一撃必殺のスリッパ。

 オレンジ色の毛並みに顔をうずめて、大きく息を吸い込む。砂と草、お日様の匂いがする。


 ぐるぐる、と喉をならす声が聞こえてきて、猫の頭を撫でてやる。眉間の間。少し、かたいところ。彼は、ここが好き。


 大きな窓からは、5月の風と柔らかい陽射しが差し込んでいる。



 午前11時。私と猫のマロンは、ベッドの上でお昼寝をしている。


 というより、マロンがお昼寝していたところに無理矢理、お邪魔したのだ。ベッドの三分の二はマロンが占領している。


 一階から息子の「ワー!」という大きな声が響くと、カチャカチャカチャと慌ててフローリングの上を走っていく音が聞こえた。


 実家で飼っている、もう一匹の猫、みーちゃんは人間が嫌いだ。大きな声を出して、近寄ってくる子どもは大の苦手。カチャカチャの音の正体は、みーちゃんが大慌てで、どこかに隠れた音だろう。


 その音を合図に、のっそりとマロンも立ち上がる。縦に伸びをして、ベッドから降りてどこかへ行ってしまった。一人でのんびり寝たいのだろう。



 広くなったベッドの上で、ゴロンと仰向けになる。目の前すぐに、青空が広がっていた。


 実家は山の中にある。二階のこの部屋からは、何も遮るものが無い。電線、隣の家、洗濯物など。家の中にいるのに、まるで山の上で寝そべっているように、開放的だ。



 ほっと息を吐き出すと、まぶたがとろんと溶けてくる。季節の変わり目、私は毎度体調を崩す。今日は限界だと思って、実家に来た。息子を束の間預けて、休ませてもらっているのだ。



 こういう時、実家が近くにあってよかったと思う。体調を悪くした時、お母さん、お父さんたちはどうしているのだろう? 私みたいに、実家が近くにない親は大変だろうに。



 顔の知らない見ず知らずの全国で育児をがんばるお母さん、お父さんたちを想像して、私はエールを送る。けれど、と思う。同じ親同士、助け合えたらいいのに、と。



 頭の中で、あれやこれやと考えていると、カーテンが膨らんで、緑の香りを運んできた。


 まだ、生まれたばかりの葉っぱの匂いと、みずみずしい土の香りがした。5月の匂いだ。


 我が家には、気持ち程度の庭がある。


 猫の額よりはまあまあ広いけれど、長方形の庭がある。金木犀と松、木槿むくげの木が、横並びに植っている。木々に隠れるように、ひっそりと灯籠とつくばいが立っている。


 とにかく広さはないので、木がみっちりと隣あっている。そのため、雑草も生え放題である。鬱蒼と、という言葉が似合う庭で、幼い頃の私は小さな森と思って、庭でよく遊んだものだ。


 

 この小さな森のせいか、我が家にはたくさんの動物たちがやってくる。


 山鳩にヒヨドリ、シジュウカラ。カエルにカニ、青大将。三軒先のダックスフンド。それから、縁の下でタヌキが住み着いたこともあった。



 それら動物たちは大歓迎であるが、動物以上に虫のほうが多く存在した。


 カニみたいな蜘蛛が家の中に入りこんで来た時は、この世の終わりかと思ったほどだ。以来、足が多い虫は嫌いになった。





「お姉ちゃんが産まれたばかりのころね」


 確か、私が中学三年生のころだ。お菓子をつまんでいると、唐突に母が言った。


「大きなムカデが出たのよ。家の中に」


 どのくらい大きいかというと、父の二の腕くらい太く大きかったという。想像しただけで、寒気がしてくる。


 そのムカデが家の壁を這い回り、生まれたばかりの赤ん坊のところへ行こうとしていたという。


「あたしもね、虫が苦手だし。怖かったけれど、仕方がないじゃない」


 お菓子をポリポリ食べながら、母は言う。私は姉の危機と母のムカデへの恐怖と、やらなければという使命感を肌で感じて、


「それで、どうしたの?」


 と半ばワクワクしながら尋ねた。


「スリッパで叩いて、やっつけたのよ」


 えええー!!


