十六

 目の前が真っ暗になる。上も下も無い空間で、不意に見覚えの無い景色が広がった。



 目の前に、年老いた女の顔があった。彼女の顔は恐怖に強張り、手を擦り合わせて聞き覚えの無い言葉を繰り返している。祈っているようだった。

 周りを見ると、朱塗りの柱と大勢の人々がいた。彼らは一様に汚れており、怯えた表情を浮かべている。息をひそめて外を窺い、何か物音がするたびに静かなざわめきが広がった。

 腕を叩かれ、そちらに視線が移る。垢にまみれた顔の男は、どこか見覚えがある。――景羽ジンユーの従者だ。

 大丈夫だというように腕を数回叩かれた。だがその瞬間、建物が大きく揺れた。

 舐めるように柱に火が回る。粉塵が舞い上がり、あちこちで悲鳴が上がった。人々は立ち上がり扉に殺到して逃げようとする。

 だが、扉の向こうからは武装した兵士たちが押し寄せてきた。逃げようとした人々は無残に殺されていく。命乞いも虚しく、血潮に床も壁も天井も汚れていく。


(やめてくれ)


 強く、強くそう思う。


 建物が崩壊していく。人々を巻き込んで崩れ落ちて、命を飲みこもうとする。


(だれか)


 身体が押しつぶされた。さっきの老婆が庇うように上に覆い被さってくる。瓦礫が頭にぶつかり、彼女は血を流しながら呻いた。


(どうして、こんな)


