171~180
男はただ笑っていた
目の前の男の足元に影はなかった。「君は幽霊か」「幽霊だね」「そうか」「怖いかい」「いいや」煙草を一服。幽霊は煙を吐き出す間もそこに立っていた。火をもみ消すまで何も言わずそこにいた。「幽霊には慣れている」「へえ」「ただ、まあ」男の顔をじろりと眺める。「自分と同じ顔の幽霊は初めてだ」
振り積もる一
サイコロを一つ、赤い一の目。もう一つ振る。また一の目。一、一、一、一。一の目が六個。けれどどれだけ集まろうとも、一が一であることには変わりはない。六の目を出した訳ではない。ただの一の集合体。何も変わらない。この立方体の檻の中でさえ、私はどこにも進めない。もう一つ振る。また一の目。
君はそのままで
あまたの猫の中から完璧に可愛らしいところだけを抽出して作りあげた完璧に可愛らしい猫が完成した。大きく潤んだ瞳。すっきりと伸びたヒゲ。柔らかな体毛。ぐっと伸びる足。どう見ても完璧に可愛らしい猫だ。甘い声を出してすり寄ってくる猫を撫でようとして引っ掻かれる。「うん」ただの猫だなこれ。
恋の病
「君の病名は恋煩いだ」「なんと煩わしい」「恋だけに」「訳の分からんことを。薬でも出してくれ」「恋煩いに効く薬はたった一つしかない」「出せと言うに」「これを出せるのは君の恋の相手だよ。ズバリ、愛さ」「それが貰えないから悩んでる」「え、私が出してやれるだろ」「やれやれお前も恋煩いか」
氷上少女
冬が来て、あちこちの水溜まりが凍り付いた。いくつか割っていくと、一つの氷の上で女の子が裸足で踊っているのを見た。思わず声を出したら女の子はぱっと消えてしまった。僕はその氷を踏み割り、水になったそれをガラスの瓶に入れた。窓辺に置いたその水が凍った日には、瓶の中で踊る女の子が見える。
白いノート
ノートを捲る。さて何を書こう。日記を書こうか。○月×日、風が強かった。他に書くことがない。小さな兎を書く。一匹じゃ寂しい、もうひとつ、もうひとつ。十五匹の兎が集まった。跳ねているもの、座り込むもの、こっちを見ているもの。ノートを畳む。後ろを見ると十五匹の兎の群れがひしめいていた。
私が沈む前に
泣いている女の子がいる。どうしたのだろう、怪我をしたのか、叱られたのか。「どうして泣いていの?」聞いても女の子は答えないず、泣いている。しゃがみこんで、顔を覆い、涙が手を伝う。この子は私だ、昔の私だ。どうして泣いていたんだろう。涙が海になる。私は私を掬えない。誰かが救わない限り。
冬は溶けぬ
冬の妖精がやってきた。細かなレース編みのような、雪の結晶でできたドレスを身にまとって、小さな手で窓を叩いてる。けれど彼女に触れるには、私の体温は暖かすぎる。まあ妖精というものは、溶けてもすぐに元に戻るのだけれど。冬の妖精は無邪気に笑って窓を叩く。私は触れるか触れまいか迷っている。
猫は宇宙の香り
昼間はほっそり月の瞳。夜中はまあるい日の瞳。猫の目はくるくる回る。天体を巡る惑星のように。宇宙に渦巻く銀河のように丸くなる猫の体。「君は宇宙からきたのかねえ」聞けば馬鹿にしたような目をして尾を一つ振る。「きっとそれはイエスってことなんだねえ」そっと顔を寄せれば日の温かみを感じた。
安らかな心臓
ぷつ、ぷつと彼女のパジャマのボタンを外す。柔らかな胸が左右に流れて呼吸とともに静かに上下する。胸の合間に手を入れる。ことん、ことん、ことんと彼女の心音を感じる。このまま爪を立てて心臓を抉り取ってしまおうか。そう思って、やめた。彼女はまだ眠っている。自分を害するものがないと信じて。
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