第6話 分岐点

 次の日。夕食どきになったので部屋から通路に出たところで、怜司と桜が会話をしているところを見かけた。


 この二人が、二人だけで話しているのを見るのは珍しい。なんとなく気になって、俺は聞き耳を立ててみた。だが、内容はいたって普通の世間話で、これといって面白くもなかった。

 せっかくだから後で桜に、なにを話していたのかでも聞いてみようか。そう思ったとき、カラン、と軽い音とともになにかが床に落ちた。


「あ、なんか落ちた。かんざしか、これ?」


 怜司が拾い上げたそれは、かんざしだった。普段、桜はかんざしなんかつけていないはずだったが。


「む。慣れないことはするものではないな……たまにつけてみたら、これだ」


 心なしか、桜の口元が引き締められる。あれは多分、かんざしが落ちたことに対して少し怒っているのだろう。あるいは、そういった醜態を晒したことに恥ずかしさがあるのかもしれない。


「へぇ〜、桜さん、なんか上品ですね……あ、そうだ。俺がつけてあげますよ」


 かんざしを持ったまま怜司が桜の後ろに回りこむ。


「え、あ、いや……じ、自分でやるからいい」

「そう言わず。この間、たまたまかんざしの付けかたを本で読んだんですよ。これ、大変でしょ?」


 そのまま桜の制止も聞かずに、怜司はかんざしを差そうとするが、なかなか上手くいかない。付けることはできているが、気に入らないのか、何度もやり直していた。


「あー……やっぱり一度外れると綺麗にならないな。ちょっと髪、ほどきますね」

「あっ、ばかっ、よせっ!」


 止めようとする桜だったが頭を動かすわけにもいかず、手で止めることもできず、結局は黙り込んでしまった。落ち着かないのか、目線が右に左にと泳いでいる。

 その間にも怜司は桜の髪をほどいて、手ぐしで整え、かんざしを差してから縛り直した。桜から離れて彼女の周りを一周すると、出来栄えに満足したのか、頷いた。


「ばっちりですね。さっきより可愛くなりましたよ」

「う……そ、そうか」


 満足げに笑う怜司に対して、桜は俯いたままだった。


「じゃあ先に食堂行ってますねー」


 そう言って怜司は食堂へと消えていった。桜は何故だか、立ち尽くしたままだ。

 俯いていた彼女はゆっくりと顔を上げると、また俯いた。顔を上げ、俯く。それを何度も繰り返す。何度目かの往復の後で、やっと顔を上げたままにした。それでも視線が泳いでいて──照明に照らされた彼女の顔は、耳まで赤かった。

 深呼吸を何度かしてから、桜は食堂へ歩いていった。


 ……長い一幕だった。なるほど、そういえば怜司の周りで攻略してないのは桜だけだったな。なるほど。寸劇も終わったことだし、俺も食堂へ行こう。

 冷静な頭に反して、俺の胸の奥には今まで感じたことのない感覚が、まるで爆発寸前の爆弾のようにうずくまっていた。俺の理性はそれを無視したまま、身体を動かそうとした。

 だが、俺の足はうんともすんとも動かなかった。まるで神経が通っていないかのように、どれだけ動かそうとしても動かなかった。両手や、首でさえ動かない。唯一動くのは、目だけだった。全身があらゆる働きを拒絶していた。


 俺の頭が困惑で埋め尽くされる。いったい何故、自分の身体が動こうとしないのか分からなかった。不調はそれだけではない。吐き気までしてきたし、視界がぼやけて見える。正体不明の感情が胸の奥からこみ上げてきていた。


 通行人が不審そうに俺のことを見てくる。それに気がついたとき、何事もなかったかのように俺の身体は動き始めた。

 だが、身体は食堂ではなく、勝手に自室へと向かっていた。そのまま自室に入ると、扉を閉めて、鍵をかけた。


 その瞬間、俺の中のなにかが決壊した。

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