約束の日になり、夜静イェジン洛風ルオフォンは妾宅に向かって歩いていた。


 日は暮れたが、洛佑らくゆうはまだ人々が往来を歩いている。ただの待ち合わせのように橋で紫沁ズーチンを待った。

「俺だけで行くって言ってるのに」

「紫沁は君だけじゃ家に入れませんよ。大体、もう痛くないと言ったでしょう」

 左腕は晒しを巻いて痣が人目に触れないようにした。洛風は宿にいろとしつこく言ってきたが、本当にもう痛くない。ただ痣になった箇所は感覚が消えていた。


「道長のそれ、普通の病気じゃないよな。呪いみたいだ」

「よく分かりましたね。似たようなものです」

「なら呪詛返しってやつ、できないの?」

「できません。これ自体呪詛返しみたいなものですから」

 洛風はまだ何か言いたげだったが、橋をふらふらと渡ってくる少女を見つけて口を閉じた。


「紫沁――何かされたんですか?」

 紫沁は疲労の色が濃く、たった数日で何歳か年老いたように見える。彼女は傷だらけの手を隠すように握りしめると、背筋を伸ばして夜静を見た。

「私は大丈夫です。今、屋敷にいる皆さんは眠っています。半時辰ほどはそこの破落戸が大声で騒いだって誰も起きません。巫師は一時辰前に白家に向かいました。明日までは帰ってこないそうです」

「そうですか。巫師には会えました?」

「いえ。屋敷の奥にいて婢女は見ることすらできません。護衛を眠らせようかと思いましたけど、妙な結界みたいなものがあって……」

 悔しそうに顔をしかめている。異国の巫術ならば馴染みが無くて当然だ。夜静は一つ頷いて紫沁の肩に手を置いた。

「ありがとうございます。君は外で待っていてください。一時辰経っても戻って来なかったら逃げてくださいね」

 無言で睨まれた。でも助けてくれとは言えない。これ以上紫沁を巻き込むのは本意では無かった。


 二人が屋敷に向かおうとすると、紫沁は最後に言った。

「師兄、どうか気をつけてください。婢女が家に食われるというのは嘘ですが、何かいるのは確かだと思います。それに……」

 彼女は躊躇うように目を伏せる。

「……あの屋敷が建つ土地の地中にがあるそうです。白家の祟りは――太歳星君たいさいせいくんのせいだと」


 ***


「太歳星君は祟り神です。地中を動く肉の塊で、家を建てる際はこれを犯してはならない。犯せば一族滅亡すると聞いたこともあります」

「そいつが原因? 白吟之の病気はあの阿呆な道士のせいじゃなかったのか?」

「王子言のせいですよ。一年前に家を建てたのに、白吟之が病に罹ったのは半年以内のはず。太歳星君の祟りなら半年以上も無事なのはおかしいです。そんなに生易しい神じゃない」

「じゃあやっぱり嘘か」

「ですが、今でも祟りが起こっているようなのが気になります。太歳星君のせいではないと思いますが、他に何か原因がある」


 廊下を歩きながら話す。薄暗い廊下には時折死んだように眠っている使用人たちが横たわっている。そのせいだけでなく、屋敷には陰鬱な空気が満ちていた。

 廊下から拝借した燭台で辺りを照らす。広い屋敷だが使用人の数も少なく閑散としていた。床や柱は新しいはずなのに、どこか黒ずんで見える。

 何年も開けなかった蔵のような埃臭い空気が漂い、燭台の火が揺れるたびに伸び縮みする影に落ち着かない気分にさせられた。


「でも変な雰囲気の家だな……」

 洛風は壁を睨んだ。何か爪で抉ったような痕が残っている。黒い汚れは血の染みのようで、何度も何度も引っ掻いたように見えた。猫かと思ったが位置が高すぎる。

「洛風、燭台を貸してください」

「落とすなよ」

 一言多いと思いながら爪痕をなぞる。それは屋敷の奥へと長く伸びていた。

 

