二
並んで死体を運び出しながら、
「なあ、お前はさ」
死体を苦労して引きずっていた紫沁は、洛風に一切目を向けずに言った。
「紫沁です」
「……紫沁は、その洞? から抜けたいって思わねえの」
紫沁は虚を突かれたように洛風を見上げた。
「抜けたいと思ったことはありません。これからもそうでしょうね」
「まだ道長連れ戻すの諦めてないのか」
「夜師兄がいなくても関係ありません。……諦めてはいませんが」
よく分からないなと、洛風はかぶりを振った。
「ひどいことをたくさんしたって、道長は言ってた。なのにか?」
「それは、私たちの仕事のどこに目を向けるかによるでしょう」
紫沁は淡々とそう言った。
「目の前にいる一人を殺して、陰にいる数百人を助ける仕事です。目の前の人間に情が湧くのは仕方ありません。ですから私たちは、呪殺する相手の名と生年月日しか知らされないのです」
言葉を切り、言いにくそうに目を伏せた。
「……ただ、完全に無関係でいることはできません。文清は駄目になって……私は――この仕事に向いていたので、そんなことは無かった」
「でもお前は文清を逃がしたんだろ。それって向いてるっていうのかよ」
「……そこだけは、確かに違います。文清一人を殺しても、数百人が助かるわけではありませんでした。それは仕事ではなく、ただの殺人です」
紫沁は自嘲するように呟く。
「私はきっと一生洞にいます。それで構いません。でも、抜けたいと言う人間を殺すことだけはたぶん、できない……」
洛風はしばらく黙ったあとに、「甘いな」と言った。紫沁はさっと顔を赤くすると、洛風の肩を思い切り突き飛ばす。疲れていたからか、洛風は姿勢を崩して地面に尻もちをついた。
「いった……別に馬鹿にしたわけじゃ、」
ふと、紫沁が眉をよせた。視線の先には、洛風の懐からはみ出した古い紙片がある。
彼女はそれをいきなり奪い取った。
「これ、どこで手に入れたんですか?」
「どうでもいいだろ――おい、返せって!」
「どうでもよくない。これは、碧華洞の護符でしょう!」
紫沁は興奮したように顔に血を上らせた。洛風は反対に、狼狽えたように視線を泳がせる。
「違うとは言わせませんよ! 碧華洞の護符は余所の人間に与えては駄目なものなのに――それに――これ、夜師兄の字ですよね?」
滲んで掠れ、ほとんど読めない字を指差す。洛風はさすがに呆れて眉を下げた。
「見間違いだろ」
「私が師兄の字を見間違えるわけありません」
「……」
本人も分からなかったのにと洛風は呟く。
彼女は人質のように古い紙切れを手にしたまま詰問した。
「どこで手に入れたんです?」
洛風は大きくため息をつき、彼女の手からあっさり護符を奪い返した。
「あ!」
「お前には関係無いだろ」
「護符が流出していたようなら問題です!」
「……別に、流出じゃない」
諦めて、洛風は頭を掻いた。
「昔の話だよ。俺が餓鬼の頃にたまたま貰ったんだ。俺はこれに守られてたから、無事に生きてこれた」
紫沁は面食らい、ややあって訝しげに言う。
「でもその護符、鎮宅符ですよ。家の邪気を祓う……」
「なんでもいいんだよ」
大事なのは、誰かが自分の無事を祈ってくれたこと、その事実だけだ。
――これは貴方を守ってくれるものです。大事に、仕舞っておきなさい。
廃寺に置き去りにされた子ども。そこに訪れた
だから、何もかも失ってもまだ生きようと思えた。
納得できないように紫沁は眉をひそめていたが、やがて言った。
「では、貴方が師兄に付き纏っているのは恩返しだと?」
「……そんなんじゃない」
最初は、無償で人助けをする道士の噂を聞いて、もしかしたらと思って柳州に行った。それは人違いだったが、結果的によく似た人には会えた。
夜静はまったく覚えていなかった。十年前に行き合っただけの子どものことなんて覚えていなくて当然だ。
洛風は苦笑いして首を傾げた。
「いやまあ、ちょっとはそういう気持ちもあったけど……でも、守ろうとしてもあの人はそんなに弱くなかったし、大人しくもないし」
紫沁はほんの少し、つられたように笑った。洛風は紙片に目を落として呟く。
「俺はずっとこれを手放せなかったのに、あっさり忘れられてたしな」
紙切れを見て、紫沁は訊いた。
「なぜ言わないんです? 言えば思い出すでしょう。師兄は確かに物覚えは悪いですが……」
紫沁は後半、やや悔しそうだった。彼女にも思い当たる節があるらしい。
「恩とか貸し借りとか、重いだろ。そういうのが本当にどうでも良くなったら言うかもな」
俺はまだ駄目だと洛風は笑う。紫沁はしばらく黙ったあと、小さな声で言った。
「……貴方が夜師兄に付き纏っていても、まあ、少しなら許します」
「なんだよそれ」
「少しですよ。いずれ洞に帰ってきてもらいますから」
