眠っている時、実験。

 私は今、忍び足で標的に近づいている。

 起こさないように、見つからないように。


 ミシミシっと足元から音がした。

 標的が微かに顔を動かした。


 しまった!


 私は慌ててその場に伏せる。


 しばし待つこと数秒。標的から規則的な寝息が聞こえてきた。



 そう、いまこそ大胆になる時!



 私はスパイ映画のごとく、体をグルンと転がして一気に標的に近づいた。

 両手に持っているボトルから中身を適量出し、標的の顔に近づけていった。



***



 新婚の時、私は悩んでいた。

 寝室問題である。


 シングルのベッドを二つ購入するか、ダブルベッドを購入するか。

 新居は広くないので、ダブルベッドが理想だった。


 だが、しかし!


 ダブルベッドとはいかがなものか!!

 常に相手が隣にいるということだ!


 いや、新婚なのだからそれくらい問題なかろう。


 だが、しかし!


 喧嘩した時はどうするのだ。大変に気まずいではないか。それに、夏は暑そうである。


 シングルのベッドを仲良く並べて、喧嘩した時はわかりやすく溝を作ればいいのではないか。


 そうだ、そうしよう。


 だが、しかし!


 その溝が原因で……離婚となってしまったらどうするのだ! 

 あわわわわわわわ。大惨事。



 私はめんどくさくも悶絶した。

 今思い返せば、これがマリッジブルーだったのかもしれない。



 結局、購入したのはダブルだった。シングルとダブルの間をとることにしたのだ(?)。



 さんざんに悩んだ挙句、最終的な決め手は「眠っている時、気がつかない」であった。


 眠ってしまえば、隣に誰がいようか私はあまり気にならない。というか、眠りが深すぎて、そんなことどうだってよくなってしまうのだ。


 以前、睡眠記録アプリを試しに使ってみたことがある。枕元に置いたスマホが、寝返りなどを検出してグラフにしてくれるというものだ。


 良質な睡眠は、ゆるやかな波状のグラフになる。私の場合、一気に眠りにつき、グラフは急降下。それ以降目覚めまで浮上しないまま停滞していた。


 これは、睡眠的に大丈夫なのかという議論は置いておいて、私は一度寝るとあまり動かないという訳である。


 それならばセミダブルで問題なかろう、と強引に結論をだした。



***


 標的の旦那さんは、良く眠っている。


 彼もまた、眠ったらどうでもよくなるタイプであった。そもそも彼はベッドの大きさに全く興味を示さなかった。


 眠れればいいのである。




 キュポン。


 私はボトルの蓋を開けた。

 これは、美白美容液である。


 一方は、二千円以上する口コミの良い美白美容液。もう一方は、プチプラで口コミの良い美白美容液である。



 それを、旦那さんの顔に塗るのである。

 右側は、高い方。左側は、プチプラの方。

 


 旦那さんは、肌が地黒であった。

 どちらの美容液が、彼の肌を美白にしてくれるのか。

「オーッホッホッホ」と高笑いしたくなる気持ちを抑えて、私はそーっと美容液を塗っていく。



 彼は起きない。

 起きないし気がつかない。

 起きないし気がつかないし、起きても自分の肌がプリプリになっていることにも気がつかない。



 私はこの実験を、一週間行っている。

 正直、もう飽きてきている。


 それに、この面白い実験を早く旦那さんにしゃべりたくて仕方がなかった。


 隣で人間が眠っていると、どうしてもイタズラをしたくなる。


 今振り返れば、しょーもないイタズラの数々である。

 お腹に小さな顔を書いてみたり、背中にできたニキビにこっそり薬を塗り、いつ治るのかを観察してみたり、眠っている時の人間の目はどうなっているのか確認すべく、まぶたを開けて見たりした。(※良い子は真似しないように)


 今思えば、旦那さんに怒られなかったのが不思議である。反省はしている。

 全てはセミダブルのベッドがいけないのだ。ベッドのせいにしておこう。




 しばらく経って、私は旦那さんに聞いてみることにした。



「寝ている時、何か違和感を感じない?」

「え、寝てる時? うーん。なんだろう?」

「例えば、くすぐったかったりとか」

 うーん、と彼は考え込んで、

「寒い」と言った。

「そっか」と答えておいた。



 またしばらく経って、身支度をしている旦那さんに聞いてみることにした。



「最近、お肌の調子どう?」

「うん、ヒゲが濃くなったきがする」


 どうでもいい回答が返ってきた。




 ついに、私はがまんの限界を迎えた。



「あのね、寝ている時に、美白クリームをこっそり塗ってたんだよ」


 私はついにネタを明かした。旦那さんは頬を触って、


「あっ! プルプルになってる!」

 と叫んだ。

 この人はきっと騙されやすい人だ。すぐ詐欺とかにひっかかってしまいそうだ。今後、妻の私が気をつけなければならない……。


 新婚の私は固く心に誓った。



「本当に気がつかなかった?」

 私は念のため確認した。

「全然! 寝てたし!」

「じゃあ、肌が白くなってきたような感じはしてない?」

「うん、全く!」

「だよね」

 旦那さんの右側と左側の顔を交互に見ながら、私はちょっぴり実験の結果に残念な思いをしていた。



 美白は一週間にしてならず。




 劇的な結果を望んでいたわけではないけれど、スパイのように活動していた時間を振り返った。

 



 寝ておけばよかった、と。

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