自分の義務を受け入れた。それは異常なことではないが、前向きだとは言いづらい。自分が生まれた理由なんてものに隷属しなければいけない、なんて決まりはどこにもないのだから。
「あたしは何のために作られたの? 兄さんの番?」
「お前は失敗作だ」
「あたしが?」
「でなけりゃ、公島さんに反抗しようなんて思わないんだよ――技術者の罪悪感が、お前という個人を作った。他の何人もの犠牲を良しとしたくせに、たまたまお前の時にそれを感じて、抗えなかった。幸福を生み出すためだけに生まれ、消費されていく命を哀れに思ったのだとしても、あまりにも遅かったってことにも気づけなかった」
「その人は、今どうしてるか。考えるまでもないかしらね」
「ああ。お前の思った通りだよ」
ならばそれは、自死したということだ。屑なりの良心があったということかもしれないが、屑になり切れないのもまた罪ではある。
「お前の能力は未知数だった。だから殺すか否か決定が遅れて……そうこうしているうちに、お前がゴーズの適合者とわかって、殺せなくなった――公島さんはそれを惰弱だと言い切っていたが、まぁ、間違ってはいない。チャンスを棒に振るのは、引け目に言っても出来損ないのやることだ」
「もうジャッジはしたんでしょう――あたしを殺すっていう」
「ああ。ほぼ決まっていたが、今しがたやっと、決まった。だから、無駄話はここまでだな。公島さんは一分一秒でもお前が生きていることが許せないようだし――強化装甲」
兄が。いや、レッド・ゴーズが。
振り返って、こちらを見てきた。
「顕現しなさい! ブルー・ゴーズ!」
兄とは違う色の――青の装甲が舞奈を包み込む。
いつかこんな日が来ると思っていた。そんなわけないが、そういうことにしておく。目の前の現実に嘆いて、その間に殺されたくなければ、考えて、行動するしかない。
兄が、斧を構える。一撃必殺の武器だ。接近戦は兄の領分だと知っているのだから、わざわざ付き合ってやる理由はない。
舞奈は二丁の拳銃を手に――するより早く、兄が踏み込んでくる。迷えば死ぬ。兄がどう攻めてくるかはわからないが、それだけはわかっていた。とはいえ、ただ後退したのでは追撃で仕留められるだけだ。
――兄はどこまであたしの行動を読んでいるのか。
それこそ想像して、読み切るしかないことだ。はっきり言って分の悪い戦いだ。舞奈の観察眼や未来予測の能力は兄から教わったもので、一度でも凌駕したことはない。
あえて、と思いながら舞奈は前進した。兄の腕の内部に入ることを狙う。舞奈が接近戦だけは避けると思っているならば、これは間違いなく想定外だったはずである。
兄は振り下ろした。斧の刃ではなく、柄の戦端を。
振り上げた刃であれば、舞奈はすれ違いざまに容易にかわせただろう。しかし、それよりも下にあり、まったく予想していなかった方向からの一撃は避けられず、肩に激痛が走る。兄は斧の刃が当てられなかった時のことまで予想していたのか。
衝撃にバランスを崩しながら、舞奈は断じる――この勢いで距離を取る。
前進の勢いと、兄に突かれた肩の衝撃に逆らわず、そのまま前転する。起き上がるまでの数秒は危険だが、それは人間であれば、だ。
ゴーズである舞奈は転がるのが止まると同時、両手で大地を叩き――跳躍しながら振り返り、想像だけで照準を点けて、引き金を引いた。
予想通り、兄はあと一歩の距離まで近づいていた。それほどまでに近いのであれば、光弾を避けるのは不可能になる――着地して、舞奈はそんな自分の中の予測は捨てて、立て続けに光弾を兄に撃ちこんだ。
兄は空中で放った弾丸は斧の刃で弾き飛ばして、その後の光弾は左右に揺れながら走ってかわした。一秒もあれば、兄の必殺の距離になる――逃げられない! 悲鳴のようにつぶやきながら、舞奈は銃口を向ける。が。
右手に衝撃が走った。
斧の刃が舞奈の右手首を切り裂いていた。
「――っ!」
切断はされていないが、切られたのは事実だ。ゴーズの装甲の上からではあるが、傷は肉体に達していて、血が溢れ出す。
保持できなくなった銃を捨てて、舞奈は斧を振り下ろした姿の兄を左の銃で狙う――が、舞奈が引き金を引くよりも、兄が斧を薙ぐのが速かった。銃口の一部が破壊される。言うまでもなく、銃は精密機器である。簡単な傷で使い物にならなくなる。
暴発するかもしれない左手の銃を捨てて、舞奈は飛び退いた。単純な後退は危険だが、今はとにかく兄から離れないといけない。