 誰かが壁に爪を立てながら屋敷を歩き回る姿を想像する。その人は爪が剥がれても血が流れても足を止めない。血は乾いて黒い染みとなり、壁に痕だけが残る。

 何重にも引っ掻かれているから、きっと何周もしたはずだ。それでも屋敷から出なかったのはなぜだろう。あるいは出られなかったのか。


 指先についた埃を払い、屋敷の奥に目を向けた。

「少し……危険かもしれません。護符を……」

 懐を探ったがもう紙が無かった。烏南で使い切ってしまったのだ。

「洛風、紙を持ってませんか」

 洛風はごそごそ懐を探り始める。その拍子に何かが床に落ちた。咄嗟に拾い上げると、それは黄ばんだ紙片だった。

 擦り切れて破れたそれはずいぶん古い。何か書いてあったがまったく読み取れなかった。


「これ、使っても……」

 洛風を見ると、彼は珍しく焦ったように目を揺らした。

 紙片に目を落とす。ただの古い紙切れに見えたが、どこか馴染みがあるようにも思える。どこに見覚えがあるのか思い当たる前に洛風が紙切れを奪い取った。

「これは――駄目だ」

 ひどく焦ったように紙片を仕舞いこむ。呆気に取られて彼をまじまじと見つめた。


「そんなに大事なものだったんですか?」

「いや……うん、別に」

「どっちですか」

「なんでもない。ごめん、持ってない」

 持っていたのにという反論は呑み込んだ。仕方なく左腕の晒しを引き裂いて護符を二枚作る。洛風に一枚押しつけ、二人は屋敷の奥に向かった。



 屋敷の奥、北に位置する正房に辿り着き二人は足を止めた。

 廊下の壁に何重にもつけられた爪痕は正房に集まっていた。いや集まっていたというよりここから広がっていると言うべきなのかもしれない。壁にも床にも縦横に傷が残り、天井にまで黒い飛沫の痕が付いていた。


 無残な部屋の中には奇妙な祭壇がある。息の詰まるような薫香に夜静は眉をひそめた。

 鼎に立てられた線香の煙のせいで目が染みる。祭壇の一番上には呪符で封じられた壺が置かれ、その前には供物のように何かの生肉が置かれていた。


 部屋の中は暗い。夜静は燭台を持つと無遠慮に祭壇に近づいた。

「道長、その壺に触るなよ。何か分からないんだぞ」

「そんなこと――しませんよ。よく見えないだけです」

 釘を刺されて夜静は伸ばした手を引っ込めた。目を凝らして壺を見たが、封じられているということ以外分からない。ただひどく禍々しい気配がした。


「臭いな。なんの香だよこれ」

 文句を言いながら洛風が背中越しに覗き込んでくる。生肉を見て彼は怪訝そうに呟いた。

「鶏肉?」

「そうなんですか?」

「羽根が落ちてる」

「あ……なるほど」

 祭壇の周囲には何本か鶏の羽根が落ちている。どう見ても壺に供えられたものだが、太歳星君に鶏肉を供える風習などあっただろうか。

 生臭さが鼻をつき、堪らず身を引いた。



「この部屋は祭壇しかないみたいですね。他の部屋も一応調べましょう」

「もう帰った方がいいんじゃないか? 妙な神に関わってもいいことないだろ」

「駄目です。巫師の素性を知りたいので。君は帰っても構いませんが」

 素っ気ない言葉に洛風は苦笑した。

「分かったよ。でも一人で勝手に動くなよ」

 烏南で懲りていたから素直に頷く。正房には巫師の私物などは無いようで、二人は目についた部屋から探していった。


「その――たい……何とかって神は鶏肉が好きなのか?」

 棚を漁りながら洛風は問う。

「いいえ……分かりません。もしかしたら南慶の巫術なのかもしれません。あの祭壇も見たことが無いですし……」

 太歳星君の祟りだというのはおそらく嘘だ。この家を建てた時期と白吟之が病に罹った時期はずれている。ならばあの正房の様子は何なのだろう。馴染みの無いものだが、壺を封じた呪符も祭壇の造りもしっかりしたものだ。壺の中には一体何が入っているのだろう。


「道長、これ見てくれ」


 洛風の声に我に返った。彼は棚の上から本を三冊取っていた。

「ただの本に見えますが……」

「取りにくい場所にあるのに埃が積もってないし、頁の色が違う部分がある。ほら」

 黄ばんだ頁をめくると、何枚か真新しい白い紙が落ちてきた。洛風の目の良さに驚きながらそれを拾う。


「これ……土地の権利書と……注文書ですね」

 頼りない蝋燭の火で字を追う。土地は洛佑の城外にある古い寺院を中心にした一帯で、注文書の品目はほとんどが鶏だった。

「卵でも売ってんのか」

 冗談のような口調と裏腹に洛風は強張った表情をしていた。


「これは……すごいですね。一月に六十羽以上……あとは木材と石を頼んでます」

「また家を建てるのか? でも運ばれた先はここでも白家でもないみたいだな」

「この土地かもしれませんね。慶佳けいか宮……」

「聞いたことねえな」

「南慶系の寺院です。もう廃れましたが。前皇帝の御世に建てられて、戦争の後には忘れられました」

「そこを買ったのか? 名義は白吟之だけど」

「巫師の指示かもしれないですね」

 南慶の巫師が南慶の寺院を買う。何か理由があるのか、あるいはただの感傷か。


 全ての紙に目を通してから元通り本に挟む。そろそろ帰ろうとした時、背後、閉まっている戸から微かな音がした。



 かり、かり、と単調な音が響く。力なく繰り返されるその音はゆっくりと横に移動していく。


 洛風が剣の柄に手を掛ける。それを止め、夜静はそっと戸を押し開けて隙間から覗いた。

 薄闇に呑まれた廊下を女が歩いている。元は綺麗に結われていたはずの髪は乱れ、長い裾を引きずって少しずつ進んでいた。鉤のように曲がった指先で壁を引っ掻き、その度に床に黒い血が落ちた。


 その女は、祟りで死んだという白吟之の妾だった。

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