六
「な……君……」
茫然と洛風を見る。
「……何、やって」
洛風はしばらく地面を睨んで息を整えていたが、ふと横を見て蹲る夜静に向かって怒鳴った。
「本当、勝手なことするなよ!」
「は――」
「いねえと思ったら――気にするなって言っただろ! なんで道長が身代わりになってるんだよ、意味分からねえ!」
わけが分からなかった。少し経ってやっと、自分は怒られているのだと理解した。
「い、意味分からないのは君です。なんで助けたのに怒られてるんですか」
「頼んでないだろ!」
あまりに素っ気ないその言葉に絶句した。感謝されると思っていたわけではないが、これは予想外だ。そもそもまだ辛いだろうに、ここまで追ってきていることも信じられない。
「おい、なんで私に斬りかかるんだよ。私は夜静の無茶な頼みを聞いてやっただけだぞ」
「クソ道士、お前のことはまったく信用してないからな」
「はあ?」
「――あ」
夜静は誤解に気づいて小さな声で言った。
「洛風……これ、たぶん……紫沁の呪いですよ」
洛風がどこから聞いてどう勘違いしたのかは分からないが、自分の体調不良が呪いだと知ったなら犯人は玉燕だと思うのではないか。彼のそばにいた道士は主に夜静と玉燕だ。
洛風は目を見開くと、ややあって夜静を見た。
「紫沁? なんでだ」
「……」
夜静をどうしても連れ帰りたかったのだろう。だがなぜか、それは答えたくなかった。
しばらく考えた末に納得したのか、洛風は剣を収めた。だがまだ険しい顔で玉燕を睨んでいる。
「……玉燕」
「なんだよ破落戸」
「道長の呪いって、俺に戻せないのか?」
は、という声が重なった。玉燕は呆れかえって顔を背け、夜静は怠い身体を無理に起こして洛風を見上げる。
「ば……馬鹿ですか? 何を……」
「道長こそ馬鹿か? そんなんじゃすぐ死ぬだろ」
無遠慮な物言いが痛かった。夜静は震えそうな声を抑えて言い返す。
「大丈夫です。彼女に護符を貰ったので……」
「それでどれくらい生きられるんだ? 一月か?」
「……」
十日だと玉燕は口を挟んだ。余計なことをと睨むと、彼女は肩をすくめてまた目を逸らす。
十日、と馬鹿にしたように洛風は笑った。
「そこら辺の虫でももうちょっと長く生きるぞ」
相当怒っているのか、かなり辛辣だった。洛風が自分に対してこんなに乱暴な物言いをするとは思わず、ただ唖然とする。
洛風は決して夜静の方は見ずに言った。
「玉燕、戻してくれ」
玉燕は面倒そうに目を細める。
「それだけで命が
「ただ戻すのが無理なら、俺の腕でも足でもなんでもやるよ。お前の言う通りにする」
寺に棲む鬼と取引する母子の話を思い出した。止めようとしたが、喉が引き攣れて声が出ない。
「言っとくが、お前には護符なんかやらないぞ。私はお前が死んでもどうでもいいからな」
「分かってるよ。それでいい」
玉燕はひどく不機嫌そうだった。
「なんでだ? 夜静は呪いが無くたってすぐ死ぬぞ。ならこのままの方がついでにお前も助かるし、いいじゃないか」
洛風は一瞬玉燕に殴りかかりそうな気配を見せたが、夜静が頷くのを見て怒りの矛先が変わった。
「死にたいのか?」
低い声には恐ろしい響きが籠っていた。洛風は無造作に手を伸ばし、妙に丁寧に夜静を引っ張り起こす。振り上げた拳が視界の端に見えて、殴られると思ってまじまじと目の前の洛風の顔を見つめた。
だが結局、迷うように拳は下ろされた。洛風は荒い息の合間、かぶりを振って言う。
「死にたいなら――別にいいよ」
止めないからと呟く。
「でも、こういうのは本当に、嫌だ……」
洛風もただの風邪ではないとは分かっていたのだろう。だから治って驚いた。そして不安になった。夜静が治したはずなのにいなくなったのは、何かまずいことがあったからじゃないかと焦ったという。
「そしたらこんなとこで死にかけてるし、十日って冗談だろ。俺、別に、助けたんだから助けろとか言ってない。死にたいだけなら俺をついでに助けたりするなよ。すごい、むかつくから」
夜静は目を瞬いて子どものように膝を抱えて項垂れる洛風を見つめ、それから自分の吐いた血で汚れた手のひらに目を落とした。
血は汚かった。今この瞬間も、吐きそうなのを我慢している。身体中から力が抜けて座っていることすら辛いのに、どうして他人を気遣わないといけないのか理不尽に思いながら、言った。
「……死にたいわけではないです」
やるべきことから逃げ出したいとは思った。死んだら楽だろうとも思ったが、だからといってあと十日しか生きられないと言われて素直に受け入れられるほど未練が無いわけではない。
