臆病者、今こそ大胆であれ。
あれから、三ヶ月が経った。
忙しい、忙しいと言いながら、時に流されるのを良しとして、あれよあれよと言ううちに東京オリンピックが始まり、そして、終わった。
毎日、仕事して家事をして、育児をして。そう過ごしているうちに、私は悲しみやさみしさから上手く隠れることに成功していた。
息子は相変わらず「マロンちゃんどこいった?」「マロンちゃん天使になってどこいった?」の質問を思い出したように繰り返している。
マロンの死を、彼の生きたことを、言葉にしなければならない。それが、自分の役割ではないか。
そう思っていたけれど、現実に向き合うことがあまりにも辛く、残酷なことだったため、三ヶ月という時が無駄に過ぎてしまった。
私は傷つくことから逃れ、隠し、目を背け続けてきた。可哀想だ、私はなんて可哀想なんだと、ふるえながら自分自身をなぐさめてきた。
だけど。
もう、十分だ。
このまま、いつも通り、悲しみが過ぎ去るのを待つだけの臆病者でいいのか。
足を止め、私は反対方向にあるものを見た。
私は成人していて、大人であり、親である。
息子に、子どもたちに伝えねばならない。
「死ぬこと」「生きること」について。
死ぬってなんだ?
生きるってなんだ?
臆病者よ。
今こそ、大胆であるべきだ。
立ち上がり、向かい合わなければならないものに対峙する。
大きく息を吸い込む。
私は大胆に駆け抜けて、真っ黒な恐怖の塊の中へ、エイヤ! っと飛びこんだ。
風がビュウビュウ逆巻いている。
生きるってなんだ?
死ぬってなんだ?
飛びこんだ先の暗い穴の中、私は星のように輝くオレンジ色の猫を見つけた。
歩み寄って、抱きしめる。
毛並みに顔をうずめて、頬をすり寄せる。
そして、ようやくかけるべき言葉を見つけた。
「ずっと大好きだよ。出会えてよかった。ありがとう」
***
眠る前に、息子は必ず「きょうみつけた、たのしい」を教えてくれる。
それは大抵、小さな出来事が多い。
保育園の園庭で花を見つけた。
とか、
丸い石を拾った。
とか、
走るのが楽しかった。
とかである。
「きょうはね、たのしい、みつけられなかったぁ」
と残念そうな日もある。そんな日もあって良いと思う。
生きててよかったと思う日も、生きるのがつらいと思う日もあっていいと思う。
私は自分のことをとても臆病だと思っている。
何かを言葉にする時、相手にどう思われるだろうか? と考えては口に出せない、あるいは文字を紡げないでいることが多い。
このエッセイを書こうと思ったのは、そんな自分がどこまで明るく楽しいを書けるだろうかと、挑戦してみたかったからだ。
私が臆病だということは、変えられない。
残念ながら、性格や性質は変えるのは難しい。
だから、私は「選ぶ方向」を変えてみた。
臆病のままで、時々大雑把になる。そのままでいいじゃないか。
今まで選んできた方向と違う方を向いてみた時、私は私のままで、少しは変わることが出来たような気がする。
流れ過ぎていく毎日の中で、どれだけ「楽しい」を見つけられるだろうか。
息子のように、些細でどんなに小さな出来事でもいい。オンラインゲームの中や、通勤途中、読んだ雑誌の中、本当は辛い出来事の中にも「楽しい」は隠れているかもしれない。
きっと、その小さな楽しいを繋いでいったら、限られた私たちの時間は、満ち足りたものになるかもしれない。
生きるって、そういうことだと思う。
これが、臆病者が必死に考えた、大胆な回答である。(現時点)
おしまい
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