ゴーズの武器は壊れても予備もあるし、時間経過で傷は直る。
舞奈は最初に持っていた二丁を諦めて、予備の銃を取り出す。右手の反応が悪いが、痛みに負けるとかいう甘えは許されない。
ゴーズの修復機能で装甲と右手首の傷が少しずつだが回復していくが、完治にエネルギーを回せば戦いで不利になるのだから、舞奈は断じた。回復よりもシステムによる兄の行動予測を優先。舞奈独りでは読み切れないのなら、マシーンの力を借りればいい。
兄は平坦な目をしている。ように思う。実際はゴーズの装甲――バイザーのせいで見えないのだが、兄はどんな時でも本当の意味では動揺しない。兄に予測できないことなんてないのだから。
今だって、舞奈の行動を読み切って、そろそろ殺すための計算をしているに違いない。兄のそれは、飛び抜けた観察眼と直感によるものであり、マシーンの入り込む余地はない。マシーンよりも正確に素早く、兄は答えを導き出す。
学者だとか研究者にでもなっても、成功していただろう。プロスポーツ選手にもなれたはずである。運動神経もいいが、相手の次の行動が確実に読めるならば大抵のスポーツで天下を取れる。最後は総合力がものを言うにしても、その境地に至るまでは個人の力に依存するしかないものだ。
そんな兄に勝てる要素がどこにある? だが、なかったとしても勝たなければならない――人間に、人間らしい生活をさせるとは、そういうことだ。
兄は優しいから、劣等種になることを許せるが、舞奈には無理だ。弱いことは仕方ない。最初から強い人なんてものはいないのだから、それはいい。しかし、弱くあるために周囲を傷つけるのは間違っている。
兄が勝てば、兄を傷つけることで人間は幸福を手に入れ続ける。かけがえのない日常が永遠に続くだろう――誰も兄を犠牲にすることを、忘れて。それが普通であるという認識の中で生きて、そして死んでいく。
「誰も犠牲にしないで!……幸せになれないの? たったそれだけのこと……」
声が。漏れた。
兄に銃口を向けながら、続ける。
「兄さんなら、見つけられるんじゃないの!? それとも、そんなに難しいの――兄さんを諦めさせるくらい、できないことなの!? だったら、最初っから幸福になるなんて無理だってことじゃない!」
「もし、人が幸福になれない生き物だとして――それを教えないくらいの優しさは、あるべきじゃないか?」
兄の声は、優しい。とても、舞奈の右手を切り落とそうとした相手とは思えない。そういうアンバランスな所が、兄にはある。どこまでも優しく、誰も見捨てないように見えて――どこまでも冷徹に、相手を切り捨てられる。
「この世界では理想は叶わず、綺麗事は夢物語にしかならない。だとしても、人々は生きていかなくちゃいけない。どれだけ絶望的な世界でも、人は、生きることをやめられないんだからな……」
「なら、自分たちが生きている世界を、自分たちの力でもっといいものにするべきでしょう!? それが、何? 誰か一人に苦痛を押し付けて、自分たちは生温い幸福に浸っていようなんて、虫が良すぎるって思わないの!?」
そして。
兄は常に誰かの話を聞いているが。
誰の話も平等に判断材料にする――相手が舞奈だから配慮しようとか、贔屓しようという発想は兄にはない。兄にとっては、どれだけ親しい関係の者でも、その価値は無関係の他人と等しい。
だから、舞奈が何を言っても意味はない――百人の声よりも優先されるべき一人の声などありはしない、と兄は考える。
人の総意に従うのみ。
そんなことができるのは、異常者でしかない。
「だが誰だって思うことだ。楽して幸福になりたい――それを叶えられたんだから、人は当然それを支持する。そして人は、一度でも手にした幸福を失うことを認められないものだよ」
「低品質な幸福に酔って! もっとまともな幸福があるって想像すらしないで!」
「もっといいものを得るために、今目の前にある幸福を捨てる――そんな賭けは、もうできない。するには、人はあまりにも大きくなり過ぎたんだ。人の作った組織が人を縛り、個人を生かすためのそれは、個人を殺すことでしか機能しない。ならせめて、一人でも少ない命の犠牲を以って幸福を為す……」
認める。兄は正しい――当然だ、兄は人の総意を口にしているのだから。つまり、多数派の意見だ。人間社会において、個人の意思がそれよりも前面に出たことなどない。人間というものは、いつまで経っても少数派を、個人を生贄にすることでしか何も成しえないものだから――だけど!
