霊玉リンユー廟に着いた時、気づけば夜静イェジンは倒れ込んでいた。

 もう日が落ちていた。月夜だったのが幸いして辛うじて道は分かったが、夏でも夜は冷える。熱と悪寒で冗談のように震える身体に可笑しさすら感じた。


 朦朧として視界が霞む。杖に縋って身を起こそうとした時、酷い耳鳴りの向こうから玉燕ユーイェンの驚いた声が聞こえた。

「死体かと思った。夜静か」

「……まだ生きてますよ」

 死にそうではある、と心の中で付け加える。

 痣の広がる左腕を掴み、激痛で意識が明瞭になった。夜静は顔をしかめながら玉燕を見上げた。


 廟にずっといたのか、彼女は別れた時と変わらない姿だった。霊玉廟にいなかったら自分は行き倒れて死んでいたと思うとかなり危ない賭けだったと思う。夜静は喘鳴混じりに言った。

「ごめ……ん、なさい。護符……を、ください。お願いします」

 這いつくばるように額づく。動くたびにぎりぎり縛り上げられるような痛みが走った。


「なに――おい、何があったんだ? なんで呪われてるんだ」

 さすがに呆気に取られたような声だった。彼女が肩に触れると、なぜか苦痛が弱まる。それは気のせいではなかった。

 驚いて顔を上げると、玉燕は一瞬しまったという顔をした。それでも肩に置いた手は離さず、彼女は途切れ途切れに言う。

「……なんで、これ、お前、洛風が呪われてただろうが。なんでお前に移ってる?」


 気づいてたんですか、という言葉は声にならなかった。玉燕は静かに目を見開き、そして答える。

「私が教える義理は無い。あいつが死んだって私の損にはならない」

 平坦な声だった。凪いだような目が、僅かに揺れる。

「でもお前が死ぬと困るんだよ。馬鹿野郎、何十人も殺したくせに今さらどうしたんだ」


 苛立ちが表情に出ている。夜静は弱弱しく咳き込みながらかぶりを振った。

「どう……でもいい。護符を、ください。このままだと慶佳宮に行けない」

「解呪なんて無理だぞ。これ、碧華洞の道士の呪いだろ」

「知ってます。……最低限、動ければいいんです。熱だけでも抑えられませんか」

「お前とんでもない我儘言ってることに気づいてるか?」

「私が死んだら……困ると言ったでしょう」


 玉燕は大袈裟にため息をついた。

「井戸の時とは違う。お前は故意に呪いを掛けられた。それに干渉するのはさすがに私でも無理というか、怒られるというか……」

 後半はよく聞こえなかった。再び意識が朦朧とし始め、顔を上げていられずに地面に突っ伏す。

「あのなあ……馬鹿だよ本当に。熱を抑えたって、たぶん十日以内には死ぬぞ」


 頭上から降ってくる声が遠い。このまま死ぬのだろうかと考える。まさかこうやって終わるとは思ってもいなかった。

 譫言のように、夜静は声を振り絞った。

「……反魂……死者蘇生、の呪符……屍仙符といいます。始末して、くれますか」

「あ? 他人に押し付ける気か?」

「駄目、ですか」

「……」

 迷うような沈黙のあと、玉燕はどうしても納得できないようにまた呟いた。


「お前なら、洛風を助けないと思ってた」


 夜静もそう思っていた。紫沁が呪ったとしても、きっかけが夜静だとしても、洛風を見捨てることはできた。彼がいないと困ることはあるが、屍仙符の始末が夜静の中では最優先――のはずだった。

「……どうして助けた? 死にたかったのか?」

 躊躇うような問いが聞こえた。もう視界はぼやけて何も見えない。夜静は蹲ったまま少しだけ笑った。

「まさか……」

「じゃあなんだよ。情でも湧いたか」

 乾いた笑いしか出なかった。情、と慣れない言葉に戸惑う。

 地面についた手を握りしめる。胸が苦しく、何度か咳き込むとぼたぼた血が落ちた。



 ぼんやり考えていた。苦しんでいる洛風をただ眺めながら、どうすればいいだろうと繰り返し繰り返し自問していた。答えは出なかったが、選択肢が二つしかないと分かっていた。このまま見捨てるか、呪いを自分に移すか。

