洛風ルオフォンは何も言わなかった。沈黙が怖くて、夜静イェジンはすぐに言葉を続けた。

「聞いたこと、ありませんか。今の陛下は道士を使って政敵を殺し、皇帝になったと。あれは事実です。碧華洞という洞府に道士がいて、そこで陛下に害をなす人間を殺します。最初は洞主一人でしたが、徐々に道士が集まって〈赤釵〉と呼ばれる集団になりました」

 一瞬、思い出すように目を閉じる。

「……私も紫沁もそこで暮らしていました。呪殺を続けると代償が跳ね返ってくる。洞の中は陣があって安全ですが、外に出ると代償で身体がボロボロになるんです。だから長くそこにいた道士は洞から出られなくなって、洞で死ぬ。脱走すれば殺されます。そういう、場所でした」


 険しい岩肌、広い洞府、長く一緒に暮らした道士たち。彼らを悪人と言う気は無い。誰もが少なからず、世の為だという気持ちは持っていた。楽しかったことも、あったような気がする。

「私には一人、師弟おとうとがいました。君と少し境遇が似ています。でも性格は全然違う……。道術は――あまり優秀ではなくて、呪符を作るのも下手で、虫が嫌いで、私に怒られると部屋で一人で泣いて、私は面倒で……煩わしいと思っていました」

 息が詰まる。

師弟おとうとは弱かったから、きっと向いていなかったんです。――彼はまだ呪殺が上手くできなかったので、基本的に準備と後始末が仕事でした。それで、洞主から仕事を任された時、私は彼に準備を頼みました」


 大仕事だった。十六人を一度に殺さなければならなくて、彼らが集まる時を調べなければならなかった。

 だから文清ウェンチンは彼らに近づいた。

「私は他の仕事で忙しかったので、呪殺は別の師兄が行いました。無事に終わったのを聞いて、私は安心しました。いずれ呪殺も任せられるかもしれないと――思って」

 今思うと、仕事の途中から文清は何か夜静に話したいことがありそうだった。でも忙しいからと無視した。


「でもある日――彼は私に、訊きました。どうすればいいのか分からないから助けてくれと。あの人たちは悪人じゃなかった――と」

 文清はひどく憔悴していて、でも彼が訪れるまでそのことに全く気づかなかった。

「確かに彼らは悪いことをしたわけではありません。陛下に正しく意見しただけです。でも正しいことが全て肯定されるわけではない」

 それは白吟之の不正を摘発するものだった。だが、皇帝の一番の後見人は白吟之だ。彼を切り捨てることはできないが、勘違いだと退けるには証拠が揃い過ぎていた。


「……それで、その師弟は自殺して、私も分からなくなったんです。何のために人殺しを続けるのかと言われて、分からなかった。だから――抜けようとしました。師弟おとうとが死んだ場所にそれ以上いたくないと思って」

 身勝手な理由だった。

「でも抜け出そうとした晩に、屍仙符――死者を蘇らせる呪符です。あれが盗まれていることに気づいて、焦りました。あれは……死者を蘇らせて、兵士として使うためのものなんです。そうすれば無限に兵力が得られる。でも何人か蘇らせてみて後悔しました。――恐ろしくて」