 折り重なった人々の死体、瓦礫、その隙間から外に目を凝らす。まだ息のある者にとどめを刺して回っている者たち。

 彼らは高梁の言葉を喋っていた。




 夜静イェジンは袖の中の鎮煞ちんさつ符を掴む。背後の幽鬼から逃れるように前に倒れ込んだ。

 頭を強かにぶつけ、意識が明瞭になった。身体を起こすと、景羽ジンユーは半笑いでこちらを見下ろしていた。

「何か見えましたか。白吟之に関係することかな」

 咳き込みながら、夜静は身を起こす。

「――南慶の寺院です。たくさん、南慶人が殺された。貴方の記憶だ」

 景羽は一瞬だけ笑みを引いた。

「……はは。私の言うことはやっぱり当たらない」


 躊躇ったのちに口を開いた。

「あの記憶は……」

 だがそれ以上言う前に景羽が首を横に振った。

「貴方には関係の無いことだ」

 口元は笑っていたが、彼の目は暗い。それを押し隠すように、彼は一瞬目を伏せた。


「それで夜静さんはこれから一体どうするんです? まさか一人で陣を壊す気ですか」

 嘲るようにそう言う。無茶だと、夜静も思う。それでも、他に方法が無かった。

「……そうですよ」



 夜静は石床に手をつく。傷から溢れた血で呪句を書く。

 ――天には天将、地には地祇。

 目が霞む。邪祟を鎮める呪句すら上手く書けない。

 ――偏らず己も無く、邪を斬って悪を除くべし。


「――もう、死んでください」


 背後にいた妾の幽鬼が溶けるように消えた。



 祭壇の上、壺が大きく揺れる。表面に罅が入り、それは勝手に広がっていく。景羽は驚いたように振り返り、引き攣った笑みを浮かべた。

「……貴方の方が死にそうですけどね」

「どうせなら一緒にいかがです」

 口に溜まった血を吐いた。鉄の臭いが――しない。鼻が利かなくなっていた。


「怖いな――おっと」

 倒れかけた壺を受け止め、景羽は手を翳す。沸き立つように壺から黒い塊が溢れた。

 それは白吟之の肩にへばりついていたものと同じだった。徐々に量が増え、濁流のようになって夜静に押し寄せる。


 凄まじい圧で押し流されそうだった。鼻も口も塞がれそうになり、必死に床に手をついて抵抗する。息ができない。視界が真っ黒に塗り潰される中、手探りで景羽の姿を追う。

 辛うじて身体を侵されるのは防いでいるが、いつまで呪句が保つのか分からない。陣の中心である壺を壊すか、あるいは景羽を殺すか。


 もがくように前に進む。濁流はひどくうるさくて、怨嗟の声に、悲嘆に暮れる声に、頭が割れそうだった。

 どれほどの恨みを貯め込んだのだろう。そうしなければならないほど、彼は追い詰められていたのだろうか。

 でも今はどうでもいい。理由に興味は無い。ただやるべきことをやるのは慣れている。



 彷徨う手が衣に触れる。鎮煞ちんさつ符を掴んで周りの黒い塊を追い払った。晴れた視界に、短剣を握った景羽が映る。

 目が合った瞬間、彼は弾かれたように剣を突き出した。


「――っぐ、ぅ」


 腹に短剣が刺さる。鮮血で赤く道服が染まった。だが景羽の手は震えていて、深く刺さらずに抜けていく。

 景羽は刺し傷に恐怖したようだった。笑みが消えて身体が強張っている。人を祟ることはできても自分で刺すことは怖いらしい。



 痛みは分からなかった。それよりも景羽の抱えている壺に手を伸ばす。彼は後ずさって逃げようとし、夜静はそれを見て咄嗟に杖で足を払った。

 倒れ込んだ景羽の手から壺が転げ落ちる。黒い汚濁を撒き散らしながら、壺は壁に当たって止まった。


「待っ、ち――」


 景羽の声を振り切る。もがくように駆け、壺に触れた。



 途端に、爪の先から、鼻から、目から、泥のような汚穢が入り込んできた。杭を打たれたような痛みが脈動し、苦痛が頭蓋の内側を満たす。壺からは濁流が変わらず溢れている。

 ガタガタと震える手で壺の表面に貼られた呪符を引き千切ろうとした。何度試しても指先は空を切る。拳を固めて壺の表面を殴りつけたが、殴った衝撃でこちらが体勢を崩した。


 同時に、背中に衝撃が走る。背後、ぶつかってきた景羽は返り血に濡れた顔で引き攣った笑みを浮かべた。

「……もう、諦めて、ください」

 腰のあたりに突き刺さった短剣の柄が見えた。痛みよりも先に力が抜ける。声も出ずに彼の目を見る。

「あきら、め――」


 ただ必死だった。

 夜静は血に濡れた指で、壺の表面に呪句を書く。

 ――泰山の主の元に還りなさい。

 無意識だったが、選んだ呪句は屍仙符を解呪するものだった。


 死者の魂をあるべき場所に戻す、それは景羽の操る鬼にも効いた。



 不意に、頭が割れるような悲鳴が石室に満ちた。大勢の悲鳴は嵐のように通り過ぎ、そして汚濁は流れ出る。



「――なん、で」

 茫然と呟き、そして景羽は憎悪の籠った目で夜静を睨みつける。


 罅の入った壺はそのままバラバラに砕け散った。


 甲高い音が次々鳴り響く。部屋に溜まった汚泥は徐々に消え去り、邪気は拭い去られていった。身体の内に詰まった穢れも抜け、ただ倦怠で身体が重い。

 思い出したように刺された傷が痛み出した。


 景羽は壺の破片を信じられないという風に見つめ、やがて狂ったように笑った。


「は……はは……」


 景羽はふらふらと立ち上がり、額を押さえて笑う。その目鼻からはだらだらと黒い血が流れていた。血は止まらず、彼の足元に深い血だまりを作る。

「別に……構いません。もう一度……やり直せる。屍仙符さえ、あれば……」

 ごぽりと血を吐いた。人の身体からこれほどの量の血が出るのかと、夜静は頭の隅で驚いた。そして気づく。



 彼の手首の内側に、赤い印が一つ浮かんでいた。



「夜……静、さん」

 景羽の虚ろな目が夜静を見つめた。

「……」

 何か言いたそうだったが、彼は結局笑うだけだった。憎悪は消え、ただ疲れたように目を伏せる。

 その手が懐から呪符を出す。まだ何か仕掛けるのかと思い、辛うじて意識を保った。

 ――用意した鎮煞ちんさつ符はもう無い。さっき書いた呪句の効果も切れた。


 夜静は震えでままならない腕を上げる。もう一度呪句を書こうとした。

 だがその前に、景羽は自分で呪符を破った。



 千切れた紙片が飛んでいく。驚きよりも虚脱で夜静は茫然とそれを目で追った。翻った呪句、それは屍仙符のものだ。

「なぜ……」

 零れた問いに、景羽は虚ろに笑った。

「なぜでしょう」

 血が止まらないせいか、不明瞭な声音だった。

「まあ、これから、やり直します、から……」



 灰の瞳は濁り、そして彼は糸が切れたように床にくずおれた。

 

 もう景羽は何も言わない。まるで造り物のように表情は無く、それでようやく、死んだのだと理解した。



 恨みも憎悪も、汚泥と一緒に流れてしまったように感じなかった。

 陣は破壊され、地上の屍人も操り手を無くして元の死体に戻るだろう。そのことにただ安堵を覚え、堪え切れずに床に倒れる。


 寒かった。指先が重たい。左腕に視線を落とすと、爪の先まで斑に黒く染まっていた。

 辛うじて動く右手で腹の傷を押さえる。痛みはまだ感じる。まだ、生きている。



 ――ほら、全部貴方のせいだ。



 景羽の言葉をぼんやりと思い出した。

 そうなのかもしれないと思う。

 直接手を下していなくても、自分のせいで死んだと思う――文清が李益に感じていた罪悪感が、少しだけ理解できたような気がした。


 でも、死人は何も言わないのだと自分で言った。文清が夜静を責めることは無いし、許されることも無い。文清に償うことはできなくて、これからどうするかは自分で決めるしかない。


 ――まだどこかで死にたくないと思っていることを自覚して、少し呆れた。




 気を失う寸前、石室に降りてくる足音が聞こえた気がした。

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