 見捨てればいい。見捨てて宿から逃げればいい。何十人も殺して、その何倍も見殺しにした人たちがいた。そのうちの一人になるだけだ。


 洛風のことは、よく知らない。気前よく金を貸してくれる。煩わしいほど世話を焼いてくるのに、時々妙な我儘を言う。たぶん孤児で、十年前に母親が死んでいる。剣はかなり強い。村人たちを容赦なく殴るし、王子言もおそらく殺した。話が上手くて人から好かれやすい。なぜか知らないが、夜静についてくる。

 ――なんで、見殺しにできるんですか。

 やめてくれ、と思う。いつまで文清の言葉を引きずっているのだろう。今は関係無い。

 ――道長と一緒にいると楽しいよ。

 些細な言葉だった。本当に煩わしい。洛風はきっと笑って、そういうことを簡単に言える人間なのだ。友人は多いだろうし、どこでも上手くやれる人間だ。夜静とは違う。


 くだらないことを考えても、寝台のそばからどうしても動けなかった。洛風が苦しげに呻くたびに死んでしまわないかと脈を確認して、そのたびに愕然とする。混乱した頭でも、認めなければいけなかった。

 ――洛風を死なせたくないと思っている。


 理由はよく分からなかった。たくさん借りがある、からだろうか。違う。そんな理由では、昔殺した友人はどうなる。今まで殺した人たちは。

 違う、違うと意味も無く繰り返し呟いて、結局分からないままだった。誰かに自分の中を引っ掻き回されたように気分が悪かった。

 そして最後に玉燕のことを思い出した。正確には、彼女の持っている雪玉観の護符だ。あれさえあれば、しばらく動ける程度には熱を抑えられるかもしれないと思った。

 どうせ夜静は放っておいてもすぐに死ぬ。ならついでに洛風を助けてもいいだろうと思った。

 そう言い訳を作らないと、人を助けることすらできないのだ。



「――彼にはたくさん、借りがあるので」

 迷った末の言葉に、玉燕は鼻を鳴らした。

「殊勝じゃないか。それで? 私がただで護符をやるほど善人に見えたのか」

「違ったんですか」

「……お前……」

 案外図々しいとぶつぶつ言いながら、彼女は夜静の額を軽く押す。


「今回だけ、善人になってやる。ただし熱を抑えるだけだ。時間が無いから、朝になったら引っ張ってでも慶佳宮に行くからな。お前が死ぬ前に全部終わらせる」

 十分だと思った。叩きつけるように護符を渡される。触れただけでも確かに気分は良くなった。

「ありがとう、ございます……」

 洛風は今もたぶん寝ているだろう。しばらく具合の悪さは続くはずだが、熱はそろそろ下がり切った頃だろうか。

 もう二度と会わないと思うと妙な気分になる。何度追い返そうと思っても無理だったのに、別れる時は唐突で、拍子抜けした。



 玉燕は複雑な目で夜静を見下ろしていた。彼女は躊躇ったのちにうずくまる夜静のそばに屈み、また口を開く。

「お前さ、もし……」

 何か言いかけていたが、不意に玉燕が跳ねるように立ち上がったのが分かった。


 何が起こったのか、一瞬把握できなかった。玉燕は乱暴に神台の上にあった鼎を掴んで投げる。鉄同士がぶつかる耳障りな音が響いて、ついでに舌打ちも聞こえた。

「夜静!」

 幻聴かと思った。彼が夜静の名を呼んだのは、初めてのような気がする。


 廟の入り口、抜き身の剣を持った洛風が立っていた。

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