「ずっと前、貧しい母子おやこがいて、二人は暴力を振るう父親から逃げて放浪してた。母親は病気で子どもも小さかったけど、必死に逃げ続けてた。でもある時ひどい大雪が降って、なのに宿はどこもいっぱいで泊まれずに、母子は近くにあった廃寺に泊まることにしたんだ。そこには鬼が棲みついていて、寺に泊まりたければ何かくれと言った」

 洛風ルオフォンは慣れないように訥々と話した。聞いたことのない出だしだったから、あまり有名な話ではないのかもしれない。


「なるほど……寺にいるのなら厄介かもしれませんね。鬼と取引するのは危険なので、できれば逃げた方が賢明ですが」

 その言葉に洛風は苦笑した。

「道長、これただの物語だからな。真剣に考えなくていいよ。――母子は貧乏だったからろくに物を持っていなかったけど、外にいたら凍死すると思って母親は鬼の言葉に頷いた。鬼は最初、母親が着てた外衣うわぎを要求した。寺の中は寒かったから、母子は抱きしめ合って暖を取った」


 誰かに話を聞かせてもらうのは初めてかもしれないと頭の隅で考える。文清ウェンチンたちに説話のようなものを語ったことはあるが、自分が語ってもらうことは無かった。


「でも日が暮れるとますます寒くなって、何も食べていないから余計に冷えた。鬼は寺の隅に腐りかけの食べ物を溜め込んでて、子どもが腹が減ったって訴えると、母親はそれを少し譲ってくれないかと鬼に頼んだ」

「それでまた取引ですか?」

「そう。食べ物を少しやる代わりに、鬼は母親の木彫りの簪を要求したんだ。簪は大事にしていた物だったけど、母親は子どもに食わせるためにそれをやった。くれた食べ物は腐りかけの饅頭だけで、母親は全部子どもにあげた」


 夜静イェジンは僅かに眉をひそめて洛風を見た。

「母親はそれだけでも鬼に感謝した。ただ夜になると母子は寒さでろくに動けなくなって、でも喉が渇いて仕方なくなった。鬼は雪を溶かした水をいくつも袋に詰めて溜めてたから、母親はまた取引した」

 最初は気を紛らわせるためだと思っていたが、気づけば洛風の声に耳を傾けていた。

「鬼は母親の沓を要求した。それで母親は水袋を一つ手に入れたけど、鬼はわざと袋に穴が開いているものを選んだから、運ぶうちにどんどん水が漏れて手のひら一杯分しか残らなかった。彼女はそれを子どもに飲ませて、自分は袋に残った僅かな水滴だけを舐めた」

「……なぜ母親は怒らなかったんですか?」

「怒り方が分からなかったんだ。それにずっと殴られてたから、貰えるだけでもありがたいと思ってた」


 夜静は洛風から目を逸らし、寝台に顔をうずめる。

「眠いのか?」

「いえ……ただ君は趣味が悪いと思います」

「失礼だな、道長が話せって言ったのにさ」

 洛風は低く笑って続きを語った。


「夜も深まって、子どもは寒さで凍えて死にそうになった。母親も素足に凍傷ができていたけど、彼女はまた鬼と取引することにした」

 淡々とした声だけが耳に入ってくる。

「母親は持っていた銭を全部鬼にやって、代わりに薄いボロ布を手に入れた。それで子どもをくるんで、その上から自分の中衣を着せた。それでも子どもは寒くて堪らなくて少し泣いて、それが鬼を怒らせた」

「……」

「もう寝た?」

「……寝てません。続きは?」

「怒った鬼は子どもを外に追い出そうとしたんだ。母親は子どもの口を塞いで、朝までずっと謝り続けた」


 少し言葉を切った後、洛風は僅かに声を落とした。

「朝になって、子どもは腹が減って堪らなくなった。でも母親はもう何も持っていなくて、今度は鬼から取引を持ちかけてきた」

 子どもは馬鹿だから、ねだれば出てくると思ってたんだと、洛風は嘲るように付け加える。

「鬼は、子どもをくれたら持っている物を全部やる、母親をくれたら袋一つ分の食べ物をやると言った。母親はもう歩く体力も無くなっていて、子どもを連れて逃げることもできなかった。だから彼女は、袋一つ分の食べ物を選んだ」

「……」

「母親は鬼に引きずられて寺から連れ出された。子どもは何が起こったのか分からなくて、小さな袋と一緒に取り残された。母親はちょっとずつ食べなさいと言ったけど、袋の中には古くなった生米しか入っていなかった」

「……それで?」

「生米はまずかったけど、他に食べるものが無かったから、一粒ずつ噛んで母親の帰りを待ち続けた。夜になってようやく、母親がもう帰ってこないのだと分かった」


 何かを得るには何かを引き換えにしなければならない。そういう話だろうかと思ったが、それにしても悲惨だった。夜静はしばらく黙って続きを待ったが、洛風の声はもうしない。まさかそれで話は終わりなのだろうか。


「洛風? それで終わりなんですか?」


 夜静が落ち込んでいると思うなら、なぜこんな暗い話を選ぶのだろう。少し腹が立って、文句を言おうと寝台から身を起こして横を見る。

 すると、ぐらりと洛風の身体がこちらに向かって倒れ込んできた。

「――え?」

 肩にのしかかられて呆気なくまた寝台に沈む。重いと言いかけたが、ふと喘鳴のような呼吸が耳を突いた。

「……洛風?」


 どうにか洛風の身体の下から抜け出そうとした。抜け出すというよりも転げ落ち、這いつくばるように身を起こして洛風の顔を覗き込む。



 血の気の引いた顔が見えた。額には大量の汗が浮かび、眉間に皺が寄っている。触れた身体は異常に熱を持っていた。

 動揺して身体を揺すぶる。呻くような声を上げ、洛風は不明瞭な声で呟いた。

「ごめ……なんか、風邪、引いて……」

「風邪、って」

「続きは、また今度な……」

 風邪には見えないほど具合が悪そうだ。狼狽えるうちに洛風は気絶するように眠りに落ちた。


 茫然とした。何があっても洛風は大丈夫だと、勝手にそう思っていた。そう思い込んでいたことを今さら突きつけられる。

「洛……洛風……?」

 無意味にその身体を揺すぶり続ける。初めて見る苦しげな表情にどうしていいか分からなくなった。


 何度名前を呼んでも返事は無かった。不安を感じる自分に唖然とする。ぐらぐらと人形のように無抵抗に揺れる彼を見て恐ろしくなり、その身体から手を離した。

 揺すぶったせいで衣が乱れ、身体が傾いで結われた髪が肩から滑る。



 露わになったうなじに、珊瑚玉のような赤い印が一つ浮かんでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る