君にはたくさん借りがあるからと、同じ言い訳を繰り返そうとしてやめた。
「ただ……嫌だったからです。私は一度友人を殺しました。彼の墓も作った。もう二度と、あんなことはしたくない……」
洛風が少しだけ顔を上げる。上手く動かなかったが、夜静は笑みを浮かべようとした。
「私は、助けてもらったくらいで恩返しするほど……良い人ではないです。洛風が死ぬのは嫌だけど紫沁に呪詛返しもしたくなかっただけで」
なら自分が引き受ければいいと思った。無神経に王子言に提案したことを思い出して苦笑いした。彼は嫌がったが、確かにこれはやらない方が正解だろうと思う。
これが玉燕の言う情なのか何なのかは分からなかったが、泣きそうに顔を歪めた洛風が子どものようで、血に汚れた手でその頭を撫でた。
どうやって文清に接すればいいのか分からないと控えめに洞主に苦情を言ったら、そうすればいいと教えられたのだ。文清は撫でると一瞬身体を強張らせるが、その後で嬉しそうに小さく笑う。
でも、洛風は文清ではない。やり直しなどできない。できないから、どうしても助けたいと思ったのだ。死んだら何をやっても戻ってこないことは、屍仙符を作った夜静が一番よく分かっている。
洛風はしばらくされるがままになっていた。手のひらから伝わる体温に安堵する。
彼は不意に夜静の手を掴むと、困り果てたように眉を下げた。
「でもさ、俺も普通に嫌だからな。俺は大体誰が死のうがどうでもいいよ。いいけど、道長だけは駄目だ」
彼はふらふら立ち上がると、まだ不機嫌そうに腕を組んで黙っている玉燕の方を見た。
「玉燕、できるんだろ」
「……私としては夜静が死ぬ方が困るからいいけど。腕も足も貰うし、死体も使うけどいいのか?」
「構わない」
「意味が分からないな。全然似てないけど、生き別れた兄弟とか?」
首を傾げながらも、玉燕は了承したようだった。夜静は重い身体を引きずって必死に声を上げる。
「なんで――玉燕! やめて、くださ……」
視界が赤く染まった。目から生温いものが流れていく。力が抜けて、地面に強かに頭を打ちつけた。それでも進もうとすると、宙を踏むように平衡感覚を失って肩から倒れた。
洛風がそれを見て助け起こそうと足を踏み出しかけ、やめる。少し困ったような声が聞こえた。
「道長、
ふざけないで欲しい。呻きながら、夜静はかぶりを振った。
「馬鹿に――しないで、ください。これほど、言ったのに」
「うん。道長って意外と、俺のこと好きだったんだな」
今なら友人だろうと笑う声がする。もうそれは否定しないから、やめてくれと懇願した。
洛風は玉燕の前に立った。澄んだ目が玉燕を見つめる。
「で? 俺はどうすればいいんだ」
玉燕は狼狽えたように一歩後ずさる。
「お前、死ぬのが怖くないのか」
「別に。ずっと寝てるみたいなもんだろ」
「全然違う。冷たい暗闇だ」
その言葉には、なぜか実感が籠っていた。玉燕は何度も何度も首を振った。
「何なんだよ――私にどうしろって言うんだ。どうして命乞いをしない?」
「してどうにかなるもんでもないだろ。何かを貰うにはそれ以上のものが必要だ」
鬼が笑っている。欲しいものがあるなら大事なものをくれと。
「全部やる。だから道長を助けてくれ」
夜静はもう声が出ず、もがくように地面を引っ掻いた。
玉燕は返事をせず、しばらく沈黙が落ちる。次いで、悲鳴のような声が耳朶を打った。
「ああもう、分かった、分かったよ! 雪玉観の道士は病を無償で治すもんなんだ。やってやるよ!」
怒鳴り声に唖然とした。洛風も初めて力の抜けたような顔をする。
「――は? お前、何言って……」
「脅して悪かったな! お前の腕なんかいらない。綺麗さっぱり解呪してやるよ。一生感謝しろ」
乱暴に毒づく。意味が分からず、夜静も信じられないほど重たい頭を上げる。
「でも、さっき、無理だと……」
夜静の呟きに玉燕はまた声を荒げた。
「事情が変わったんだ、たった今な。どっちも助けてやる」
どういう心変わりなのか分からないが、玉燕は本気だった。彼女は腹立ちまぎれに転がっていた鼎を蹴飛ばし、不遜に腕を組む。
「運が良かったな。――私は命乞いをしない奴らは助けていいんだ」
お前らが死んだ時には地獄に叩き落としてやると呟き、彼女は引き攣った笑みを浮かべた。
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