 私は仰天すると共に、記憶をさかのぼって、頭をさすった。まだ小学生くらいの頃、悪さをして母にスリッパで頭をスッパーンと叩かれたことがある。


 あれを、ムカデもくらったのだ……。

 一撃必殺。


「そうしたらね」


 母はまだムカデの話を続ける。一撃必殺のスリッパを食らったのに、ムカデが反撃してきたのかと思いきや、


「もう一匹出たのよ」


 と母は言った。


「お父さんのスーツにくっついてたの。背中にペタってね」


 背筋がゾクゾクした。私だったら悲鳴をあげて、転げ回るし、もうその服は着れないかもしれない。


 背中にムカデがいることに気がついた父は、ムカデを振り払い、


「後は、頼んだ!」


 と叫んで、猛ダッシュで会社へ向かったという。もし、旦那さんが父と同じことをしたら、私は生涯をかけて旦那さんを呪うであろう。


 だが、母は強かった。「なんなのよ!」と憤慨しながら、またもや一撃必殺のスリッパでムカデをやっつけたのだ。


 母が強いのか。スリッパが強いのか。


「ねえ、そんなに大きなムカデ、日本にいるの? この山の主だったんじゃない?」


 日本のあちらこちらに、巨大ムカデがいたらどうしよう。何かの間違いであって欲しいと私は思った。


 第一、そんな巨大ムカデ見たことがない。見たことがあるとしたら漫画『犬夜叉』の中だけである。


「そうかもねぇ。あれ以来、出てないしねぇ」


 母は、強敵だったムカデたちを思い返しているようだった。


「ねえ、学校の先生に聞いてきてよ」


「ええ」


 と不満の声をあげたものの、私も気になってしまった。後日、生物の授業の後、先生をつかまえて尋ねた。


「家の中に、このっくらい、大きなムカデが二匹出たんです」


 母から聞いたとおりの大きさを両手で示しながら、私は言った。


 授業の質問でもなく、ムカデの話を唐突にしてくる生徒を前に、先生は頭の上にはてなマークが数個出現させていたが、素早く瞬きをして、


「そう」


 と、とりあえず驚いてくれた。


「それで、ムカデの名前が知りたくって。こんなに大きなサイズのムカデって日本にいるんですか?」


 先生は「そうねぇ」「むかで」と口の中で繰り返して、


「次の授業までに、調べておくわね」


 と言ってくれた。やさしい先生である。実際、先生は大量の資料を片手に、次の授業後、私の元へ訪ねて来てくれたのだ。


「これは、アフリカのムカデ」


 赤く毒々しいムカデの写真を、先生は机の上に広げた。「こっちのも大きいでしょう?」と次々にムカデの写真を見せてくれた。


 ウネウネ長い胴体をくねらせて、鈍く体が光っていてとても不気味だった。見ているだけで、鳥肌が立つので私は「ああ」とか「はい」とか曖昧な返事をして、その写真から逃れようと苦笑いした。


 けれども先生は私の反応を見て、どれも違うと判断したようだった。


「実際に見てみないと、このムカデじゃないかしらって判断はできないのよねぇ」


 と残念そうにため息をついた。


「もう、そのムカデはとってないの?」

「え?」

 

 いやいや、先生。もう何十年も前に昇天されたムカデを標本のようにとっておくだなんて……。気持ち悪いし、絶対に、断固として、頑なに、お断りだッ!


「次出たら、とっておくといいわ」


 先生は興味深そうに言った。それから、きゅっと眉根を寄せて、怒ったような顔をする。


「いいですか、天国あまくにさん。ムカデがでたら、頭を潰すのですよ」


「え? あ、はい」


 とっさに返事を返してしまった。


「ムカデは毒がありますからね。頭を潰すのです」


 先生は繰り返した。先生の迫力に「わかりました」と私は返事をしたけれど、巨大ムカデに出会ったら、頭を潰すどころか、目も合わせず速攻で逃げるだろう。


 先生は満足そうに微笑んで、大量のムカデの写真を私にくれた。


「次出たら、写真撮っておいてね」


 絶対見せてね! というように先生はウキウキしていた。意外と、虫が好きなのかもしれない。



 私は家に帰って、母に大量のムカデ写真を見せた。


「こんなんじゃなかったわね~」


 写真を見ながら母は、どのムカデも違うと首を振った。結局、ムカデの名前はわからずじまいだった。


「ムカデが出たらね、頭を潰すんだって。先生が言ってた」


 私が言うと、母は承知承知とうなずいた。


「そうよ、だから頭を真っ先に叩くのよ」


 スリッパで。

 私は自分の頭をさする。


 私もムカデも、まずは頭を狙われるのだ。

 スリッパで。

 

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