七
「はい、治った。私は疲れたから寝る。昼になったらここに来い。行きたくないって言っても慶佳宮に行くからな」
追い払うように手を振る。一体どういう術かは分からないが、確かに呪いが消えたのは感じる。だが追及するなと睨まれて、夜静はただ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「治ったけどお前の元々のそれは残ってるからな」
「分かっています」
「……じゃあもういい。とにかく帰れ」
疲労の滲んだ顔に頷き、洛風に支えられて廟を出る。まだ気怠さは残っていたが、熱は引き始めていた。
玉燕は二人の背が見えなくなったところでようやく座り込んだ。神台に凭れて目を瞑る。
「玉燕」
幽かな声が聞こえた。重たい瞼を上げると、
「なんてことを。また天帝に叱られます」
「……いい加減分かってるだろ。私が地上をふらふらしてる異端だって」
「だとしてもなぜ助けたんですか」
「夜静が死ぬと都合が悪い」
「ならもう一人に移せばいいでしょう」
「うるさいな。いつも阿呆のふりしてるのにどうしたんだ」
「……」
小燕の姿が滲むように消えたのを見て、玉燕は慌てて身を起こした。
「悪かった! 待ってくれ、確かに私が考え無しだった! お願いだから――自分じゃ死ねないだろ」
しばらくして再び現れた小燕は、その手に短刀を握っていた。
「死ぬのが怖いくせに、なぜ自分に呪いを移すんですか」
「解呪できるわけないだろ、碧華洞の呪いだぞ」
「……だから自分を犠牲にすると?」
「勝手に犠牲にするな。私はいいんだよ。生き返れば呪いは消える」
痛くしないでくれと弱気な笑みを浮かべ、玉燕は項垂れてうなじを晒す。小燕は慣れた様子で短刀を振り上げ、そして呟いた。
「――本当に、馬鹿です」
短刀は正確に急所を一突きした。
***
空の端は僅かに白んでいた。洛風に肩を貸してもらい重い身体を引きずって歩きながら、夜静は呟く。
「さっき言ったこと、全部忘れてください……」
洛風はちらりと横を見て、夜静の耳が仄かに赤くなっているのを見て遠慮なく笑った。
「なんでだ。俺はまあ、驚いたけど嬉しかったよ」
率直な言葉に息が詰まる。
「君、君は……慎みを持ちなさい」
「そんな変なこと言ってないだろ。俺、絶対置いて行かれるって思ってたから、道長が助けてくれて嬉しいんだよ」
追い打ちをかけられて俯いた。
「結局助けてくれたのは玉燕ですけどね」
「そうだな。でも道長が俺を助けようとしたからあいつも助けてくれたんだろ。ああ別に、置いてかれてもいいとは思ってたけどさ」
「本気だったんですか」
「そうだよ。聞いてただろ。俺、道長だけは死なせたくないから」
あっさり告げられた言葉が重い。
「変だよな。自分が死ぬのはどうでもいい――自業自得だし。でも道長に勝手に死なれるのは嫌だ」
真っ直ぐ前を見る瞳は空を映している。夜静は僅かに苦笑した。
「私が死ぬのだって自業自得ですよ」
「たぶんそうなんだろうな。だから俺の我儘だよ。悪いか?」
彼は目を細めて楽しそうに笑う。それを見るとふと力が抜けた。
「……君が死ぬのだってどうでも良くないです。君が死んだら私はどうすればいいんですか。すぐ行き倒れますよ」
「自信持って言うことじゃねえな」
洛風は声を立てて笑った。その呑気な笑い声を聞くうちになぜか可笑しくなってきて、夜静も小さく笑う。それから大事なことを言っていないと思い出して傍らの男を見上げた。
「――洛風、紫沁を許してください。元はと言えば……私のせいです」
自分を殺しかけた人間を許せと言うのは無茶だろう。だが洛風は拘りなく言った。
「いいよ。また会ったら文句は言うかもしれないけどな」
「それだけですか」
「だから、どうでもいいんだって」
薄闇によく見えなかったが、彼は苦笑したようだった。
「柳州で道長に会う前、俺が何したか知ってるか?」
「……さあ」
「磁州は知ってるか?
