景羽ジンユーは白吟之に取り入ったのを偶然だと言った。それを信じたわけではなかったが、紫沁ズーチンのことが気に掛かり、二人は白家を抜け出した。景羽は特に引き留めず、気をつけてとだけ言って愛想良く笑っていた。


「あいつ絶対嘘ついてるぞ」

 その言葉に黙って頷く。

 景羽がただ白吟之を騙しているだけなら無関係だが、あの白吟之の容態はどこか変だ。隠していることがありそうだが、詳しいことが分からない以上踏み込めない。


 洛風ルオフォンは不機嫌だった。景羽がよほど気に入らないのか、ぶつぶつと文句を言っている。

「大体さ、あいつが俺たちを白家に入れる必要なんてどこにも無いだろ。邪魔されたくないなら、あっちは俺たちをどっかに閉じ込めることだってできるのに」

 頼景羽の目的は分からない。白吟之の祟りの原因、何を祀っているのか分からない祭壇、太歳星君という嘘、大量に仕入れている鶏――考えても埒が明かないと思い、夜静イェジンはかぶりを振った。

「今は紫沁が先です」



 妾宅に着き、洛風だけ中に忍び込んだ。紫沁が無事なら見るだけで帰ってくるはずだったが、一炷香もしないうちに戻ってきた洛風は肩にぐったりとした少女を担いでいた。

「祭壇の前で倒れてた。誰もいなかったから勝手に連れて来たけど、こいつ大丈夫か?」

 顔色は青白く、呼吸は浅い。祭壇を調べていたのか、衣服に鶏の羽根が一本付いていた。


 紫沁を自分たちの宿に連れ帰り、寝台に寝かせた。しばらく見様見真似で看病の真似事をしていると、やがて彼女は呻きながら目を覚ました。

 夜静が顔を覗き込むと、紫沁は一瞬茫然と目を見張り、すぐに飛び起きて這いつくばるように頭を下げた。

「申し訳ありません! 私が至らないせいで師兄に迷惑を……」

「いや、私は大したことはしてないですよ。連れ出してくれたのは洛風だし」

「そーだぞ」

 部屋の隅で胡坐をかいている洛風がやっと目に入ったのか、紫沁は引き攣った顔で固まった。


「……ありがとうございます。ええと……」

「洛風な」

「……る、洛風」

 紫沁は死んだ方がましだという顔をしながら洛風に頭を下げる。洛風はまったく悪気なく驚いた。

「礼を言えるんだな」

「なっ――失礼ですね! 礼を言うことぐらい知ってますよ!」

 昔は言えなかったのにと思いながら紫沁を見ると、彼女は顔を真っ赤にしながら夜静も睨んできた。



「紫沁、それで君はなぜ倒れたんですか?」

 その言葉に紫沁は咳払いして真面目な顔に戻る。

「祭壇を怪しいと思ったんです。何が祀ってあるのか全然分からなくて、だからあの壺の中身を――確かめようと思って」

「道長みたいだ……」

 洛風の呟きは無視した。

「呪符で封じられていたのを剥がしたんですか?」

「ええ……いえ、そうしようと思ったんですけど、呪符に触れた途端に身体が重くなって」

 中身は結局分からなかったという。


「あの祭壇を巫師が用意したのなら、その人はかなり強力な呪術師です。師兄……洞にいた頃の夜師兄のような」

 紫沁の言葉は、頼景羽とはまったく似つかわしくなかった。彼は白吟之の病を妾の祟りだと説明した。それが頼景羽の勘違いなのか、あるいは嘘なのか。


「南慶の巫師とは聞いていましたが、あんなに質の悪い呪符を作れるなんて……」

 悔しがっているように聞こえた。紫沁もそんなものを作りたいのだろうか。師妹の将来に少し不安を感じたが、夜静は聞かなかったことにした。

「でも、これからどうするんだ? たぶんあいつ、紫沁が妾宅を探っているのが気に入らないんだろ? 絶対なんか隠してるよ」

 洛風が言葉を挟むと紫沁が顔をしかめる。文句を言われる予感を感じ取ったのか、洛風は肩をすくめて立ち上がった。

「余計なこと言うな、だろ。俺は夕飯買ってくるからちょっと出る」

「あ、じゃあ私の分も。粥以外で」

「私は辛いものがいいです」

「……俺が買うのか?」 

 洛風は釈然としない顔で部屋を出て行った。




 洛風の足音が聞こえなくなった頃、紫沁は寝台から降りて夜静の前に座り直した。彼女は改まった口調で言う。

「夜師兄、私は呼び戻されたので、洞に帰らなければいけません。一緒に帰りましょう」

 唐突な言葉に目を見張る。夜静はしばらく躊躇ったのちに首を横に振った。


「紫沁、私は……」

「ええ、不始末があるんでしたよね。でもそれは師兄が命と引き換えにするほどのことなんですか? 洞であっても解決できるかもしれませんし、もっと他の方法を考えてください。このままでは師兄はすぐに死んでしまう」