「兄さんはきっとたくさんの人を幸福にするんでしょう。誰もがそれを望んでいる――だからって、そんな愚劣で醜悪な幸福を甘受しろっていう理屈は、あたしは大っ嫌いなのよ! 死ねばいい……! その程度の幸福で満足できてしまえる低燃費で無価値な連中は、全員! 一人残らず! 死ねばいい! あたしが殺す! 誰もやれないっていうなら、この超人たるあたしが! やってやろうじゃないのッ!」
「……そうか」
兄が斧を構えて。
舞奈はその兄の胸を狙って、弾丸を放った。兄は見向きすらせずにかわしながら、近づいてくる。二秒もあれば必殺の距離だが――舞奈はまだ生きている。兄のそれの内に入りながらも、今でも生きている。
勝てないかもしれない。が、負けないで済むかもしれない。
可能性や希望なんてものは、その程度でいい――そんなものでしかない。本当は大層なものではなく、ただの言葉だ。
人間の愚かな夢想が、それらに価値を作り出した。人間には可能性だとか希望があって、それらを発揮すれば世界だってなんだって変えられる――狂人の妄言でしかない。人間は生まれたその時に、あるいは、生まれる前から可能性も希望も持ってなどいなかった。
持っていないから、どうしようもなく、求めたのだ。だが最初から影も形も知らないものを探したって、見つけることはできない――見つけても気づけない。馬鹿な人間面した劣等種どもは、自分たちが何を探しているかもわからないくせに、探している自分が好きでたまらなかった。
たぶん、その間だけは自らの愚かさや無能さ、醜悪さから目を逸らせたから。現実には何もしないし、どのような形でも影響を持たない言葉をこそ、真の理想だと掲げた。
兄はそのことを理解している。空虚なものを追い続けることなど人間にできるはずがなく、いつか必ず破綻して――その先にある破滅へとまっすぐに進んで行くしかない愚劣な人間を、自業自得でしかないとしても、兄は見捨てられなかった。
死に絶えるその瞬間まで、幸福であったと勘違いさせたまま死なせてやるのが慈愛だと思ってしまったから――
引き金を引く。光弾を、兄は避けることさえしなかった。防御したのではない。左手は正確な射撃ができたが、右手は傷のせいでぶれた。射撃は一ミリのずれが致命傷になることもある。その結果、光弾はそもそも見当違いの方にしか飛ばなかった。
「守るに値する人間だけを!」
「それを決める権利を持つ人なんて、いないんだぞ!」
兄の理屈はわかる。わかるが、認めてしまえばそれは人間が醜悪なだけのおぞましい存在だと認めることになる――事実その通りなのだとしても、はいそうですか、と認めることが正しいなんて思えない、思いたくない!
