九
「来ますか? ひょっとしたら夜静さんなら、
「行ったら捕まるんじゃねえの?」
「私の友人だと言えば大丈夫。それに白吟之はもう顔の見分けなんてつきませんよ」
「そっちの男は友人には見えないから、従者の振りをしてもらう方が良い。日に焼けてるし背も高いから南慶人に見えるだろう」
壁に控えていた男が初めて口を開いた。彼は洛風に外衣を投げ渡す。それは南慶風の服で、洛風は迷った末にそれを羽織った。
「景羽さん――貴方は私が白吟之を治しても構わないんですか?」
夜静の問いに景羽は目を瞬く。
「まあ、できるのならどうぞ。でも夜静さんは彼を治したいんですか?」
それには答えず、杖を握りしめる。
景羽の質問がわざとなのか偶然なのか、それは分からなかった。
四人で堂を出て母屋に向かった。広い屋敷に関わらず、使用人は少ない。母屋に入ると青ざめた婢女が景羽を見て瞠目した。
「ら、頼巫師、帰ったのでは――」
「嫌な予感がして戻ってきたんだよ。旦那様はどこかな」
「ああ――ええ――でもそちらの方は」
「こちらは私の友人だ。優秀な道士だよ。いいから案内してくれ」
命じることに慣れた口調だった。婢女は飛び上がるように姿勢を正すと、小走りで案内する。
廊下は時折桶や布を持った婢女が通るばかりで、白家の人間は見当たらなかった。景羽に問うと、彼は小さな声で答えた。
「祟りを恐れて逃げ出したんです。今この家にいるのは、逃げ場のない婢女と白吟之、奥方、それに寝たきりになった息子だけかな」
「死んだのは?」
「彼の母親、娘婿とその子ども――つまり孫が一人。娘は夫の実家に身を寄せています。他の親族は皆早々に逃げていました」
薄情ですねと呟いた景羽は、初めて酷薄な目をした。夜静は少し首を傾げる。
「ですが誰でも我が身が可愛いものでしょう」
「私なら、家族が殺されたら相手が幽鬼でも許さない」
無言で景羽を見ると、彼は灰色の目を細めて笑っていた。
正房まで特に止められることなく通されて驚く。屋敷内には兵士はいないのか訊くと、景羽が自分で追い払ったとあっさり答えた。
「病人の身体に悪いとかお前も祟られるぞとか言って追い払ったんですよ。見てると気分が悪くなるので」
私設兵は嫌いですと、彼はにこやかにそう言った。
広い寝室の奥、象眼細工の豪華な寝台があった。その中心、埋もれるように痩せ衰えた老人が寝ている。
皺だらけの顔は百歳を超えていそうなほど老けて見えたが、白吟之の実年齢はもっと若いはずだ。部屋の中には死臭に似た妙な匂いが漂い、洛風が背後で顔を背けていた。
「旦那様、私ですよ。景羽です。どこが苦しいですか」
景羽は悪臭にも表情を変えず、穏やかにそう言った。錦糸の掛布団に埋もれていた白吟之は、震える瞼を開けて枯れ木のような腕を伸ばす。
「ああ……頼巫師、これは……私は、私は……なぜ良くならない? 貴方の言う通り、祭壇に祀ってあの女の供養もしているのに……」
彼は黒ずんだ指で部屋の奥を示した。そこには南慶風の祭壇が置かれ、一番上には大きな壺が置かれている。それを見て息を飲んだ。
――一体、何を祀っている?
