バイ家は皇城の近く、貴族や官僚の邸宅が連なる場所に位置している。妾宅というのはそれより少し南だが、それでも十分に立派な家だった。

 橋の向こう、門の奥にある家は屋根が少し見えるだけだ。かなり大きいが人気はあまり無い。


 紫沁ズーチンは自分の花子ものごいのような恰好を見下ろした。

「こんな恰好で本当に雇ってくれるんですか」

「むしろそっちの方がいい。あそこの婢女は家にって噂になってるんだ。そんなところに普通の女は働きに行きたいなんて思わないからな」

「でも、南慶の巫師が住んでいるんですよね。彼の世話も婢女がやるんでしょうか」

「いや、巫師には南慶から専属の従者がいるらしい。で、三日に一度、使いが来て巫師と従者だけ白家の方へ出かけるそうだ」


 洛風ルオフォンの言葉に紫沁は強張った顔で頷いた。

「その時に師兄たちを家に入れればいいのでしょう。できますよ、それくらい」

「だけど、巫師の従者たちってのは鬼みたいな怖い大男らしいぞ。大丈夫か?」

 からかうような言葉に紫沁はますます表情を硬くした。

「関係ありません。一瞬で気絶させられますから」

「紫沁、入れるのが難しそうでも三日に一度の日には一旦外に出てきてください。君の安否も大事ですから」

「分かりました。大丈夫です、夜師兄。お任せください」

 少しだけ目元を和らげ、紫沁は躊躇いなく家に向かっていった。その背中を見送りながら、洛風はぼやく。


「本当に大丈夫か? 襲われたらあっさりやられそうだけど」

「それは――大丈夫でしょう。紫沁は優秀です」

 結局紫沁は自分の主張を譲らず、夜静が止めても聞かなかった。

 呪殺の経験は浅いが、彼女は道士として優秀だ。ただ婢女としてちゃんと働けるのかが心配だった。誰に似てしまったのか、彼女は料理も掃除も全くできない。本人は真面目だからやろうとするのだが、いつも周囲に止められていた。


 巫師は基本的に一人にならない。だからまずは周りから探って情報を集めることにしたが、紫沁を利用してしまうことに罪悪感を覚えた。


 不安で紫沁の後ろ姿を見つめる。裏手の門に回ってからは見えなくなったがそれでも立ち去れずにいると、洛風が笑いながら言った。

「とりあえず三日後まで待とう。食われるなんてただの噂だし、白家の評判を落とそうとした誰かのでたらめだ。そんなに心配なら俺が巫師を直接捕まえて訊けば良い」

「荒事にはしたくないので」

「なんで俺が捕まえると荒事になるんだよ」

「烏南でやったことを忘れたんですか」

「殴っただけだ」


 それが荒事だろうと思うが、洛風の中では違うらしい。釈然としないように首を傾げる彼を見て少し呆れた。


 ***


 二人は一旦宿に帰った。本当はもう少し白家のことを調べたかったのだが、洛風が宿に帰ると言って譲らなかったのだ。

「道長は寝とけ。動きすぎだ」

「まだ大丈夫ですよ」

 容赦なく寝台に追いやられながら、夜静は彼を見上げた。真っ直ぐな目が見え、気まずくなって顔を伏せる。

「あの……君は気にならないんですか」

「何が?」

「……」


 紫沁と夜静はどういう関係なのか。彼女が夜静をどこへ連れ帰ろうとしているのか。

 疑問は多いはずなのに夜静の目的すら訊かずに協力するのは、都合は良くても怪しいとしか言えない。

 はっきり言えば、洛風を疑っていた。信用させて屍仙符の使い方を聞き出すという考えが頭をちらついて離れない。あの妙な男が言っていた「親しい相手」というのは、洛風のことではないか。



 夜静の逡巡に何か察したのか、洛風は苦笑いして目を伏せた。

「意外と難しいよな、他人を信じるのって。俺も無理だ」

「なら帰ればいい。私が言えば帰るって言いましたよね」

 はっきり言おうと思ったのに、声に力は無い。はっとして口を閉じると、洛風は珍しく困惑混じりにこちらを見た。


「冗談だって言っただろ。大体、帰る場所とか無いんだ。孤児だし」

「君ならどこでも上手くやれると思いますが」

「……道長、怒ってるのか?」

「はい?」

 その言葉に苛立ちを覚え、同時に気づいた。自分は怒っているのかもしれない。ただそれは、あまり認めたくないことだった。


「――怒ってません。言い方は悪かったです。すみません」

「あのなあ……」

 明らかに機嫌が悪い夜静を見て洛風は頭を掻く。その態度がますます癇に障って、夜静は杖の先で洛風の肩を押しやった。


「言う通り寝ますから、君は外で遊べばいい。もちろん帰ってもいいですよ」

 洛風は杖の先を軽く逸らした。

「道長、自分の顔色分かってるか? 真っ白だぞ。病人放っといて遊べないだろ」

「元々です」

「心配してるだけだよ。冗談言って悪かったから――」

「別に気にしてません」


 洛風は口元を引き攣らせて笑う。

「どうして怒ってるんだよ。言ってくれないと分からないだろ。謝るから」

「だから、怒ってませんから」

「すげえ嘘つくな……」


 洛風が帰ると言った冗談が腹立たしいわけではない。それを聞いて自分が動揺したことに腹が立った。

 気づかないうちに彼がいることが当たり前になっているのが、まるで自分らしくない。それが不安で堪らなかった。他人はすぐにいなくなるのが洞では当然のことで、それを飲み込めない人間は脱走して殺される。

