不機嫌な玲子さん。

 年に一度だけ会うその人は、いつも不機嫌だ。


「はい、次。はい、入って。そう」


 その年も変わらず不機嫌そうだった。凛々しい眉毛が、さらに引きあがっている。ピリピリした雰囲気に合わせるように、無造作な髪は肩にぶつかって跳ね上がっていた。


「はい、次」


 もうすぐ私の順番がくる。ぎゅっとこぶしを握りしめて、大丈夫、と言い聞かせる。


 大丈夫。

 だって、私には秘策があるのだから。



 年に一度会うその人は、健康診断センターの先生で、いつもレントゲンを担当している。私は密かに玲子れいこさんと勝手に命名して呼んでいた。


 いかにも強気な人を前にすると、ドキドキして目が泳いでしまう。だから、名前を勝手につけている。そうすると、妙に落ち着く。



 昔、苦手な上司のことを「千と千尋の神隠しに出てくる番台のおじさん」と心の中で呼んでいたことがある。たったそれだけで、苦手意識が薄れる気がするのだ。それと同じである。



 レントゲンを受ける場所は一つしかない。男女関係なく列を作って順番を待つ。玲子さんは次の人が女性であるとわかると、



「はい、こっちの部屋入って。ブラジャー取ったら、こっちの部屋来て」

 


 と「ちょっと醤油とって」と同じトーンで言うのだ。実に気まずい。男性も気まずいだろうが、女性はもっと気まずいのだ。


 しかし、玲子さんは不機嫌なのだ。文句を言ってはならない。なにも知らない一年目の頃は、追い剥ぎにあった気分で、足早にレントゲン室へと向かったことを思い出す。




 だが、今回は秘策があるのだ。




 金具が付いていないものなら、レントゲンは問題ないはずだ。


「はい、次の人。こっちでブラジャー取って」


 きた! 私はドキドキする胸をおさえながら、恐る恐る口を開いた。


「あのう……ブラトップです」


 レントゲン室に戻ろうとしていた玲子さんは、振り返って目を丸くした。目力が強い。


「ブラトップなんです……」


 もう一度繰り返すと、玲子さんはムンっと私に近づいた。それから、声を低くして、


「ユニクロ?」


 と言った。


「え?」不覚にも私は聞き返してしまった。


「ユニクロなの?」


 その瞬間、私はパニックに陥った。

 秘策が失敗に終わってしまったかもしれないこと。

 玲子さんと会話をしている現状。

 混乱を極めて、アニメのように目をぐるぐるさせた。


 そして、とっさに嘘をついた。


「(本当はGUだけれど、ユニクロもGUも同じ持株会社の傘下だから、もはや同じということでいいよね)ユニクロです」



 玲子さんはついて来なさい、というように身を翻して、それから短く「入って」と付け加えた。


 その後、レントゲン室で「力いれないでー、息止めて」などと言われたが玲子さんの前で、息はずっと止めたままだったし、力を抜くことなど到底出来なかった。そんな検査だったが、特に異常はなかった。



 だが、なぜ玲子さんがユニクロにこだわったのかは、結局わからず仕舞いだった。玲子さんはユニクロがお気に入りなのだろうか。あの時、素直に「GUです」と言っていたら、どんな未来が待っていたのであろうか。



 そう思いながら、私はとぼとぼとユニクロへ向かうのである。






 そして、今年も健康診断の季節がやってきた。


 ドキドキしていた。


 玲子さんに会うのが、実は楽しみになっていたのだ。秘密を共有する、仲間のような気がしていた。


「はい、次の人」


 呼ばれて私は勢いよく立ち上がった。


 私は、知っている。

 不機嫌な玲子さんが、ちょっとだけ不機嫌じゃなくなる呪文を。

 私は、知っている。

 レントゲン室に入る、暗号を。


 ない胸をむんっと反らして、玲子さんの前に出る。


「ユニクロのブラトップです!」


 今回は、正真正銘、ユニクロです。心の中で叫んだ。


 玲子さんが面白そうに口の端をあげた。


「入って」

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