終章

 優しく肩を揺すぶられて目を覚ました。

「夜静、久しぶりだね」

 懐かしい声だった。夢見心地で、夜静は呟く。

「洞主……」

 寝過ごしたのだろうか。洞主が直接起こしにくるなど滅多にないことだ。文清が起こせばいいのに、彼はどこにいるのだろう。

 ぼんやりと考えるうちに、それがありえないことだと思い出す。


 文清は、目の前で死んだのだ。




 身体を動かそうとしたが、ひどく重いのに戸惑った。指先だけが辛うじて動く。

 目を凝らし、それでも洞主の幻覚は消えなかった。白い道服を纏った男は、静かに微笑んで夜静の肩をそっと撫でる。

「貴方は無茶をしすぎだ。私たちを信用できなかったのは仕方ないが、それでもこんな身体になる必要は無かっただろうに」

 ようやく意識が明瞭になった。夜静は目を見開き、目の前の男をまじまじと見る。

 薄闇の中、冴え冴えとした月明かりに照らされた顔は見間違えようもない。


「洞、主……なぜ、ここに」


 辺りは一面の焦土で、夜静は瓦礫に背を凭れて座っていた。どう見ても碧華洞ではなく、なぜ洞主がいるのかまったく分からない。慌てて叩頭しようとしたが、少し動いただけで脇腹がひどく痛んだ。


「動いてはいけない。玉燕が手当してくれたが、完全に塞がってるわけじゃない。……というか私は、なぜ貴方が玉燕と知り合っているのかが不思議だが」

 洞主は本当に不思議そうに首を傾げる。

「まあいい。あと、なぜ私がここにいるのかだったか。そうおかしなことでもないだろう。部下の不始末は私にも責任があるから」


 穏やかな声音に戸惑う。問い掛けるように見上げると、彼は静かに笑った。

「慶佳宮のことは私に任せなさい。呪符の痕跡も集められた死体も全てきっちり片付ける。……あとで紫沁ズーチンが来ると思うが、あまり叱らないでくれ。彼女も反省してるから」

 まだ訊きたいことはたくさんあったが、彼は立ち上がると瓦礫の向こうへと行ってしまった。



 改めて周囲に目を凝らすと、この焦土が慶佳宮の跡だということが分かった。正殿も塔も瓦礫の山に変貌し、焼けた地が黒い。崩れかけたいくつかの門の元、白い道服の道士がちらほら見えた。――碧華洞の道士だ。

 もう真夜中だが、月明かりとあちこちに焚かれた篝火で周囲の様子は見える。だが、状況はまったく分からなかった。


 混乱したが、立ち上がることはできない。茫然と座り込んでいると、右手から誰かが走ってくる音が聞こえた。



「道長!」



 そちらに顔を向ける前に乱暴に抱きしめられ、驚きのあまり固まった。


 煤と血に汚れた衣が見えた。視界の端には乱れた髪しか映らないが、誰かは分かる。


「いっ……痛い、痛いです! 君、――私を締め殺す気ですか!」


 骨が軋むほど強い力だった。本気で骨が折れると思って焦りながら背中を叩くと、彼はようやく離れてくれた。


 洛風は泣き笑いのような奇妙な顔で夜静を見た。ばしばしと肩を叩きながら彼は言う。

「良かった……道長、ちゃんと生きてるよな。死んでないよな」

「君のせいで今死にそうです」

 肩を叩く手を振り払う。二人はしばらく顔を見合わせ、そして吹き出した。


「本当……もうちょっと嬉しそうな顔しろよ。俺、てっきり道長が死んだと……」

 ぼやくように言う彼に夜静は笑いながら答えた。

「いい加減慣れたでしょう」

「慣れてたまるか」

 笑うと脇腹がひどく痛んだ。顔をしかめると、洛風が慌てて言う。


「まだ安静にしとけって、玉燕が。またあいつに借りできたな」

「彼女には……色々返さないといけませんね。私も、君も」

「まあ、ゆっくり考えよう。道長のやらなきゃいけないことは終わったんだし」

「そう、ですね……」

 終わったという実感はまだ無かった。焦土と化した慶佳宮の跡を見る。



「これは一体誰が?」

「玉燕と道士の男が火つけたんだ。でも南慶人……景羽の従者もだけど、何人かには逃げられた。まあ景羽は死んだから呪符は使えないだろうってさ」

 道士の男、というのは洞主のことだろう。ゆっくりと状況を飲み込み、徐々に、身体から力が抜ける。


 景羽に言われたことを、彼がやったことを、そして彼の記憶を思い出す。

 人の行いの善悪を決めることは簡単ではない。景羽のやったことも、ある人から見ればそれは善だったのかもしれない。

 でも景羽が死んだ以上、考えても仕方のないことだった。


「景羽は……死んだんですね」

 ぽつりと呟くと、洛風は頷いた。

「ああ。もう大丈夫だ」

「高淵は?」

「あいつは玉燕が遺族を見つけて帰してやるってさ。蘇った死体は燃やすしかないけど、蘇らなかった人たちは元に戻すらしい」

「……文清は?」


 一番気になっていたことだった。躊躇いながら問うと、洛風は淡々と答える。

「さっき、白服の道士が回収してった。道長の仕事仲間?」

「そうです。……そう、でした」

 今度こそ文清は墓の中で眠るのだろう。遺族はいないから、碧華洞の道士が埋葬されている墓地にひっそりと葬られるはずだ。

 文清の死を悲しむ資格があるのかは分からないが、どうしようもなく胸が重く沈んだ。



 しばらく沈黙が降りる。洛風は珍しく何を言っていいか分からないように目を揺らしていたが、不意にまた駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。


