十五

 汗と血で張りつく髪を振り払い、玉燕ユーイェンは手あたり次第に呪符を飛ばす。吹き上がる炎が屍人を焼くが、それでも彼らは止まらなかった。腕に齧りつかれて咄嗟に蹴り飛ばす。

小燕シャオイェン! あいつらは?」

「塔の前で南慶の男と戦っています」

「てことはやっぱり私一人でやれってことか?」

 ふざけるなよと毒づく。

「私は戦うのは苦手なんだよ」


 小燕は僅かに眉をひそめ、そのまま姿が薄らぐ。玉燕は焦って言った。

「な、おい、なんで消えるんだ!」

「いえ」

 彼女は虚ろに宙に目を向ける。

「助けが来たようなので」

「は?」

 振り返ると、慶佳宮の半ばにある昭門、そこから男が一人悠々と歩いてきていた。



 彼は近づいてくる屍人を持っている払子ほっすで無造作に追い払っている。玉燕の視線に気づくと、男は仄かに笑って一礼した。


「玉燕殿、お久しぶりです。私の部下が迷惑を掛けたようだ」


「碧華君」

 碧華君――碧華洞洞主の通称だ。

 ひどく厭そうに、玉燕は眉を寄せた。

「嫌がらせか? 大体お前、なんで洞から出てるんだ」

 男は手首を返して背後の屍人を払子で突きながら涼しげに答えた。

「夜静のおかげです。貴女こそ地上にいたら怒られるのでは?」

「私は自分の偽物を追ってただけだよ。あとその気持ち悪い口調やめろ、叶瑞イエルイ

 叶瑞と呼ばれた男は軽く笑う。


「では、玉燕。私が来たのは仕事の為だ。夜静はどこにいる?」

「あいつなら塔だ。陣を壊すってさ」

「そう。――なら都合が良い」

 彼は慶佳宮の上空を指差す。何本もの光条が伸び、それが慶佳宮の敷地を取り囲んでいた。


「私の部下が外で陣を張っている。この死体の群れは宮より外には出られない」

「それで? 二人でこの数を殺すのか? もうちょっと人手がいるだろ」

「こんな呪符の存在は知らせたくない。それに大元の術者を殺せばいいだけだろう。夜静が陣を壊しに行くのなら、術者の警戒も逸れて呪殺できる」

「呆れた。部下を利用するのか」

「元部下だ」

 穏やかにそう言った男に対し、玉燕は乱暴に言った。


「立派な洞主様だな。だが、術者の名を知ってるのか?」

「もちろん。陛下も危険だから殺せと仰った。ああ、陛下が貴女によろしくと」

 玉燕は一気に顔色を曇らせた。

「こんなに嫌な言葉は久しぶりに聞いたな」

 声を立てずに笑い、叶瑞は光条の伸びる空を見る。

「申し訳ないが、少しだけ時間を稼いでほしい。呪殺の代償は――」

 彷徨う視線が、地面に倒れ玉燕に庇われていた死体に留まる。


「……文清ウェンチンか」


 呟かれた声には僅かな痛ましさが滲んでいた。屈みこんで、蒼白な顔に手を触れる。

「馬鹿な子だ。夜静も苦労しただろう」

 無表情でそう言い、彼は一つ頷いた。

「ちょうどいい、彼の死体を使おう」

「――お前の仲間なんじゃないのか?」

「だからだ。無関係な人の遺体は使えない」

「相変わらずだな」

 玉燕の抑えた声の批判に、叶瑞は淡々と答えた。

「国の為になるのだから、彼も冥府で喜ぶだろう」

 その答えに、玉燕は引き攣った顔でかぶりを振った。



 ***



 棍棒で殴打される痛そうな音が響く。踏鞴を踏み、洛風は拳を固めて思い切り従者を殴った。木材は折れ、彼は鈍った剣を抜いて棍棒を押し返す。

 夜静は追いすがってくる屍人たちを振り切り、塔に向かおうとした。呪符を飛ばして屍人を足止めし、それでも裾を掴んでくる者は杖で無理やり剥がす。濁った呻き声を上げ、屍人は腐汁をまき散らして地面に倒れた。


 そのまま駆け出そうとすると、襟を掴まれて引き倒された。景羽の従者が恐ろしい形相で夜静を睨んでいた。

 振り上げた棍棒は左目を狙っている。咄嗟に目を瞑ったが、避けられないと悟った。

「馬鹿、野郎!」

 衝撃は来ない。薄く目を開けると、間一髪で洛風が従者の腕を掴んで止めていた。そのまま彼は乱暴に夜静の身体を押し飛ばす。


「だから、逃げろって!」


 叫ぶ途中で強かに顎を殴られ、洛風は一瞬ぐらりと身体を傾ける。その隙に従者は懐から短剣を抜いた。

 鈍い銀の光が視界を過ぎる。洛風は平衡感覚を失いながらも従者を追い抜いて、倒れた夜静を引き起こそうとした。だが背中から灼けつくような痛みが広がって、堪らず膝をつく。


