十一

 しばらくは言葉が続かなかった。夜静イェジンは一瞬目を伏せる。


 汚れた床が見えた。何度陣を描いたのだろう。元の床の色が分からないほど墨に汚れているのを見ると、息が詰まった。


 文清ウェンチンは気絶しそうな顔で、景羽ジンユーはなおも薄く笑って夜静を見る。

 静寂は、帷幕の上がる音で破られた。


「道長!」


 振り返ると、洛風ルオフォンがいた。急いで来たのか、髪が乱れて汗で張りついている。彼を見た途端に、膝から力が抜けそうなほど安堵した。

 洛風は景羽にも文清にも目を向けずに、夜静の耳元で囁いた。

「玉燕がめちゃくちゃ怒ってたぞ! 勝手に術は解けてるしどこか行くし――何やってんだよ!」

 抑えた声に怒気が滲んでいる。夜静は首をすくめて答えた。

「すみません……彼女はどこに?」

「養広殿。烏南の連中の死体を見つけたって。解呪しようとしてる」

 あれ、と何かが引っ掛かる。その疑問は捕まえる前に消えていった。

 洛風はようやく前を向くと、景羽たちを睨みつけた。



「お前らが犯人? あっちは誰だよ」

 文清は戸惑うように洛風を見て、問いかけるように夜静を見る。その様子が昔と何も変わらなくて、思わず普通に答えてしまった。

「彼は私の師弟の徐文清です。この人は私の知人――」

 洛風に小突かれて、咳払いして言い直した。

「……友人の洛風です」


 早口でそう言うと、景羽が微妙な笑みを浮かべた。

「私は無視ですか」

「貴方は全員知っているでしょう」

「いや、私も夜静さんの友人になりたいなと」

「お前なんか詐欺師で十分だ」

 洛風の言葉に「ひどいな」と彼は眉を下げる。夜静は堪らず話を変えた。



「とにかく……文清、何か釈明はありますか。自殺したふりをして、屍仙符を盗んで洞から逃げ出した。私は――君に言ったはずです。屍仙符は使ってはいけないものだから始末すると」

 文清は屍仙符に深く関わっていたわけではないが、存在だけは知らせていた。それは文清が唯一、夜静の直接の師弟だからだ。――だから、話すべきだと思ったのだ。

 自殺、と呟き洛風は驚いたように文清を見る。彼が夜静の話に出てきた師弟だと分かったのだろう。


「それに、なぜ、私に一言も知らせなかったのですか。君は尸解の術を遣ったんでしょう。針を抜いたのは紫沁ズーチンですか。彼女には頼んだのに――私は信じられませんでしたか」

 文清はただ青ざめて夜静から逃れるように俯いている。冷静になろうと思っているのに、抑えきれない怒りが徐々に溢れた。

 尸解の術を遣ったと思わなかったのは、針を抜く人間がいないと思っていたからだ。夜静以外で文清が頼む相手はいないと思っていた。――でも、違った。



 景羽が宥めるように口を挟んだ。

「夜静さん、どうか落ち着いてください……」

「貴方もなぜ文清に協力しているんですか」

「私は……死んだ人に帰ってきてほしいという気持ちは、私もよく分かるから」

 彼は弱弱しくそう言った。

「私は戦争の生き残りです。家族は目の前で殺された。……だから、文清を放っておけなくて」

 その言葉に、ふと罪悪感を覚える。それは、そう言うべきだったのは、夜静なのではないか。

「夜静さん、文清のことを許してください。彼はただ」


 それ以上景羽の言葉を聞くと、罪悪感に潰されそうだった。夜静は足を引きずりながら文清の目の前まで歩き、その肩を掴む。それでも彼は決して顔を上げなかった。

「文清――顔を上げなさい」

「……」

「私を見れませんか」

「……」

「――自殺の後も、しばらく碧華洞にいたんでしょう。なら、私が……君が死んだと思い込んで、馬鹿みたいに一日中呆けていたのも見ていたんでしょう。さぞ可笑しかったでしょうね。君には偉そうなことを言っておいて、君が死んだら、私は、何度も何度も……屍仙符を試したいと思ったんです」

