七
妾の幽鬼は廊下を曲がって見えなくなった。それを見送った後で二人は素早く屋敷から抜け出した。
赤黒い痕が細く伸びる廊下の壁がまだ網膜に焼きついている。橋まで戻ると、ずっと待っていたのか
「師兄!」
冷たい手が額に押し当てられた。
「熱があります。顔色もひどい……師兄、」
何か言おうとした彼女を遮り、起こったことを説明すると、彼女は微かに青ざめた。
「もしかしてさ、白家の祟りって実際はあの妾が起こしてるんじゃないか? 祭壇があったのもあいつを鎮魂するためとか」
洛風の意見に納得しかけたが、すぐに矛盾を見つけた。
「それでは駄目です。妾は祟りで死んだんですから、あの人が死ぬ以前も祟りがあったはず。それに太歳星君だと偽る理由がありません」
「そんなの、白家が作った嘘かもしれないだろ。妾を事故か何かで死なせて、外聞が悪くならないように祟りで死んだってことにしたんじゃねえの? 太歳星君を持ちだしたのも、妾の祟りって言うより土地が悪かったって言う方がまだ悪い印象を持たれないからとか」
反論は思いつかなかった。紫沁もそうなのか、憎々しげに洛風を睨むだけで何も言わない。
「確かに……その可能性はあります。白吟之の病は別ですが」
洛風の言う通りだとすると、巫師が白吟之の病を利用して白家に入り込んだ後にまったく別の要因で祟りが始まったことになる。そんなことがあるのだろうか。
「具体的にどういう祟りがあるのか分かればいいんですが……」
白家の本邸にはさすがに入れないだろう。巫師に接触できるのが一番良いが、そう簡単にはいかないはずだ。洛風がいくら強くても、従者二人を相手に戦って巫師だけを連れてくるのは難しい。
「そういや、鶏は何だったんだろうな」
思い出したように洛風が呟く。一月に六十羽以上買うのは確かに不思議だ。すると紫沁が顔を上げた。
「鶏ですか? 確かに一日に一羽は締め殺しているみたいですが」
なぜかは分からないと言う。その一羽はおそらく祭壇に供える用の鶏だろう。
それでも六十羽は多過ぎる。残りは一体どこへ行くのか分からない。
紫沁は眉をひそめて考え込んだ。
「そういえば……同じ婢女から嫌な仕事の話を聞きました」
「嫌な?」
「ええ。鶏は絞められたあと、足だけは違う場所へ運ぶそうです。不気味だからみんなやりたがらないと」
「行先は分かりますか」
「城外まで行くそうです。その後は僧侶に預けるとか。太歳星君の祟りを抑えるのに必要らしくて」
「やっぱり寺か」
慶佳宮に行くべきかもしれない。ただ白家の所有地に行く方法はすぐには思いつかなかった。
逡巡していると紫沁が先に口を開いた。
「師兄、私がその仕事をやってみます。その寺院まで行けなくても何か分かるかもしれません」
「危険でしょう。君の仕事ではないのに……」
「構いません。師兄が洞へ戻ってくるためです」
もうすぐ使用人が目を覚ますと言って彼女は妾宅へと戻って行った。夜静は小さく息を吐く。戻らないと言っているのに紫沁の意思は固い。
「師兄、ずいぶん慕われてるんだな」
洛風が低く笑って言う。呆れてかぶりを振った。
「からかわないでください。彼女は……真面目なだけです」
「だいぶ必死に見えるけど?」
夜静に呪殺してほしい相手というのがよほど大物なのだろうと思っていたが、少しだけ、師兄として慕われているのかもしれないと考える。だがそれは自惚れだとすぐに打ち消した。
「まあでも俺のが先だからな。道長は行ってみたいところとかあるか?」
旅の話だと遅れて気づいた。洛風の方を見れないままで首を横に振る。
「……私は行きませんよ。路銀も無いし」
「金なら俺が出すって」
「いえ、それに」
もし屍仙符のことを解決できても、その頃にはもう旅ができるほどの体力が残っていないだろう。
言おうと思った言葉を呑み込み、代わりに小さく笑った。
「君に借りた金を返さないといけませんから」