無言でその話を聞く。夜静に合わせていた洛風の歩調が僅かに早まった。
「十人くらいだったかな。もう覚えてない。国から禁止された商品を売り捌いてかなり儲かってた。俺は別にそれは構わない。欲しい人間がいるなら売ればいい。給金も良かったし」
長く沈黙する。言葉を選ぶように洛風はつっかえながら言った。
「……そう、だから、捕まるまでこのままかなって思ってたんだ。だけど」
さらに歩くのが早くなり、夜静は付いていけずに踏鞴を踏んだ。洛風は慌てて歩調を緩める。
「……だけど、そいつら、餓鬼まで売り始めて、俺……」
かぶりを振って彼は続ける。
「なんでか分からない。霊薬だとか言って人間の骨とか売ってたのにな。どうでもいいのに、なんでそれだけのことであいつら殺したのか、全然分からない」
何かを恐れるように呟いた。
「駄目だ、言い訳みたいだ。俺はだから、むかついただけで雇い主を殺したんだよ。後悔もしてない。本当に――どうでもいいんだ。たぶん道長が思ってるよりずっと、俺、人でなしだ」
だから殺されかけても許せるのだと言った。
「道長、こんなのを助けて後悔しないのか?」
夜静は力なく微笑む。動かない左足を見下ろして首を横に振った。
「私には関係無いです。君を責めるべきなのかもしれないけど、できるわけがない」
もっと多くの人を殺した。自分の感情すら無く、言われるままに、顔も知らない人間を殺し続けた。知っているのは名前と生年月日だけだ。
洛風は「ごめん」と呟いた。
「俺が言いたかったのは、だから、俺は道長が思うよりずっと最低だってことだ。嫌われたくないから隠してた」
今さら言うなんて狡いな、と自嘲する。何か否定したくて、言葉を探した。
「洛風、でも……」
「それに俺、道長がたくさん人を殺したっていうのも知ってる」
頭を殴られたようだった。夜静は目を見開き、足を止める。
「なんでかは知らない。でも何十人も殺したんだって聞いた」
「……それは、誰から?」
「玉燕。あと柳州で。道長を追ってたやつがいたから」
そんなに最初から、と夜静は茫然とした。追手は撒けたと思っていたがまだいたのだろうか。それに、知っていたのに洛風は全く態度を変えなかった。
「君……は……なんで、それを知ってて」
なぜ何も訊かなかったのだろう。まさか。
洛風は、咄嗟に身体を離そうとする夜静の腕を捕まえた。
「道長、俺は違う。信じてくれ」
俺は道長の敵じゃないと言い聞かせる。
「ごめん。別に知りたいわけじゃないんだ。ただ、俺は知ってても何も思わない。道長は俺にとっては良い人なんだよ」
ぐらぐら視界が揺れる。混乱して洛風の手を振り払おうとしたが、力の差は大きい。結局離れられず、惨めだと思った。
「――私は……」
「俺は道長が何やっててもどんな人でもいいんだ。呪符のことだって訊かれたくないなら何も言わない。それだけ分かっててほしいから」
不意に嫌気が差した。いつまで隠しているのだろう。友人だと言うのなら、こんな風に利用すべきではないことくらい分かっている。
洛風はもう話は終わったという風に口を閉じる。踏み出せない夜静を見て、彼はいつものように笑う。
「疲れたのか? また抱えた方が良い?」
「……もう二度とご免です」
冗談に笑うこともできず、俯いた。
嫌われたくない相手に正直に自分のことを話すのは、こんなに怖いのかと思う。でもただ一方的に好意を差し出されて、それを自分だけは傷つかないまま受け取るのは嫌だった。洛風は事情を知って、その上でついてくるかどうか決める権利がある。何も知らせないまま危険なことに巻き込んで、後悔したくなかった。
「……洛風」
声が掠れた。言葉になったか分からなかったが、それでも洛風は夜静を見た。
「君に……たくさん、隠していたことがあります」
「分かってるよ。それでもいい」
「いいえ、良くない。慶佳宮に行くのはおそらく、危険です。君が何も知らないまま、また死んでしまいそうになったら、私は後悔します」
「俺は死んでもいいぞ」
彼は戸惑ったように笑う。たくさん人を殺しておいて死にたくないとは言えないと、複雑な顔でそう言った。
「……それでも駄目です」
夜静のしたことを知ったら、さすがに協力するとは言ってくれなくなるかもしれない。それでもいい。彼が夜静に巻き込まれて傷つくよりもずっと良い。
そう思えるようになるまでずいぶん時間が掛かった。
「洛風、私は……人を呪い殺しました。五十六人です。それが、仕事でした」
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