 そうだったはずなのに、知らないうちにそう思えなくなっていた。


 夜静が黙っていると洛風もさすがに苛立ったのか、僅かに顔をしかめる。

「別に信用しろとは言わないけど、不満があるなら言えばいいだろ。気が向いたら直すから」


 その言葉にふと力が抜け、夜静はため息をついた。

「……そこは、ちゃんと直してください」

「やだよ。他人から俺のことをとやかく言われたくない。めちゃくちゃ譲歩してるぞ、これは」

 胸を張って言うことではないだろうと思うが、夜静はその答えに安堵した。


「……君は強いですね」

「え? まあ、道長よりは丈夫だけど」

 苦笑してかぶりを振った。俯いたまま小さく答える。

「――そもそも君に怒っているわけじゃないです。自分が不甲斐ないだけで……君を信じられないし、なのに頼りすぎている自覚はあります」

「はっきり信用してないって言われるとちょっとこたえるな」

 それが本心なのかは分からなかった。洛風は考えるように顎を撫でる。


「事情があるんだろうなっていうのは柳州で会った時から分かってたし、俺は道長が何してようが別に構わない。だから面倒ごとが片付くまで俺を利用だけすればいい。金は要るだろ?」

 夜静は呆れて目を細めた。

「私は前世で君の親だったんですか?」

「それはなかなか大変そうだな」

「呪殺されたいんですか」

「冗談だよ。まあ、似たようなもんだ。聞きたいか?」


 不意打ちに目を見張る。それはたぶん、なぜ洛風が助けてくれるのかという問いの答えだ。

 答えられないまま洛風を見上げる。しばらく経って、洛風が目を逸らした。

「やっぱりいいや」

 ずっと前の話だから、と呟いたように聞こえた。聞き返そうとしたが、遮るように洛風は言う。



「でもさ、道長は帰る場所があるんだろ? 帰らないのか?」

「……帰れませんから」

「じゃあ、帰りたいか?」

 洛風の問いにどこか抉られたような心地がした。

「どう……でしょう。分かりません」


 碧華洞は十数年暮らした場所だ。思い入れが無いと言えば嘘になる。夜静の人生のほとんどが、〈赤釵〉の為だけに在ったからだ。

 でももう、あそこは居心地の良い場所ではなくなっていた。


「じゃあさ」

 洛風の声で、引き上げられるように物思いから覚めた。

「道長がその不始末ってやつを片付けたら、また柳州に行ってみよう。他の場所でもいいけど、あそこの酒は美味いし。道長も飲みたかったんだろ」

「――え?」

 唖然として彼を見上げると、洛風は快活に笑った。

「帰らないんならちょうどいい。もっと色んなところに行こう。東の璃林も観光地だし、いっそ違う国に行ってみるのも良いな」


 何も言えずにいると、洛風は僅かに顔を曇らせた。

「嫌か? なら別にいいけど」

「……それは、私と君が行く、のですか」

「他に誰がいるんだ? 紫沁か? あいつ俺のこと嫌ってるから来ないと思うけど」

「……いえ……」


 言葉を探したが、どう返せばいいのか分からなかった。自分が今どう思っているのかすら分からない。

 結局、掠れた声で呟いた。

「それは――私は路銀を出しませんよ」

「いいよ。俺が誘ったんだし」

 屈託なくそう言う洛風に居た堪れなくなる。何か違う話題を探そうと必死に考えていると、不意に洛風が低い声で言った。



「道長、それ――どうしたんだ」

「え?」


 我に返る。強張った洛風の顔が見えた。彼は夜静の左腕を指す。

 袖から覗く細い手首、そこに蛇のように黒い痕が巻きついている。慌てて袖をまくると、白い腕、そこに斑にどす黒い痣が浮かんでいた。

「……ああ」

 自嘲するように小さく笑う。


 今さら骨を食むような痛みが響いてきた。左腕は熱くて堪らないのに、頭の芯は冷えきって寒い。血が逆流しているような酩酊と激痛に感覚を失う。

 気が遠くなり、ゆっくりと寝台に倒れ込む。洛風が何か言っていたが、眠くて堪らない。何も、聞こえない。


 強引に現実へと引き戻されたようだった。醜く変貌した左腕を投げ出したまま、ぼんやりと考える。

 この壊疽は罪の証で、この痛みは夜静への罰だ。碧華洞から出たところで、もう普通に暮らせない。普通に旅をするなんて、できるわけがないのに。


 そのことに安堵し、ほんの少しだけ落胆した。

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