予想に反して洛風は少し不機嫌そうだった。
「返す当てあるのか?」
「……無いですけど。君の言う通り護符でも売ろうかと」
その返事に洛風は口角を上げた。
「無理するなよ。道長は商売とか絶対向いてないから」
何か言い返そうと思ったが、洛風の表情に翳りがあるのが見えた。その顔が文清と被り、首を絞められたような苦しさを覚えた。
***
さらに三日後、紫沁は浮かない顔で報告した。
「駄目でした。城外に出てすぐに預けてしまうので、その寺を見ることもできません」
鶏の足を受け取ったのはごく普通の僧侶のように見えたという。
「巫師は何度か遠目に見ましたが、布で顔を隠しているので何とも……師兄、回りくどいことをせずに直接巫師を連れて来ては?」
「荒っぽいなあ」
紫沁の隣でそう言った洛風は、次の瞬間「いてぇ!」と声を上げた。
洛風の束ねた髪の先を思い切り引っ張った紫沁は、涼しい顔で言った。
「埃が付いていたので」
洛風は後頭部を撫でながら何か文句を言いかけたが、それを制して答える。
「……巫師を連れてくるのは難しいと思います。従者がいますし、彼がいなくなれば白家が探すでしょう」
「その通りですが……。名前さえ分かれば呪えるのに」
洛風は物騒な女だと呟いて、今度は足を踏まれていた。
「巫師は今、白家の本宅にいるんですよね?」
「ええ。一晩祈祷するらしいです。でも忍び込んだりできませんよ。門番も多いですし、白吟之の私設兵がいるんです」
「私設兵?」
洛風は知らなかったのか首を傾げる。有名な話ですと前置き、紫沁が説明した。
「
「深……秋市のことか? 北部から旅団が来るやつだろ」
「ええ。北を旅する商人や異民族が集まる大規模なものです。晩秋から開かれて、彼らは冬を洛佑で越します。その市を開く時に徴収される税は白吟之が搾り取るんですが、かなり法外な金額で少数の異民族は払えない。だから税を納める代わりに兵力を徴収するんです」
「白吟之個人がか? そんなの許されるのか」
「北深市を始めたのは彼ですし、深州侯は白吟之の縁者ですよ。それに兵力とはいっても市を管理するためだと称しているので陛下も許可したんです。でも、冬を越しても白吟之の元に残る者がいました。それが私設兵のようになっている、というわけです。大半が花骨族の人間で」
「花骨族って……疫病で全滅したっていう?」
「ええ。さすがに私設兵になっていた者たちも故郷に帰って、そのまま疫病で死んだそうです。だから一時より私設兵の数は減っていますが、訓練された兵たちをたった三人でどうにかできるとは思えません」
紫沁の顔色は変わらなかったが、夜静は少し俯いた。洛風は眉を寄せる。
「白吟之って偉い役人だって聞いたけど、思ったよりすごいな」
「当たり前でしょう。彼は現皇帝の一番の後見人ですよ。第八皇子が皇帝になれたのは彼の尽力もあったからです」
「人から恨まれるようなこともした?」
「……口を慎みなさい」
そうは言ったが、紫沁も不快そうだった。〈赤釵〉にいると彼の所業はより詳細に伝わってくる。夜静もあまり良い記憶は無かった。文清が死ぬ契機になった事件も、白吟之が関わっていたのだ。
「とりあえず、何か他の手段を思いつくまで私は妾宅で働きます。祭壇の正体も分かるかもしれませんし」
「それはありがたいですが……紫沁、仕事はいいんですか?」
「私の仕事は師兄を連れ帰ることです」
「……だから、帰らないと言っているのに」
だが、そこまでして殺さなければならない相手というのは誰なのだろう。気になったが、それを聞いたら取り返しがつかなくなると分かっていたから黙っていた。
紫沁は抑えた声で言った。
「何としてでも帰ってもらいます。私は師兄に死んでほしくない」
夜静は目を逸らして返事をしなかった。
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