「――なん、で」


 目の前が真っ白に弾ける。何も考えられなかった。ただ受け入れたくなくて、無意味に洛風ルオフォンの身体に触れては火傷したように手を離す。

「なに――どうして、君が」

 またからかわれているのかと思った。顔が強張る。引き攣った笑みを浮かべて呟いた。

「やめて……ください。これはあまり、面白くない……どうして……」

 自分がまるで木偶人形のようだ。何もできず、何も分からない。見ているだけで、理解することは拒否している。



 赤い印。それは、〈赤釵〉に呪われた証拠だ。



 無意識に、自分の左腕を掴む。激痛が走って正気を引き留める。


 ――彼は、文清ウェンチンじゃない。


 そう考えてようやく、自由に息ができた。


 なぜ洛風が〈赤釵〉の道士に呪われているのかは分からない。ただうなじの証は見間違えるはずもなかった。

 夜静イェジンは寝台に凭れかかる彼の身体を苦労して寝台の上に押し上げ、丹念に身体を調べる。燃えているかのように熱は高く、何度呼びかけてもまったく反応しない。荒い息が徐々に弱まっているのに気づいてひどく焦った。



 どうするべきか、迷う。これはただの風邪ではない。このまま何もしなければ確実に洛風は死ぬ。だが彼がどういう人間なのか分からない以上、助けるべきではない。今後、洛風が敵に回らないとも限らないのだ。

「……」

 それに洛風を助けるために体力を使えば、この後動けるかどうか分からない。屍仙符を使おうとしている人間を捕まえることが目的だったはずだ。それを放り出して、よく知りもしない男を助けるべきなのだろうか。


 寝台のそばに蹲り、熱に浮かされる洛風をただ見つめた。

 焦りと罪悪感が澱のように凝る。それでも決心はつかず、そんな自分に呆れた。


 半時辰もただそうやって眺めていると、不意に洛風が薄く目を開いた。熱で潤んだ目が夜静を見る。意識がはっきりしないのか、彼は掠れた声で囁いた。

「……なんで泣いてるんだ?」

 戸惑い、夜静はただかぶりを振る。ひどい気分なのは確かだが、泣いてはいない。

「そっか……」

 洛風は再び目を閉じる。青ざめた顔に息を飲んだ。

「ごめん……俺、風邪も引かない……のに、変だな」

 洛風のせいではない。それだけの言葉も言えなかった。

「すぐ治るから、道長、気に、するな……」

 そのまま力尽きたようにまた眠る。


「……治りませんよ」


 自分でも、泣いているような声だと思った。


 いくら洛風が丈夫でも呪いには関係ない。このまま衰弱して死んでいくだろう。

 そこまで考え、ふと気づいた。この死に方は紫沁ズーチンの呪いだ。

 ぼんやりと、彼女が洛風の髪を引っ張っていたことを思い出す。あれで髪の毛を手に入れたのだろうか。怒っただけだと思っていた自分が可笑しい。やはり彼女の言う通り、どこか変わってしまったのだろう。


 彼女を怒る気にはなれなかった。紫沁はこれで夜静が帰ってくると思ったのだろうか。それとも単に怪しいと思ったからだろうか。どちらにせよ、これは夜静が招いた事態だった。



 ***



 熱で朦朧とするのは久しぶりの経験だと、洛風は思う。すぐ治るとは言ったものの妙な風邪だった。夜静がちゃんと夕餉を買えるのか、胃に悪いものを選ばないのか心配だったが、目を開けることすらままならなかった。

 燃えるような熱が凝っているのに、悪寒で背筋が震える。喉が腫れてろくに声も出せず気絶するようにたびたび眠りに落ち、繰り返し悪夢を見た。


 寺に巣食う鬼の夢だ。その鬼は洛風に問い掛ける。お前の大事なものをくれたら、助けてやるぞ、と。

 大事なものとはなんだと、夢の中で訊く。すると鬼はにやにや笑いながら洛風の隣を指差す。隣には、片目を失い血だらけになった夜静の姿があって、そこでいつも夢から覚める。

 夢を見るたび、夜静の欠けている部分は増えていった。そんな姿は見たくないのに、夢の中の洛風は必ず大事なものが何か訊いてしまう。

 そして隣を見て、そこにいる傷だらけの夜静を見て息を飲む。


 目を失い、腕を失い、足を失い、臓腑も抉られていく。寺の黒い床には夜静の血が染み込んでいき、彼は立てなくなって崩れ落ちる。血に濡れた白い道服が目に焼きついた。



 何度目かの悪夢から覚めた時、かたわらで衣擦れの音がした。瞼がひどく重く、何をしているのか見ることすらできない。だが、冷えた手が額に押し当てられて驚いた。

「……んで……い」

 耳鳴りがひどくて、何も聞こえない。道長、と呼びかけようとしたが、それだけで身体中に鈍く痛みが響いて堪らず言葉を飲み込んだ。


 口元に何か押し当てられた。温い水のようだったが、ざらざらしたものが混ざっている。微かに鼻をつく鉄臭さに逃れようと顔を背けたが、無理やり口をこじ開けられた。

 正体の分からない液体が喉を伝って落ちていく。不味い。薬だろうかとぼんやり考えた。


 全て飲み切れたのか、不意に解放されて咳き込んだ。押さえつけられていた顎が痛む。謝るようにそっと肩を叩かれ、本当に夜静かと一瞬疑った。

 ひどく不味かったが、それでも一応効いているのか徐々に気分が楽になってきた。身の内を喰い破ろうと暴れる熱が少しずつ鎮まる。同時に抗えない眠気を感じ、再び気が遠のいていった。


 ふと不安になった。眠りから覚めた時、まだ夜静はいるだろうか。

 ――役に立たない自分を、夜静はまだそばに置くだろうか。


 鬼の笑みが頭の中に貼りついている。大事なものをくれたら助けてやると、繰り返し繰り返し囁いてくる。

 何かを得るにはそれ以上のものを差し出す必要がある。それが身に染みついていた。あの鬼がやったことを洛風は責められない。無条件で人を助けるのは、ひどく難しい。



 指先だけ、どうにか動かした。彷徨う先に衣が触れる。まだ夜静がそばにいると分かって少し安堵した。


「……」


 何か聞こえたような気がしたが、潮騒のような耳鳴りに全て塗り潰されて消えた。

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