「洛、風」


 鉄の臭いが鼻を突く。夜静は目を見開いて、苦しげに顔を歪めた洛風を見た。

 だが彼はすぐに立ち上がると、夜静の手を掴んで引っ張り起こす。

「頼む、から、逃げて――くれ!」

 屍人のいない方向へと突き飛ばされる。洛風は再び刺され、踏鞴を踏んだ。流れた血が服を黒く染める。

 三度みたび刺そうと振りかぶられた短剣を、洛風は素手で握り込んで止めた。膠着状態になり、従者は歪んだ顔で洛風を睨む。


 血が抜けていく。足元に血だまりができて沓が滑る。短剣を引こうとする力に抗うだけで全身痛んだ。


 背後にいる夜静がどういう顔をしているのかは見えない。だが掠れた声が聞こえた。

「――ごめんなさい」

 片足を引きずる特徴的な足音は、塔へと向かっている。逃げないだろうとは思っていたが、どうしても裏切られたような気分になった。

 ――馬鹿だ。

 逃げればいい。身を削ってまでこんなことをする必要はない。


「お前」


 景羽の従者が呟いた。

「なんであいつを庇うんだ。お前は道士じゃないのに」

 そう言われて、確かにそうだと苦笑した。


 たぶん理由があるとするなら、ずっと前、まだ幼い頃に彼に助けられたからだろう。恩を感じるような性格ではないが、ただ、夜静のしてくれたことは自分にとって大きな意味があった。相手は覚えていなくても、その意味の重さは変わらない。

 でも、そんなことはもうどうでも良かった。


「俺の勝手だろ」


 手のひらが深く切れる。それを気にせず、短剣を握り込む左手に力を籠めた。



 ***



 塔の上方は空洞で、下に向かって階段が続いていた。石のきざはしを降りると、虚ろな音が高く響く。

 階段はそう長くなかった。小さな石室には祭壇があり、その前に景羽が佇んでいる。


「なぜこんなことをするんですか」


 文清の血に濡れた夜静を見て、彼は仄かに微笑む。

「言ったでしょう。家族を殺した者は許さないと」


 祭壇の上に本尊は無く、代わりに大きな壺が置かれていた。それが陣の中核だと気づき、夜静は顔を強張らせる。濃い邪気の漂う壺は、屍仙符を利用する呪力の元になっていた。

 景羽は自慢げに壺を示す。

「白吟之の家で育てたんです。南慶の雞鬼けいきという化物だ。彼は色んな人から恨まれていたから育てやすかった」

「……結局貴方が白吟之を祟っていたんですか」

「端的に言えば。もちろん最初は王子言の呪符のせいですよ。後は自分で祟って自分で癒しました」

 確実でしょうと笑う。罪悪感の欠片も無い顔だった。


「でもね、白吟之を苦しめるのは文清の望みでもあった。だからせめて死ぬより苦しい目に遭わせなくてはね。彼は一族を失って独りきりになるんです」

 それでいずれ力尽きて死ぬと言う。

「文清には悪いことをしました。だからこれくらいはしないといけませんよね」

 憤りで身体が震えた。夜静が口を開くより先に彼は言った。


「言っておきますが、貴方は私のことを責められませんよ。そもそも文清が洞を抜けようとしたのは貴方の態度に我慢ならなかったからでしょう。彼はずっと言っていましたよ。自分の師兄には人の心が無いんだと。たった四歳の子どもが死んでも、よくやったとしか言わなかったと。あんな場所にずっといられるのは異常だって」

 何も言い返せなかった。全て事実だったからだ。

 景羽はなおも柔和な笑みを崩さない。


「貴方がもう少し文清のことを気に掛けていれば、彼は洞を抜けて屍仙符を使おうだなんて思わなかったはずです。私に出会うことも無かったでしょう。彼が死んだのはだから、貴方のせいではありませんか?」

「それは――」

「ええ、殺したのは高淵ですね。でも彼は貴方のことを恨んでいた。貴方が十年前に彼の家族を殺さなければ良かっただけの話です。ほら、全部貴方のせいだ」

 絶句した。


 頭では彼の言うことが間違っているのだと分かっている。文清が死ぬように仕向けたのは景羽で、そこに夜静の意思は関係無い。

 でもそう単純に割り切れることではなかった。心のどこかで、景羽の言う通りだと思ってしまう。怒りを通り越して虚脱し、夜静はただ喘ぐように息をすることしかできなかった。


「夜静さん、でも私は貴方を責めませんよ。貴方の気持ちはよく分かるから」

 景羽は慰めるようにそう言った。

「全て皇帝陛下の為なんでしょう。ならば一番の悪は貴方がたの国の王だ。諫めた忠臣を殺し、年端のいかない子どもまで惨殺させ、異民族を喰い物にする白吟之を重用している。洞に道士を閉じ込めて自分に害をなす者を殺させるなんて、ずいぶん立派な皇帝ですね」

 その声音には、初めて生々しいほどの憎悪が籠っていた。


 夜静は怪訝に眉をひそめて問う。

「景羽……貴方の目的は、一体何なんです。貴方の家族を殺したのは柯蕃では?」

 その言葉のどこが可笑しかったのか、彼は声を立てて笑った。笑い過ぎて涙の滲んだ目で、彼は夜静を見つめる。

「あんな国どうでもいいです。――目的というのなら、そうですね、屍仙符を本来通りに使いたいんです。今のままでは材料が難しいので、できれば完成させてほしかったのですが」

 本来通り――兵力として使うということだろうか。


 景羽は深く息を吐いて笑いを収めて言った。


「夜静さん、私に協力してください。そうすれば殺しはしません」

「嫌です」


 間髪入れずに答えると、景羽はかぶりを振った。

「まあ、そうでしょうね。――なら仕方ないか」


 不意に、誰かに肩を掴まれた。

 ギリギリと指が骨に食い込む。弾かれたように振り返ると、そこには目を剥いた知らない女が立っていた。

 乱れた髪に死斑の浮いた肌、着ている服はやけに豪奢だ。どこか見覚えがあると思ったら、彼女は白吟之の妾だった。


 気が遠くなり、膝から力が抜ける。

 こちらを見下ろす景羽がひどく複雑な顔をしているのが見えた。

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