 肩が震えた。

 文清はのろのろと手を上げ、夜静の手を払い落とした。払い落とす力は弱かったが、それでもひどく痛かった。


 彼は床を睨んだまま、呟く。



「今、さら……大哥にいさん、貴方は……抜けたいと言ったら、私を殺したでしょう」



 その言葉は痛いところを突いた。

 何も言い返せず、言い返せない自分に呆れる。

 文清は堰を切ったように叫んだ。


「言えるわけがない! 大哥にいさんはいつもそうです。誰よりも洞の規則に遵じていたのに、抜けるのを手伝ってくれなんて言えない!」

 文清は目を見開いて顔を上げる。血走った目が、ぎょろぎょろと忙しなく動く。

「私があの呪符を盗んだ時だって、仲間を容赦なく殺していました。ただ怪しいだけで、犯人でもない彼らを殺したでしょう! 私は――分からないんです。貴方が何を考えているのか、全然、一度も、分かったことなんて無かった」

 震える声に、どこかにある良心が痛むような気がした。

「私は、国の為だと言って誰でも殺す大哥にいさんが――嫌いです。貴方に人の心なんて無かった。ただの、化物だ……」


 文清はずるずると床に座り込んだ。それをただ茫然と見下ろす。

「……私も貴方と同じ、化物だ……」

 彼は床に残る墨の跡を撫でた。


「あの時だって、李益リーイーさんたちを助けることはできたんです。私が彼らを逃がしてやれば良かったんです。それができなくて、ただ大哥にいさんに八つ当たりしただけなんです。自分が臆病だっただけなのに……」

 この場にある十六の棺は、やはり李一族のものだろう。吏部の役人だった李益は、白吟之の不正を摘発しようとして口封じされた。たった四歳の子どもも例外ではなかった。

「ええ、分かっています。大哥にいさんなら助けたいと思えばやれたでしょうね。貴方はそういう人です。普通怖くてできないこともやってしまう。でも、私は無理です!」

 身体の奥に凝った淀みを吐き出すように、彼は叫んだ。

「道術も何もかも下手で、屍仙符だって景羽に協力してもらわないと陣すら描けない。その陣も全部失敗です! 他に何が足りないんですか? 私はただ、李益さんたちを蘇らせたいだけなんです……償いたい……」


 夜静は知らずに止めていた息を吐く。

 文清に会ったら何を言えばいいのか、ずっと考えていた。

 慰める言葉も謝る言葉も考えた。でもどれも本当に言いたいこととは違う気がした。


 文清は愚かだと思う。こんなことをしても償いになるわけがない。それに今もなお、李一族を蘇らせたいという文清の願いは夜静には理解できなかった。

 半年にも満たない付き合いの他人を、何もかも失ってまで蘇らせようとは思えない。李一族を殺したのは文清でもないのだ。

 李益は結局、自分の行いで一族を失った愚か者だった。



 しばらく躊躇ったのち、屈みこんで文清の肩に手を置いた。少し不安だったが、今度は払い落とされなかった。

「……文清、私は君の言う通り化物です。今も……君の気持ちは理解できない。李一族は君が殺したわけじゃないでしょう」

 くぐもった笑い声が聞こえた。

「でも私は見殺しにしました」

 人として間違っていると、彼は言う。夜静は笑おうとしたが、顔が強張って上手くいかなかった。


「そう……ですね。でも君は十分頑張ったでしょう。だから、お願いだから……もうやめてください」

 これ以上苦しまないでほしかった。


「死んだ人を蘇らせることは不可能なんです。文清、私はなにより君に死んで欲しくない……」


 茫然とした文清の顔が見える。本当に夜静なのかと疑うようだった。確かに以前なら絶対に言えなかった言葉だ。


「文清、ひどい師兄あにで申し訳ない。でも頼むから、自分を傷つけるような真似はやめてください。私は誰でも殺せる、殺せますが、君のことは、大事に……思っていたんです」


 ようやく言うことができても、もう手遅れだった。


「でも、大哥にいさん

 文清は頼りなく視線を彷徨わせる。

「これ以外、思いつかないんです。夢に出てくるんです。罰を受けても構いません、だから、あの呪符の使い方を教えてください……」


 夜静は小さく息を飲み、そして首を横に振った。


「文清、もう知っていると思っていたのですが……屍仙符は誰にでも使えるわけではありません」

 だから陣は失敗したのだろう。



「あの呪符は――生前に人を喰った人間しか蘇らせることができないんですよ」

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