 紫沁は静かに激昂していた。

「私も協力しますし、洞主だって助けてくれます。どうしてもっと私たちを頼ってくれないのですか」

 誤魔化すことは許さないというように彼女は真っ直ぐ見つめてくる。夜静は逃げ場を失って無意味に手を握りしめた。


「……正直に言うと、信用できないからです。大事なものを盗まれて、犯人はどう考えても〈赤釵〉の人間でした」


 告げられた言葉に紫沁は目を丸くする。彼女はしばらく絶句し、つっかえながら言った。

「それは……知りません、でした。私も疑っていると?」

「君は――可能性は低いと思っています。だから言ったんです。でも洞主が協力していたら分からない」

 そんなこと、と呟き、紫沁は目を伏せた。動揺が伝わってきて居た堪れない。

「可能性の話です。だから洞には戻れません」


 しばらく俯いていた紫沁は、ふと縋るような目でこちらを睨んだ。

「じゃあ、私も本当のことを言います。私は――師兄に、ただ帰ってきて欲しいんです。文清ウェンチンも洞からいなくなって、師兄まで消えるのは嫌なんです」

 不安に揺れる声が耳を打つ。

「私は……私は、もう二度と家族を失いたくない」

 驚いて言葉を失った。夜静は何も言えずに彼女の震える肩を眺めていた。


「私は親に売られた孤児です。それでも洞にいれば価値があると思えたんです。洞にいれば、師兄も文清も、洞主も雪師姐も――色んな人が私に教えてくれたから――私が大事なことをしていると――」

 彼女の目は真っ赤に充血していた。それでも泣いていないのが紫沁らしいと思う。

「なのに夜師兄が行ってしまうのは……狡いです。私に教えたことは全て嘘だったんですか? 私たちは……ただの罪人で、死ぬべき悪人ですか」


 夜静は微かに笑った。

「……分かりません。でもきっと役に立っているのだと思います。私たちは、皇帝陛下の狗です。陛下の役に立てば、それが善です。君を人殺しだと責める人間がいたら、私はそれを許さない」

「なら」

「でも、私は違います。文清を死なせたことを後悔しました」


 ぽつりと呟いた。紫沁は目を大きく見開く。

 後悔したら、振り返ったら、もう駄目だった。狗は狗のまま、何も考えずにただ従うだけなら何の問題も無かった。でも初めて自分のしたことを後悔して、その途端に次々過去を思い返して罪悪感が積み重なっていった。

〈赤釵〉は法の外にいる。だから法で裁かれる罪人という基準は当て嵌められない。でも、自分で自分を罪人だと思ってしまったら、そこから上手く進めなくなった。法で裁かれないから、償い方も分からない。


「でも、師兄、師兄はただ仕事をしただけです」

「文清だけじゃない。私は友人も殺しました。彼は私に良くしてくれたのに」


 雪にまみれ、穴を掘った。血の染みた寺の床は今でも思い出せる。人殺しと罵られたことも。


「彼の妹と子どもも殺しました」


 見られたから、それだけの理由で彼女たちを殺した。

 友人を殺してから一年ほど経った頃だ。彼の妹は気丈な人で、子どもを守るように抱きしめて死んでいた。血まみれで事切れていた二人を、友人の墓の横に埋めた。

 見逃すかどうか一年も迷っていたのに、結局夜静は洞の規則を優先したのだ。


「抜け出す時にも、ただ怪しいからというだけで二十七人殺しました。迷いもしなかった。君みたいに、洞の仲間を家族だと思ったこともない」


 大哥にいさんと呼ばれても煩わしくて、居心地が悪かっただけだ。


「私は紫沁が思うような人じゃない。今だって、必要があれば君を殺せる。だからそんな顔をしなくていいです。私を殺すのは構いませんが――少しだけ待ってもらえるとありがたいです。盗まれたものを取り返さないといけないので」


 紫沁は唇を震わせ、何度も首を横に振った。

「少なくとも、文清のことは師兄が気にするようなことじゃありません。あいつはただ逃げ出した愚か者です。私は……」

 言葉を詰まらせ、紫沁は頼りなく目を彷徨わせる。

「……なんでもありません。でも貴方は自分のことがよく分かっていないだけなんです。師兄は……」

 苦笑して彼女の言葉を遮った。

「よく分かってますよ。紫沁、もう諦めてください。私は外で死にたいと洞主に言いました。それは今も変わりません。全身腐って死ぬのは痛そうですが、ここはそんなに悪くない」


 紫沁はその言葉に悔しげな顔をした。彼女がこんなに表情豊かだったのだと今さら知った。

「……洞より、あの男と一緒に旅する方が良いと?」

 言われて初めて、そうなのかもしれないと思った。

 答えなかったが、そう思ったことは伝わったのか、紫沁は勢いよく立ち上がった。


「よく分かりました。私は一旦帰りますが、諦めが悪いのでまた来ます。その時までにどうぞ考え直してくださいね」


 そう吐き捨て、足音荒く去っていった。




 半時辰経って洛風が戻って来た時、彼は夜静が一人なのを見て首を傾げた。

「あれ、あいつどこ行った?」

「……帰りました。夕飯は?」

「はあ? 来るのも帰るのもいきなりだな。せっかく買ってきてやったのに」

 洛風が押しつけてきたのはいつも通り粥だった。

「粥以外って言いましたよね」

「聞こえなかった」

 雑な嘘をつく洛風を睨む。彼は自分だけ豚肉を包んだ湯圓タンユエンを買っていた。

 洛風は誤魔化すように笑うと、わざとらしく話を変えた。


「そうだ、さっきそこで知り合いに会ったんだ。誰だと思う?」

「知り合い?」

 洛風と共通の知り合いは多くない。

「王子言ですか?」

 途端に噎せ、洛風は慌てたように胸を叩いた。


「あいつに会ってたまるか。……玉燕ユーイェンだよ。訊きたいことがあるから近いうち会えないかだって」

「え?」

 予想外の名前に唖然とした。

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