妾の幽鬼は今でも妾宅を彷徨っている。あの壺の中にいるのは、一体誰だ。
「今が一番苦しい時ですが、祟りを退ける為です。これを乗り越えたらすぐに良くなるでしょう」
沈鬱な声音で景羽は答える。白吟之は彼の手を握りしめ、何度も頷いた。
「貴方が言うのならそうだろう……そう……でも、一体いつまで……」
白吟之は夜静たちには気づかない。彼の目が濁っているのが見え、夜静は眉を寄せた。
景羽は妾の祟りだと言ったが、白吟之に誰かが取り憑いているようには見えない。ただ靄がかったように不定形な黒い塊が、彼の肩にべったり張りついていた。
景羽は幽鬼に詳しくないという。なら気づいていないのもおかしくないかと思ったが、ふと疑いが芽生えた。
景羽は白吟之の額に手を当て、呪言のようなものを呟いている。異国の言葉は理解できなかったが、そのうちに白吟之の顔が見る見る赤くなっていった。
「い――痛い、痛いッ――あぁああ、頼……ふ、」
景羽の袖を夢中で掴み、老人は血を吐いた。真っ赤になった顔は膨れ、異様な光景に洛風が腰の剣に手を掛ける。
景羽と従者は慣れているのか、素早く白吟之の上体を起こして喉を詰まらせないようにした。
白吟之はしばらく咳き込み、それから不意に茫然と宙を見つめた。
「頼……じ、い、吟之、だ、ん――旦那様……」
男のしわがれた声に、微かな艶めかしさが滲む。夜静は目を見開いて景羽を見た。彼は困り果てたように眉を下げ、言い訳するように言う。
「時々こうなるんです。祟りのせいでしょう」
白吟之は骨っぽい手で口元を押さえ、目を伏せた。
「なぜ……なぜ、来てくださらないのですか。私……愛されたいと望んでいません。ただ姿を見せてほしいだけなのに……苦しまないようにしてやるとおっしゃったのに」
妾の書きつけにも似たようなことが書いてあったのを思い出す。白吟之は、彼の見捨てた妾の言葉を吐いているのだ。
老いた男が女のように喋るのは、ひどく不気味だった。白吟之は宙を見つめたまま、不意に激しい口調で吐き捨てる。
「俺はもううんざりだ! なんで俺の子が死ななきゃいけない? あのクソ爺、自分の女癖の悪さに他人まで巻き込みやがって!」
憎々し気に布団を叩く。その後は一転して、老女のように呟いた。
「私は……吟之、お前は自慢の息子だよ……お前はこの国で一番の権力者だ。陛下だって、お前には頭が上がらないだろう……」
力なく俯き、弱弱しく咳き込む。
半時辰ほど、白吟之は不気味な独り芝居を続けた。落ち着いた頃に景羽は労わるように背中を撫で、彼に囁く。
「旦那様、もう大丈夫です。立ってください。祭壇に拝礼しましょう」
その言葉に、目が覚めたように白吟之は顔を上げた。彼は支えられながら立ち上がり、痩せ細った身体を引きずるようにして祭壇の前で叩頭する。
景羽はそばに立ち、励ますように繰り返し言った。
「大丈夫ですよ、旦那様。私には視えています。もうすぐ祟りは消えるでしょう。あと少しの辛抱です。ここまでやり遂げた方はいませんよ」
喘ぐように息をしながら白吟之は叩頭を繰り返す。悪かった、申し訳ないと、繰り返し謝罪しているのを聞いて唖然とした。
背後に立った洛風は、気味悪そうに眉をひそめて呟く。
「こいつが本当に白吟之? めちゃくちゃ偉い役人なんだろ?」
「……ええ」
別人のように変貌してしまった彼は、〈赤釵〉で聞いた辣腕の戸部尚書の印象とはかけ離れていた。
白吟之は再び寝台に戻ると、力尽きたように眠りに落ちる。来た時よりも顔色は良くなっているが、それでも死人のような寝顔だった。
それを見下ろしていた景羽は、ようやく顔を上げた。
「どうですか、夜静さん、彼を治せますか?」
夜静は白吟之の肩にへばりつく黒い塊と祭壇を見比べ、そして首を横に振った。
「私には無理です。こんなもの、見たことがありません」
景羽をじっと見据えると、彼はまた困ったように笑う。
「そうですか。……じゃあこの人は死ぬしかないな」
「それに貴方は、白吟之を助けたいようには見えません」
「そうですか? どちらでも構わないとは思っていますが」
彼は俯いて小さく声を立てて笑った。
「でも、分からないな。個人の執着というのは意外と根深いのかもしれない」
夜静がさらに訊こうとする前に、景羽は遮った。
「夜静さん、貴方はもう戻った方が良いですよ。師妹を放っておいてはいけない。彼女は少々無茶をしたね。祭壇に手を出されると私も困る」
「――
冷水を浴びせられたようだった。景羽は目を細める。
灰色の瞳は薄く氷が張ったように冷ややかだった。
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