兄の次の一手を読む時間がなんてなかったが――ないものをひねり出せるかどうかが、その人間の根本的な力だと、舞奈は思っている。であれば、実行に移すだけだ。
兄は一切、奇策に頼らなかった。最高速で接近して、最高速で斧を振り下ろしてくる。シンプルだからこそ、どこでも強力な一撃だった。策を弄してくる、と思わせてからのそれをやるのだから、まったく、兄は人が悪い。
だが、そこまで舞奈は読んでいた。
兄が警戒しているであろう左手で、上段の兄の手に触れる。わずかだが、斧の軌道を逸らす。それでも当たるかもしれない、というほどのわずかな変化だったが。
兄が息を呑むのが、確かに見えた。
舞奈は、右手の銃を兄の胸を守る装甲に接触させる――どれだけ調子が悪くても、この距離ならば外さない。
トリガー。
一回で済むはずがない。右手が壊れてしまってもいい、という勢いで光弾を兄に叩き込む。死んでしまうかもしれない。一生、後悔するとしても、ここで兄を殺さなければもっと後悔する。どうせそれをしないでいい人生なんて歩めないのだから、少しでも自分が笑顔になれる方を選ぶしかない。
舞奈の右手がダメになり、光弾が途切れる。あまりにも近すぎたから、反動で銃も壊れたのだ。兄は……
胸の装甲が全壊して、大地に膝を着いている。死んではいないが、無力化――できていない、と舞奈の中で何かが囁き、距離を取ろうとする。が。
振り上げられた斧が、右腕が縦一文字に切断された。
「っ!?」
ゴーズのシステムが最大稼働して、左右に分かれた腕の傷を癒していく。しかし、どんなに早くても腕が繋がって戦闘に使えるようになるには五分は掛かる。状況的に、それはあまりにも長すぎる。
「肺と右腕」
兄の声がする。胸部を破壊されたとは思えないほど、しっかりとした声だった。
「俺のが損だな――お前の命で贖えよ」
肺は破壊されている、心臓にだってダメージがある。それでも、兄は止まらない。壊れている。うめく。人間の姿をした、人間の上位種――超人と呼ぶしかない。舞奈はそれに勝たなければならない。人の身で、人を超え、神すらも超えようとする人の総意の器を殺めること。
できるかどうかなんて、つまらないことは考えない――どうやって成すか、それだけを考える。
左手を引き寄せようとするが、兄の斧――振り上げた勢いで――を捨てた手に掴まれる。あまりにも強く握られて、思わず銃を取り落とす。馬鹿、と自分を罵るも何もかもが遅い。銃を拾うなんてことは思考から切り捨てて。
舞奈は額を兄の手にぶつけた。装甲と装甲がぶつかり合い、勝ったのは――舞奈だ。兄の手が外れて、半歩だけ後退する。舞奈はその隙に飛びずさった。
予備の銃はもうない。生成すれば作れるはずだが、腕の治療を優先するとなるとあまりあてにはできない。
兄のゴーズが最大稼働して、胸の破壊を再生して――いない。兄はそれを捨てて、息を付く間もなく接近してきた。読み間違えた。舞奈は嘆きながら、後退が終わったばかりの身体で兄を迎撃する。
兄は加速の勢いを乗せた拳を放ってくる。当たったら死ぬ、と思えるほどの重圧を覚える一撃だ。半身を引いて、当たる寸前で避けて反撃に――
ここではダメだ。
直感でそう感じて、舞奈は兄と交差し、そのまますり抜けた。
そうしていなければ、兄が投げ捨てたはずの斧の刃が、舞奈の脳天を破壊していただろう。兄はさして意外そうな素振りもなく、それを回収して構えた。
「……なんでよ」
声が、漏れる。
「どうして兄さんは戦えるの――兄さんを不幸にすることでしか幸福になれない、なろうともしない屑どものために……!」
「他に人を幸せにする方法はない――聞け」
兄が音声データを、送ってくる。リアルタイムのものだ。
「がんばってー! 赤い方!」
「お前が勝つんだよ! そうしないと!」
「そうだぜ! 俺たちの幸福を守ってくれー!」
「私たちの世界を、日常を! 守れるのはあなただけよ!」
「早くそんなやつぶっ倒して、俺たちを幸せにしてくれ!」
「負けないでっ!」
――なに、これ。
舞奈は目を見開いた。なんだ、この音声は? こんなものが現実に存在していいのか――兄は大衆に応援されている。彼らの浅ましい欲望のために。
「兄さん……こんな、こんな――!」
こいつらは自分たちが何を言っているのか、本当に理解しているのか。
こいつらは自分たちが幸福であれば、そのための犠牲はどんなものでも容認されると本気で思っているのか。
こいつらは自分たちが誰かの犠牲の上に幸福になっていると自覚して、そのことに対して罪悪感のひとつも覚えないで、どうして平気な顔をしていられるのか。あまつさえ、犠牲になる人にもっとがんばって犠牲になれと言う、その神経は何なのか。
「これが人の総意だ。それが変わらない限り、俺は負けない。誰にも」
「ふざっ……けるなぁっ!」
こんなものが、声援であってたまるか――そんな美しいものであるはずがない!