それから、と彼女は続けた。
「師兄を助けてくれて、ありがとうございます」
洛風は驚いたように目を見開く。紫沁はそれ以上何も言わずに作業に戻った。
***
慶佳宮の死体は夜が更ける頃には全て片付けられ、帰るべき場所へと運ばれていった。
徹底的に破壊された寺院は、ある種の清々しささえ感じる。敷地の外から焦土を眺めていた玉燕は、背後にいた叶瑞を見て呆れ果てた。
「お前、いたなら声掛けろよ」
「何か考えているようだったから。……夜静は断ったのか」
「まあな。お前の部下、私より利口だよ」
それだけ言って帰ろうとした玉燕は、腕を掴まれて不快げに眉を寄せた。
「なんだよ。他人に触られるのは嫌いなんだ」
「申し訳ない。私は礼を言いたいだけで」
「礼?」
「貴女がこんなに介入したのは、夜静だけが理由ではないだろう」
「……」
ため息をつくと、玉燕はわざとらしくにっこり笑う。
「お前の為じゃないぞ。もちろん皇帝の為でもない」
「ではなぜ?」
「……死人が蘇ったら泰山府君が困るだろ」
「――ああ、なるほど」
貴女も死期が近かったはずの人を大勢治して迷惑かけたらしいな、と言われ、玉燕は思い切り男の脛を蹴った。
「で? お前は夜静をどうするんだ? 洞に連れ帰らないのか」
「もういいかなと。本当は彼に呪殺して欲しい人がいたんだが、それはもう解決したし」
「誰だよ」
「頼景羽」
悪戯っぽく、叶瑞は笑った。
「うちの道士が何人も呪詛返しに遭って困った。なかなか隙を見せないし。彼は五年前の戦争の生き残りで、陛下も扱い兼ねてね」
玉燕は表情を失くした。
「……南慶と柯蕃の? 何かしたのか? 高梁に都合が良いとは思っていたが……」
「私も詳しくはないが」
南慶の寺院に閉じ込められた本来の大巫師候補の派閥の人々を惨殺したのは、柯蕃ではなく高梁の派遣した兵隊だろうと叶瑞は言う。
「柯蕃の部隊のふりをして火種を蒔いたわけだ。ほとんどが白吟之の私設兵から選ばれていたらしい。彼らがどうなったかは知らない」
玉燕はしばし言葉を失い、それから呟くように言う。
「白吟之――あいつ
「鬼?」
「南慶の化物だ。鶏を供えて肥えさせ、人を祟らせる。祟られて死んだ人間も雞鬼になって、次に祟られたやつは以前に祟られて死んだ者の言葉を喋る――だっけな」
「相変わらず詳しい」
笑う叶瑞とは対照的に、玉燕は暗い目をした。
「景羽は……高梁国を恨んだのか」
「というより、皇帝陛下だろう。陛下を斃すのに屍仙符に目をつけるのは慧眼だが――そんなことは許されない」
玉燕は、穏やかに言う男を見上げる。
「〈赤釵〉の道士として、これでも務めを果たしたいとは思っているから」
「……とりあえず、ほどほどにしとけよ。業が深いと飲まれるぞ」
ご忠告感謝する、と言われ、玉燕はかぶりを振って立ち去っていく。それを見送り、払子を揺らして叶瑞は踵を返した。
***
「道長、これ杖の代わり」
燻されて黒くなった木材を受け取り、夜静はどうにか立ち上がる。火に巻き込まれてしまったのか、今まで持っていた杖はどこかに消えてしまっていた。
朝日が昇ると、無残な有様になった慶佳宮の様子がはっきりと見えた。あちこちにいた碧華洞の道士はいつの間にか撤収し、死体の入った棺が馬車に乗せられて運ばれていくのが見える。〈赤釵〉のおかげで片付けは迅速に終わった。
血と泥でずいぶん悲惨な見た目になった洛風が見え、少し笑った。
「……あれ、剣はどうしたんです」
「折れた」
洛風はあっさり答えた。
「また新しいのを探せばいい。道長の杖もな」
夜静は僅かに目を伏せ、そして少し離れた場所に立つ洞主に目を向けた。
足を引きずりながら洞主の元へ向かい、いつかのように跪いた。
「洞主――」
「顔を上げなさい」
穏やかな声に顔を上げる。洞主の冷えた表情が見えた。
「……抜けた者は殺されるのが規則です。私は……殺されるべき、でしょう」
沈黙が落ちる。ややあって、洛風が駆け寄ってきて怒気を孕んだ声で言った。
「おい、今さら殺すのかよ! もういいだろ、抜けたやつを殺して何になる」
「洛風」
咎めるような声に、洛風は一瞬言葉を切る。洞主は気を悪くすることはなく、ただ平静に夜静を見下ろしていた。
「貴方は殺されたいのか?」
洞主の問いに、夜静は躊躇ったのちに答えた。
「まさか……死ぬのは嫌です」
都合の良い話だが。
それ以上何も言えずにひたすら頭を垂れていると、不意に洞主は言った。
「まあ、いいのではないか」
「……はい?」
顔を上げる。洞主は拘りなく微笑む。
「そもそも貴方が代償を引き受けなければ私たちは外に出られなかったんだ。今ここで会っているのは元はと言えば貴方のせい――おかげだろう。だから一度だけ」
見逃そうと、彼は言った。
