自転車のお姉さん
キュッ、と高い音をたてて、自転車を止めた。振り返ると、高校生の男の子が手をふりながら、こちらへかけてくる。
「自転車のお姉さん!」
道の反対側で、彼は大きく手をふった。その手には、見覚えのあるバレッタがあった。透け感のある水色のリボンが「ここだよ」と言うように風になびいている。
自転車の向きを変え、彼の元へと走った。
「落としましたよ」
彼の顔には汗が流れていた。走って追いかけてきてくれたのだろう。申し訳ない気持ちと、ありがたい気持ちでいっぱいになった。
もう落とさないようにと、バレッタを手に持って、私は再び自転車を走らせる。
それにしても、とても優しい男の子だったな。思い返して、微笑んでしまう。
買ったばかりのバレッタに視線をやって「ごめんね」と「よかったね」を伝える。
「自転車のお姉さん!」
ふと、彼の声がよみがえってきた。
自転車のお姉さん。
自転車の、お姉さん。
お姉さん。
お姉さん!!!
あの時は気にしなかったが、今になって「あわわ」と変な声が出てきた。
お姉さんだなんて!
私はいつになくキャッキャした。
嬉しいじゃないか!
お姉さんと呼ばれるなんて!
なんて可愛い青年なんだ!
飴ちゃんでもあげるべきだった!
『◯◯くんのママ』としか呼ばれなくなった私に、お姉さんという呼ばれ方は、胸がくすぐったくなる言葉だった。
いや、待てよ。
にやけた顔が真顔に戻る。
「自転車のおばちゃん」「自転車の人」「自転車の女の人」「自転車のお母さん」
優しい男の子のことだ、一瞬どの言葉を選択していいのか、わからなかったのかもしれない。
優しくて、相手のことを思いやれる彼のことだ、きっと呼び止めるのに最適な言葉を選んでくれたのだろう。
そうだ、きっとそうに違いない。
彼の優しさと気遣いの素晴らしさに涙を流しながらも、そうだよね、私もう、お姉さんって歳じゃないんだよね、と別の涙も流したのである。
私はよく(?)物を落とす。だいたいカバンが開いているからか、ポッケに入れているから落とすのであるが、思い返せば落とした数だけ、出会いがあった。
高校生の頃、電車とホームの間にローファーを落とした。一緒に帰宅していた友人二人が意気揚々と「駅員さん呼んでくる!」と足早にかけていった。
「どっちか一緒にいて!」という必死の頼みは、彼女たちに届かなかった。
夕方の駅。帰宅するサラリーマンや学生たちが見守る中、私は駅のホームで、片足靴下の状態でぼうっと立つしかなかったのである。
どこかの優しいマダムが「あなた、靴は? 無くしたの? 学校どこ?」と心配してくれた。
どうやら私がイジメにあっていると勘違いしたらしい。ホームの下に落としたと話すと「なんでそんなところに落とすのよ」と言って去って行かれた。
なんでと言われても、落ちてしまったものは仕方がないではないか、マダムよ。
その後、ローファーは無事に私の片足に戻った。馴染んでいたはずのローファーが、妙に大きく感じた。恥ずかしい思いと、友人や心配してくれた人たちの気持ちが混ざり合って、少しだけ、ちょっぴり、特別な思い出の靴になったからかもしれない。
社会人になってからも、思い出深い落とし物をしたことがある。
東京駅の改札を出てすぐ、サラリーマンの男性に呼び止められた。
「これ、落としたよ」
差し出されたものを見て、私は顔が赤くなった。ポッケに入れていたキットカットが落ちたのだ。
チョコの為に、この男性はわざわざ追いかけてきてくれたのだ。申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいになる。
チョコを受け取る時、男性は微笑んで、
「がんばってね」
と言った。とっさに「はい」と返事を返したけれど、何のことだろうと私は首を傾げた。
仕事をがんばってね、ということだろうか?
それとも、チョコを食べて一日がんばってね、ということだろうか?
キットカットを握りしめたまま、くるりと向きを変えた時、驚きで目を見開いた。
『がんばれ、受験生』
目の前のポスターには、そう書かれていた。
その日の私の格好は、ネイビーのダッフルコートを着ていた。まさかと思うが、学生に見えたのだろうか……。
拾ってもらったキットカットは、昼休みに食べた。
キットカット。きっと、勝つ。
落としたせいだろう、キットカットはポキンと折れていた。これは……受験生だったら、アウトなやつ。
私が受験生でなくて、良かった。そもそも、落とした時点で縁起が悪い。
けれども、あの男性は気がついて拾い上げてくれたのだ。「がんばってね」という言葉を添えて。
折れたキットカットは、最高に甘かった。
この世界って、なんてステキなんだろう!
食べ終わったキットカットの包装を、丁寧に伸ばして綺麗にする。クシャクシャだった包装が、ピンっと真っ直ぐ上を向いている。
「あなたも、ステキな一日を!」
一瞬の、名前も知らない人たちへ。
私は感謝と祝福を送る。
物は落とさない方がいい。大切にしないと。けど、と私は目を閉じて思い返す。
あの甘いチョコレートの味を。
マダムの心配顔を。
走っていく友人たちの後ろ姿を。
「お姉さん」と呼ぶ声を。
物が繋いでくれる出会いもあるのだ。
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