「こんなことを言うのなら、人間なんて死んだ方がいいッ! 醜いだけの存在になったんなら、大人しく駆逐されればいいッ――あたしがやってやろうじゃない、他の誰にもやらせないッ! あたしが殺すッ!」
「どうしてわからない! お前のように人は強くないんだ! 弱いんだ! それを許すのが俺たちの使命だろうが!」
「その寛容さが人間をダメにしてきたんでしょう!? もう終わり――ここからは腹切り場、もう誰も甘えたことはさせないッ!」
死ぬかもしれない。だが、それがなんだ? こんな糞みたいな世界を、人間を変えられないで生きていくならば、それは死んでいるのと同じかそれ以下だ。
人々は、かけがえのない日常を守りたいと望んでいる。それが間違いかは、舞奈にはわからない。だが、ひとつだけ、言えることがある。
そのための代償を、犠牲を支払うのは誰か一人の仕事ではない――この世界に生まれ落ちた時点で、そういうものをしなければならないという使命を持っているはずなのだ。それが嫌ならば、それこそ世界のシステムを根幹から変えなければならない。
そんなことはしたくない。自分の知る、狭い世界だけで生きて、誰かが勝手に決断して、勝手に傷ついて、勝手に幸福を供給して欲しい。などと、望むなら。
代償を支払わないための、代償を支払わせる――それが全人類の抹殺ならば、舞奈は躊躇わずにやるだろう。
もうこの世界に慈悲を受け取るに相応しい、人間はいないのだから――残っているのは痛みと苦しみと……そういうものに耐え得る精神力を持つ、人間だけだ。
右腕の再生はまだ終わりそうにない。
舞奈は左手だけで拳を作って、踏み込む。接近戦で勝ち目はないが、兄はそれを理解しているから銃の生成の時間をくれたりしないだろうし、自分の得意なフィールドでしか戦えないなどという惰弱を抱えたまま生きていけるほど、この世界は優しくない。
そう。
この世界に優しさはない――強くなろうとしないならば、どんな理由があっても幸福になれずに虚しく死ぬだけだ。
それが嫌なら――幸福になりたいなら。
強くなるしかない。
両腕が使えないなら、腕にこだわる意味はない。舞奈は即座に下半身にスイッチを入れた。腕はあくまでバランスを取るための道具だと割り切る。
兄はそれを予想している。わかっている。だが他に打つ手がない。純粋な読み合いをすれば、兄に勝てる目はひとつだってない。
だから踏み込む。一歩でも前へ、一手でも先んじて攻撃を放つことで兄を無力化する。
左足を軸にして、右足で兄を狙う。彼は動じない。冷静に体をさばいて、かわした。これは舞奈も読んでいる。瞬時に右足を引き戻して、今度はそちらを軸にして、回転しながら左足を蹴り放つ。しかし、これも避けられる。
接近戦は兄のフィールドだ。そこで戦うのだから、多少の不利は織り込み済みだとはいえ――不快感がないと言えば、それは嘘になる。どうせ戦うなら、自分の得意なフィールドだけで戦いたい。それが叶わない願いだとわかっているから、舞奈はほとんど勘で、大地を蹴った。
一瞬の浮遊感と、身体のすぐ傍を兄の拳が通り抜けたのを感じる。こっちがかわしてやった。その単純な成功は、舞奈の気持ちを鼓舞した。こういう勘による正解を積み重ねればあたしは勝てる――そんな都合のいい展開は、この世界にはない。知っている。
兄の追撃の気配を感じて、舞奈はがむしゃらに跳んだ。反撃に繋がらない跳躍だし、即座に兄に距離を詰められる。だがしかし、その場に留まれば兄の次の手を読み切れない。勘が何度も当たり続けるわけがない。
頭も身体も、心も反射も。
持てるすべてを最大限に活用しなければ勝てない――そのためには万全の肉体が必要不可欠だし、あと、たっぷりの睡眠時間だとかそういうものも欲しいが、生憎とそんなものは持ち合わせていない。
体勢を整えて、五感すべてで兄の動きを探る――来る、と即座に感じるものがあって、舞奈は足を蹴り上げた。つま先で兄の拳を弾いたが、兄はそれすらも予想の範囲内か焦りの欠片も見せてくれない。
弾いた兄の手は上に飛んだが、その手にはいつの間にか斧が握られている。振り下ろす準備が整っていた。