夜静はただ茫然として、何を言うこともできなかった。
「もちろん、今だけだ。刺客は来るかもしれないから油断しないように。じゃあ」
元気で、と言うのは違うかなと呟きながら、洞主は悠々と去っていく。言葉も無くそれを見送っていたが、夜静は我に返って身を起こす。
「でも! ……でも、私は、何度も……」
洞主は一瞬だけ振り返り、軽く首を傾げた。
「構わないだろう」
「……え?」
「貴方が今さら後悔しているというのなら、後悔したままでいいのではないか。それで死ぬというのなら止めはしないが、貴方は生きたいのだろう」
洞主は僅かに苦笑した。
「私も久しぶりに外に出られて浮かれているのかな。まあ、手を緩めはしないからせいぜい頑張って逃げなさい」
それだけ言うと、彼は瓦礫を乗り越えて街道を下っていった。
中途半端に立ち上がったまま、夜静は唖然としていた。洛風は困惑したようだったが、吹っ切れたように言った。
「よく分かんないけど、見逃してくれるならいいじゃねえか。道長、良かったな」
「……良かった、のでしょうか……」
自信は無かった。
「私だけ、見逃されて……」
「文句なら死んでから聞けばいい」
「……」
慶佳宮の跡地を振り返る。門も建物も崩れ、瓦礫の向こうに地平が見えた。蒼穹を眺めると、不意に答えの分からないことを悩み続けているのが馬鹿らしく思えた。
夜静は肩の力を抜き、呟くように言う。
「……まずは、彼らの供養をしなければいけませんね」
「供養?」
「冥銭を燃やしましょう」
瓦礫で風除けを作り、火を焚いて線香を上げた。煙が染みて涙が滲む。
「これって何の意味があるんだ? よくやってるの見るけど」
棺ごと盗まれていた死体が多かったからか、冥銭はあちこちで拾えた。黄紙で作られた銭の偽物を焚火に投げ入れながら、夜静は答える。
「冥府で死者が裕福に暮らせるように、です」
「へえ」
洛風は空に立ち上る煙を目で追っている。夜静は小さく笑って言った。
「君も燃やしてくれますか」
「え?」
「私が死んだ時、燃やしてください。私はどうも金使いが荒いので、たくさんお願いします」
徐々に動かしにくくなっている左腕に目を落とす。玉燕の護符があっても、そう長くは延命できないだろう。
だが洛風は怒ったように言った。
「なんだよそれ。死んだ後のことなんか知らねえよ」
本気で怒っているのが分かって、夜静は目を丸くする。
「まだ諦めなくてもいいだろ。治す方法を見つければいいだけだ。そうじゃないのか?」
戸惑い、言葉が詰まった。
「でも……一年生きられれば私は十分で――」
「俺は十分じゃない。道長の供養なんかしないからな」
しばらく沈黙する。子どものように不貞腐れているのを見て、夜静は堪らず吹き出した。
「まあ……なら、頑張ってみます」
供養もされないのは寂しい。そう言うと、洛風は目元を和ませた。
「たぶんなんとかなるだろ。道長、意外としぶといから」
「褒めてませんね……君こそ馬鹿なことして死なないでくださいよ」
「馬鹿なことするのは道長だろ」
反論できずに煙を睨む。軽く笑って、洛風は立ち上がった。
「もう行こう。役人が来るかもしれない」
手を差し伸べられる。その手に縋って身を起こした。
他愛も無い話をしながら、街道を下っていく。ふと言うべきことを思い出して、夜静は傍らを歩く洛風を見た。
「洛風、君にはたくさん助けられました。ありがとうございます」
それから、と夜静は気まずげに続けた。
「これからもたくさん助けてもらうと思います……あと金も借ります……けど、今さら嫌だとか言わないでくださいよ。君がいないと結構困る……から」
洛風は驚いたように眉を上げ、そして声を立てて笑った。笑いはなかなか収まらず、涙まで滲ませている。夜静は最初呆気に取られていたが、徐々に腹が立ってきた。
「そんなに変なこと言いました?」
「違う、違う……」
まだ小さく笑いながら、洛風は手を振る。しばらく息を整え、彼はようやくまともに答えた。
「別にいいよ」
「……何がです」
「礼なんていらない」
短い言葉だったが、なにかひどく、大事なことを言われたような気がした。
街道の分かれ道に着いて、二人は立ち止まる。洛風は自分たちの衣服を見下ろして言った。
「とりあえず
夜静は僅かに戸惑ったように俯く。
「自分の行きたい場所に行けるというのは、まだ慣れませんね」
「すぐ慣れるよ。これからたくさん色んなところに行くんだから」
洛風のいつも通りの笑みが見えた。なぜか自信のあるその言葉に、ふと安堵した。
これから洛風とどこに行こうかと考える。
それは意外に楽しいことだと気づいて、夜静はゆっくりと、屈託のない笑みを浮かべた。
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