 完全に蘇ることができれば、生前の人格も持ったままだ。ただ術者の言うことには逆らえない。それは人間ではなくて、ただ言いなりになる人形だった。


「だから、盗んだ可能性のある仲間を二十七人殺して洞から逃げました。そのはず……なのに、王子言はあの呪符を持っていた」

 ようやく真っ直ぐ洛風の顔を見た。彼は夜静を蔑みもせず、慰めもしなかった。

「あの呪符は、使わせたくないんです。始末しないといけない。洛風、――協力してくれませんか」

 最後は声が震えた。俯きそうになったが、洛風の低い笑い声に顔を上げる。



「今さら断るわけないだろ。どこへでもついて行くよ」

 あっさりとした答えに拍子抜けする。それだけですか、と間の抜けた声で呟いた。

「君……聞いてましたか? 私は……何も悪いことをしてない人たちも、殺して……」

「皇帝に利用されてたんだろ? 馬鹿だなとは思ったけど、だからって道長を嫌いになったりしない」

「利用――は――」

 されて、いたのだろう。そういう組織だ。皇帝の為にある。


「人殺しだって罵られるべきなのは皇帝じゃないのか」

「不敬すぎますよ……」

「口が滑った。まあ、だから、道長は馬鹿だったけどそれが分かって抜けたんだろ? ならいいじゃないか」

「……でも、死んだ人たちはどうなるんです」

「死んだやつは何も言わねえよ」

 洛風の表情が一瞬消える。


「道長は殺したことを全部後悔してるのか?」

「――分から……いえ……」

 夜静は首を横に振った。

「後悔、していないことの方が多いです。今になっても洞で教わったことは抜けないし、私は自分で選んであそこに入った」

 ここで後悔できるようなら、もっと早く洞を抜けていただろう。

「見ず知らずの人が死ぬのも殺すのも、怖くはない。私が何より恐ろしかったのは、よく見知った師弟の死です。……身勝手ですね」

「そういうもんだろ」

 短く答え、洛風は突然夜静の頭を撫でる。ぐしゃぐしゃに髪を掻き乱されて狼狽え、洛風の腕を杖で打った。


「なっ――んですか! 何度も言ったけど私は君より年上です!」

「いや……道長の方が背低いし」

「君がでかいだけでしょうが」

 笑いながら洛風は手を離す。彼がいつも通りだとようやく飲み込んだ。

 普通の人ならきっと、夜静を忌避する。そうしない洛風は異常なのだろうし、それはよく分かっていた。でも何か救われたような気がして、情けないほど安堵した。


 まだ問題は何も解決していないが、洛風がいれば何とかなるだろうという気がする。彼につられて小さく笑い、何気なく話を変えた。



「そういえば気になっていたんですけど、廃寺の話、最後はどうなるんですか?」

 不意を突かれたように洛風は目を見張った。その反応に戸惑う。

「あの……洛風?」

 何かまずいのだろうかと思ったが、洛風は表情を緩めてかぶりを振った。

「違う、驚いただけ。聞きたいのか?」

 なぜか居心地の悪そうな顔だった。何となく訊いただけだったが、それで逆に興味が湧いた。

「まさかあのまま終わるんですか?」

「いや……」

 少しの沈黙のあと、彼は首を傾げながら語る。


「夜になって突然、寺院の裏手から物音がした。母親が帰ったのかと思って子どもが行くと、そこには仙人がいた。その仙人は子どもから事情を聞くと、すぐさま鬼を捕まえて母親を子どもに返してやった」

 洛風は早口で続きを言う。

「鬼は仙人に退治された。その人は地上を流浪している謫仙たくせんで、母子を無償で助けてくれたんだ。二人が感謝して礼を言うと、謫仙は護符をくれて立ち去った。それで、母子が鬼に遭った廃寺の跡にはその仙人の廟が立てられた――これで終わり」

 謫仙とは罪を犯して仙界を追放された仙人のことだ。よくある勧善懲悪の昔話で、夜静は不満げに眉を寄せる。


「なんか都合が良いですね」

「昔話はそういうもんだろ。最後は幸せに終わらないと意味が無い」

「意味?」

 洛風は微かに笑って頷いた。

「悲惨な話ならそこらへんに腐るほどあるだろ。なら物語くらい幸せな結末の方が良い」

「なら本当はどういう結末なんですか?」

「え?」


 洛風は戸惑ったように目を揺らし、苦笑いを浮かべた。

「言っただろ、ただの物語だって」

 本当も嘘も無いよと言う。夜静はしばらく黙った末に呟いた。

「その子、幸せになれたんでしょうか」

「そりゃ幸せだろ。変なこと気にするな」

 洛風は今度は屈託なく笑った。



「とりあえず早く宿に戻ろう。――あ、そうだ」

 彼は思い出したように言う。

「そういうわけだから、借金返そうとかもう考えなくていいよ。元から俺の金じゃないし」

 罪悪感の欠片も無くそう言う洛風に呆れたが、使ったのはほとんど夜静だ。そう考えたのを察したように彼は続ける。

「悪党から奪った金だし、むしろどんどん使った方が良いだろ」

「君は少し反省した方が良いんじゃないですか……でもそれだと、私は全部終わったあと暇になりますね」

「うん?」

 怪訝な顔をした洛風を見上げた。

「君と旅をするのも楽しいのかもしれないと……そう思っただけです」


 洛風は呆気に取られ、次いで吹き出した。

「ふっ……はは、うん、楽しいだろうな。どこ行きたいんだ?」

「名酒がある場所ならどこでも」

「……よし、薬酒が有名な場所に行くか」


 どこだろうなと勝手な計画を立てている洛風の声を聞く。本当に行くことができればいいが、左腕は動かすたびに痺れて、動かなくなるのももうすぐだろうと思う。いずれ右半身も動かなくなっていくはずだ。


 でも考えることはできる。想像すると確かにとても楽しそうで、夜静は小さく笑った。

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