十
「貴方はすごいな。どうやっても解けなかったのに」
「少し厄介でしたね。目の呪いまでは解けませんが」
「構わない。耳で分かるから」
私兵の言葉通り、彼は武人らしい体つきだった。
「でもなぜ尸解の術を知っていたんですか?」
「俺の義兄が道士だったんだ。教えてもらったから少し分かる」
道士だった、と呟くと、彼は僅かに苦笑いした。
「もう死んだ。良い人だったが……」
居た堪れなくなって口を閉じた。誤魔化すように彼の身体にかけられた呪いを解いていく。ずいぶん楽になったのか、彼は夜静が驚くほど感謝した。
「ありがとう、感謝する。もう――死ぬのかと思っていた」
「いえ……貴方が針を抜いてくれなかったら私も死んでいましたし」
高淵は苦笑してかぶりを振った。
「あれは嘘だ。貴方が来た時には針は抜かれていた。信用させようと思って……すまない」
「あ……そう、なんですか」
「騙して悪かった。でも貴方を陥れる気は無い。信じてくれ――とは言えないが」
そうは言うが、悪い人ではなさそうだと夜静は思う。騙されているのかもしれないが、目が見えない以上彼の方が不利だろう。
「ところで、ここが一体どこかは分かりますか。慶佳宮の中ではあるんでしょうけど」
「灼王殿だ。昭門を抜けた先だからかなり奥の方だと思う。慶佳宮の本殿はすぐ近くにある」
「本殿……」
そこに、夜静の呪符を盗んだ犯人がいるだろうか。
「本殿には棺が安置されている。あとはあの巫師が……」
「巫師?」
緊張した声に高淵は眉を寄せた。
「知っているのか」
「頼景羽のことですか。白家にいた?」
「ああ。ここの修繕はあの男が仕切っている。死体を集めてよく分からない儀式をしているのもそうだ。白吟之は信用しているみたいだが、耄碌したとしか思えん」
不機嫌そうに吐き捨てる。
「白吟之は貴方の雇い主では?」
「俺はあいつを守るために私兵になったわけではない。――復讐するためだ」
宙を睨む目は虚ろな闇のようだった。
「……白吟之に何かされたのですか」
「違う。俺の
自嘲するような笑みに、落胆とわずかな安堵が混じる。
夜静も自分の左腕を見た。指の先にも薄く黒い痕が浮いている。
もしここに辿り着く前に腕が動かなくなっていれば、何もできずに傍観するしかなかっただろう。
そちらの方が幸せだったかもしれないと、ぼんやり思った。
高淵は粥を運びに来た男を足技だけであっさり昏倒させた。二人は灼王殿から出る。
「すごいですね」
「素人が相手ならな。――貴方はどうするんだ? 俺は抜け出せたら構わないが」
「本殿に行こうと思います。その妙な儀式を止めるために来ましたから」
「そうか……」
しばらく考えるように彼は首を傾ける。だがその瞬間、風の唸る音が聞こえた。
高淵は咄嗟に身を反らせ、足を伸ばす。手首を蹴られた相手は舌打ちして得物を握り直した。
棍棒を持った男は、南慶人のようだった。見覚えがあると思い、そして思い出す。白家に招かれた時に景羽のそばにいた従者だ。
彼は夜静を睨み、乱暴に吐き捨てた。
「もう少し大人しく閉じ込められていろよ。そっちのお前だって両手も使えずにどうする」
言葉は僅かに訛りがあった。高淵は声のする方に顔を向ける。
「関係無い。夜静、本殿に行きたいなら行けばいい。助けてくれた礼はする」
「ですが――」
無茶ではないだろうか。空虚にはためく左袖を見ると、高淵は仄かに笑った。
「貴方が本殿に行けるくらいの時間は稼げる」
「ふざけるなよ」
声に怒気が混じった。蟀谷を狙う棍棒を避け、高淵は応戦する。介入する隙も暇も無く、夜静は急いでその場から離れようとした。その一瞬、高淵が訝しげに言った気がした。
貴方は足が悪いのか――と。
***
〈慶佳宮〉と扁額のかかる本殿に辿り着き、夜静は息を整えた。本殿の辺りは人気が無く、一人でうろうろしても誰にも見咎められない。僧侶を見かけるたびに背筋が冷えたが、彼らは忌避するように本殿には近づこうとしなかった。
昔は極彩色に彩られていたはずの柱は剥げた痕だけが残り、どこか寂しい眺めが広がっていた。瓦も欠け、庭木は生気を失っている。大門の辺りは綺麗に修繕されていたが、奥はまだ手付かずのようだった。
苦労して階段を上る。広い本殿の中には南慶の仏像があるのかと思ったが、像の代わりに夥しい数の棺が安置されていた。高く伸びる柱には草花の装飾の跡が残り、石造りの床は丁寧に磨かれている。清掃されてはいるが、置かれているもののせいか陰鬱な印象を受けた。
棺の隙間を縫って歩く。静寂の中、夜静の杖を突く音が響く。本殿の奥、何かを隠すように重く垂れ下がった帷幕を押しのけようとして、ふと手が止まった。
何度も考えた。一体誰が屍仙符を盗んだのだろうと。あれを盗んで何をしようとしているのかと。
一番疑っていたのは
だが動機が無かった。兵力という点で考えると洞主も怪しいが、彼はそもそも屍仙符のことを知らないはずだった。ただ知っていた場合、彼が人を使って屍仙符を盗むことは容易だと思う。
しかし、洞主ならば自分でよく似たような呪符を作ることはできるだろう。それに屍仙符を得たなら、あんな風に試す必要もなくすぐに遣い方も分かるはずだ。
どこか釈然としなかったが、その二人のどちらかが犯人だと思っていた。あるいは、頼景羽が実は〈赤釵〉の道士の誰かと関係があったのかもしれない。
でもそう考えるのは、ただ目を逸らしたいからだ。一番納得できる答えを見たくないからだ。
夜静は帷幕に触れる。押し上げて向こうへ踏み出す。
朱塗りの柱が立ち並び、その間に棺が並んでいた。数は十六。そして地面には夥しい量の墨の線――失敗した陣が残っている。
さらさらと瀟洒な音が鳴る。片手に小さな鈴を持った景羽が振り返り、夜静を見て困ったように笑った。
「少し――早いですよ」
ねえ、と同意するように彼は傍らを見た。夜静はそちらに視線を移す。
茫然とした顔が見えた。艶の無い黒髪が青白い顔を囲み、大きな目には恐怖が滲んでいる。
ずいぶん痩せたと思う。夜静は洞を出たせいで窶れたが、彼はおそらくろくに食べていないからだろう。元々食が細くて、ちゃんと食えと怒ったことを思い出す。
頬に涙の痕があって、また隠れて泣いていたのかと思い、呆れた。夜静が残った左目を細めると、怯えたように肩を揺らす。
左足を引きずりながら二人に近づく。夜静の白濁した右目や黒ずんだ左腕を見ると、彼は戸惑うようにかぶりを振った。認めたくないというように彼は二、三歩下がって逃げようとし、景羽に押しとどめられる。
「――なんで、
懐かしい呼び名だった。夜静は一つ頷き、抑えた声で言った。
「
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