みんな、いつかは。
幼い頃、テレビで芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を人形劇で放送していた。子ども向け番組だったので、それほど恐ろしくなかったはずだが、当時の私には衝撃的だった。
一目散に母の元へ走って行って、抱きついた。そして、泣いた。
「死にたくない! 死にたくない!」
今でもはっきりと記憶している思い出だ。私は、その時初めて「人は死ぬ」ということを知ったのだ。
それが、さみしくて、恐ろしくて、悲しかった。
母は私の背中をさすりながら、小さな声で言った。
「みんな死ぬの。みんなね」
その時の母の言葉は、ひどく優しかった。けれども、その言葉で納得した。みんな、いつかは死ぬのだと。
「ママ、マロンちゃんどこいった? どうして天使になった?」
ペダルを踏んでいるのに、自転車は全く前に進まない。額から汗が噴き出している。
「ねえ、ママ。天使になって、どこいく?」
私は唇を噛んだ。三歳児特有の「どうして?」「なんで?」という質問も、今は答える気力がなかった。
マロンが死んだ、という事実を息子にどう説明していいかわからず、私は「マロンちゃんは車に轢かれて、天使になった」と曖昧に誤魔化したのだ。
つまり、私は逃げたのだ。
「ねえ、ママ。マロンちゃん、どこいった?」
息子はその言葉を繰り返し私に尋ねた。錆びた自転車のチェーンがカラカラと空回りしている。
「ねえ、ママ」
私は黙ったままだった。ひたすら、自転車を漕ぎマロンが亡くなったという場所へ向かっていた。
マロンが帰って来なかったあの日。
夕方、彼は家から数メートル離れた場所にある傾斜のきつい坂にいた。
急勾配の坂だから、めったに車は通らない。けれど、その日は珍しく車が通った。エンジンをふかして、力をつけて、車はすごいスピードで登って行ったという。
そして、一匹の猫とぶつかった。
車は順調に坂の上までたどり着いたが、猫は坂の下まで飛ばされた。
私は自転車を止めた。用意していた猫の缶詰を、リュックから取り出す。黙ったまま、息子を自転車から降ろしてやった。
マロンが息を引きとった場所は、道の端の薮の中だった。
誰かが、遺体に白いタオルをかけてくれたという。そして、次の日の朝には業者が遺体を引き取ってくれた。
父が置いたのであろう、猫用のお皿が道の端にあった。マロンが使っていた皿だ。
私は猫の缶詰を皿の中に入れてやった。
「痛かったね」
車にはねられ、坂の下まで転がった。そして、二百メートルほど、マロンは歩いた。
家とは反対方向へマロンは歩いた。家は坂の上だから、無理だったのかもしれない。
けれど、何とか生きようとして、歩いたのだ。
暮れていく日の中で、たった独りで。彼は最後に何を見たのだろう。
「ママ、今日もドクターイエローみえる?」
何も知らない息子が、無邪気に尋ねてきた。私は首を横に振った。
「もう、見れない」
遺灰も遺骨も、何も残らなかった。
こんな別れ方があるだろうか。
「行こう」
息子を自転車に乗せて、再び走り出した。
「ねえ、ママ。マロンちゃんいた? どうして、天使になった?」
「もう、会えないんだよ」
「どうして?」
「天使になったら、もう会えないの」
「なんで?」
「車にひかれちゃったから、天使になったの」
「どうして、車にひかれると、天使になる?」
「だから」
カッとなった。
「死んじゃったの!」
前に座っている息子に向かって、私は大きな声を出した。
「死んじゃったから、もう、会えないんだってば!」
吐き出してから、ハッとした。八つ当たりだ。
「……ごめん」
息子は黙ったままだ。自転車はキィキィ軋んだ音を鳴らし続けている。公園の横を通り過ぎた。子どもたちの笑い声が響く。
「ねえ、ママ」
小さな声で息子が言った。
「ぼく。ぼく、もう会えないの、さみしい」
声がふるえていた。彼は声をあげて泣かずに、静かに涙を落としていた。
ペダルを漕ぐ足に力を入れた。
「ママもさみしい。とても、さみしい」
目の前の道路がぐにゃりと曲がって、にじんでいく。自転車は悲鳴をあげながら、マロンから遠ざかっていく。
「みんな死ぬの。みんなね」
母の声が聞こえた。
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