「んなろっ!」
声を出す必要はないが、声を出さなければ気合が入らない。余計なものをとことんまで切り詰めた先にしか見えないものはあるが、やはりそういう都合のいい境地に達するのはそうそうできることではない。
足一本で半歩だが後退する。兄の振り下ろした斧を見送りながら、舞奈は蹴り足を着地させた。一瞬だけ、間が空く――
わけでもない。
兄は攻め込んでくる。
ミスだ。思いながら、舞奈はゴーズの推進器に火を入れた――他に兄の射程から逃げる術はない。だが、この動きは兄も予想している。だから、むしろ追い詰められることになる。
それでも、右腕以外にもダメージを負うよりはいい。
舞奈は空中に舞い上がった。ゴーズは飛行ができるわけではなく、要するに浮かんだだけでしかない。自由落下を推進器の出力である程度はコントロールできるが、どうしても動きは単純化を強制される。
ゴーズはケダモノを倒すことのできる唯一の力ではあるが、所詮はプログラムされたマシーンでしかない。最適化を求める性質を持っており、それを突き詰めれば、逆に動きは読まれる――最適解しか選べないなら、それは不自由そのものである。
兄は舞奈の落下地点を読み切った。何も考えずに着地すれば、その場で斧で両断できるように彼は動き出している。
舞奈は左手を突き出した。その指先がわずかに変化していることに、兄は気づいたか――気づいていない、と信じて、舞奈は銃口に変わった指先から光弾を放った。
銃を生成している暇はないが、身体の一部をそれに変えて攻撃することはできた。この隠し玉は兄の知識にないはずだし、ブルー・ゴーズのマニュアルにも載っていない。舞奈が開発した、間宮にすら気づかれないように、舞奈が組んだシステムである。
だから、兄の反応は遅れた。それでも、光弾を斧で防いだのだから、彼の不意を突くということはできないかもしれない、と思うしかなかったが。
舞奈は着地する。その頃には、左手はゴーズの装甲をまとった手に戻っていた。恒常的に変化させることは可能だが、その行き先は左手の完全に銃になる、というものだ。あまり、喜ばしい未来とは言えない。
兄はしばし、間を取った。隙はないが、ひとつ、息は吐けた。舞奈の予想外の行動には、それくらいの価値があった――が。
次はどうするの? 舞奈は自問する。どうすれば兄さんに勝てるの? そもそも、兄はここで撃退したとしても、それがあたしの目指す結果に繋がるかどうかもわからないじゃない……あたしは、何をしているの? 兄妹喧嘩なんて年齢でもないでしょうに!
そう思いながらも、自答する――だって勝ちたいんだもん、仕方ないでしょう! 兄さんが人間らしく幸福になれる世界にしたいんだもん! 兄さんが不幸になることでしか幸福になれない世界なんて、絶対に嫌だ!
勝てるはずのない、だが、どうしたって勝ちたい戦いに飛び掛かる舞奈を見て、兄は。
笑った。ように見えた。
他に選べる道はないと、わかっている。誠一は認めた。人の総意に従っているのだから、そこに自分の意思は介在してはならない。だから、どうあっても個人として何かを決断するなどあってはならない。
だが。
誠一は超人になり切れているわけではない。まだ、人だ――だから。
その時に、決断してしまった。
兄代わりとして、妹分の願いを無碍に切り捨てることはできない、と。
だって、俺は兄なんだから――妹の願いを叶えてやるもんだろう? 言い訳だと自覚している。そんなこと、世界の誰もが望んでいないのはわかっている。人の総意は舞奈を殺すことを求めている。
変わらない日常という幸福を供給するマシーンになれと、確かに言っている。
でもさ。誠一は思う。俺はまだ、人にしかなれていないんだ――大人にすらなれていない、子供なんだ。だから……ごめん。
誠一は舞奈の放つ拳を避けることなく、防ぐことなく。
ただその身に受けて。
人の総意たる誠一は、自分の意思をわがままに貫き通そうとした舞奈に敗北した。
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