「夜師兄!」


 げ、と呟いたのは洛風だ。耳聡くそれを聞きつけ、紫沁は唇を尖らせた。

「まだ師兄に付き纏っているんですか!」

「お前にとやかく言われることじゃねえよ。大体、俺のこと殺そうとして道長が死にかけたの、分かってるのか?」

「そっ――れは、謝罪します。しますが、それとこれとは別です」

 紫沁は刺々しくそう言ったあとで、不意に力が抜けたように俯いた。


「……殺そうとまでは考えていなかったんです。でもなぜか……いえ、言い訳はしません。もちろん許さなくていいです。ごめんなさい」

 明瞭にそう言われ、洛風は驚いたのか目を見張った。次いで気まずそうに言う。

「謝られても困る。結果的に助かってるんだから恨んでない。なあ道長」

「私は自分から死にかけただけなので。紫沁、それより説明してください」

 文清のことを、と言うと、彼女は顔を背けた。


「私は……重大な規則違反を犯しました。罰ならいくらでも受けます」

「そういう話ではないです。君は文清を逃がしたんですか?」

「……」

 紫沁はややあって頷いた。


「なぜ?」

 声に怒りは無い。夜静がじっと見つめると、彼女は諦めたように小さく息を吐いた。

「……放っておけなかったんです。昔からあいつは弱くて、鈍間で、向いてないと思っていました。――だから追い出しただけです」

 夜師兄、と躊躇いがちに彼女は続ける。

「文清が貴方に何を言ったのか分かりません。でも文清は……彼は、貴方のことを兄のように慕っていました。本当に、そうだったんです。だから……騙したことを、許してください」


 上手く答えられずに目を伏せた。まだ文清の死も、その前に彼が生きていたということも飲み込み切れていない。

 ただ、彼女の言葉に少しだけ救われたような気分になった。




「おいお前ら、瀕死の怪我人に無理させるなよ」


 いつの間にいたのか、玉燕が煤まみれの衣を引きずって立っていた。彼女はちらりと夜静に目を遣ると、洛風と紫沁に向かって手を振る。

「私はこの馬鹿に話があるから、お前たち向こうへ行ってくれないか。死体を運び出してるから」


 文句を言いたげだったが、二人は言われた通りに立ち去った。それを見送ると、玉燕は振り返って夜静の前にしゃがみ込む。

「本当に馬鹿野郎だよ、お前は」

 射抜くような視線に苦笑する。夜静はゆっくりと頭を下げた。

「色々と……ありがとうございました」

「たくさん貸しがある。これから返してもお前の寿命じゃ到底返しきれないな」

「努力します」

 玉燕はその言葉を鼻で笑う。だが一転して真面目な顔になり、彼女は言った。


「だけど一つ、お前が私に借りを返す方法がある」

 彼女は渋面を作った。

「怪しいって思っただろ。私も思うけど、とりあえず聞け」



 お前、泰山に来ないか――。



 玉燕は確かに、そう言った。


「……は?」


 しばらく沈黙し、言葉の意味を考える。

 だが一向に意味は分からなかった。


 玉燕は表情を隠すように俯き、抑えた声で続ける。

「お前の作った呪符は人の理から外れている。そういう奴は結局人界にはいられないんだ。仙になればその身体も治って一年と言わず数百年は生きられる」

 ただし、屍仙符を完璧なものに作り上げたらの話だ、と彼女は言い置いた。


「仙、って……」


 荒唐無稽さに笑いそうになり、玉燕の振舞いを思い出して笑えなくなる。

 夜静はまじまじと彼女を見つめ、そして呟いた。

霊玉リンユー真人……?」

 玉燕は肯定も否定もせず淡々と言った。


「死なない命が欲しくはないか? 言っとくけど、何度もお前を助けたのは仙になる見込みがあったからだよ。じゃないと私が天帝にきつく叱られるだけだからな」

 彼女はひどく冷静だった。

「お前の身体がそんなにボロボロなのは、他のやつらの呪詛返しまで背負い込んだからだろ。おかげで碧華君まで洞から出やがって……」

 何でそんな余計なことをと言いたげだ。夜静にも理由は分からなかった。同胞を殺した償いのつもりだったのかもしれないし、あるいはただ閉じ込められている彼らに――同情したのかもしれない。


「自ら死期を早めて、でも未練が無いとは言わせないからな。まだ生きたいんだろう」


 まだ生きたい。それはその通りだ。


 洞を出てからの旅路を思い出す。思えばずいぶんあちこち行ったものだ。何度も死にかけ、必死の思いでここまで辿り着いた、その遠大な距離。


 でも、ここまで辿り着けたのは洛風がいたからだ。


 夜静は自分でも驚くほど迷わず、答えた。


「私には過ぎたものです。――そんなものは要りません」

「……ま、だよな」

 玉燕は肩から力を抜き、深くため息をついた。

「後悔しても知らないからな。ほら、餞別だ。二度と会わないだろうけど」


 無造作に投げつけられた紙の束を見ると、それは霊玉真人の護符だった。


「大事に使えよ。何回か一緒に死にかけたよしみだ」

 追い払うように手を振る彼女に、夜静は深く頭を下げた。


「ありがとうございます。とても、助かりました」

「一日三回拝むんだな」

 そう言った玉燕は、いつものように笑っていた。

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