四
「師兄、この男は何なんです」
「……うーん」
何なのだと訊かれても名前くらいしか知らない。洛風を横目で見ると、彼は心外そうに眉を上げた。
「道長の友達だけど」
その言葉に紫沁は殴られたような顔をした。洛風はにやにや笑って続ける。
「一緒に殺人村から逃げ出した仲だ。な?」
完全にふざけている。
「と、とも――いえ、さ、殺人? 殺人村ってなんですか!」
「……落ち着きなさい。洛風の冗談です」
「師兄――」
紫沁は微かに唇を震わせ、きつく洛風を睨みつけた。
「ただの破落戸が師兄に近づかないでください。もうお前には関係無いのです、夜師兄は私と一緒に帰りますから」
腕を取られ、容赦なく引っ張られる。洛風の表情が僅かに強張るのを見て、夜静は慌てて首を横に振った。
「あの、紫沁、私の答えは昨日と同じです。もうあそこには帰りません」
「な――」
紫沁は愕然として自分の師兄を見た。夜静の腕を掴む手が震えているのが分かり、少し後ろめたく思う。
「ごめんなさい、紫沁。でも私は同胞を殺してまであそこから抜けました。今さら戻れない」
洛風に聞こえないよう、彼女の耳元で囁く。紫沁は身体を強張らせ、声を押し殺して呟いた。
「でも……最後の機会なのに……」
これを断れば二度と洞に戻ることなどできない。紫沁たちに会っても今度は会った瞬間に殺されるだろう。
「夜師兄、よく考えてください。貴方だってすぐ死にたいわけではないでしょう。それに――それに、私も、洞主も、皆、師兄に帰ってきて欲しいんです」
夜静は小さく笑みを浮かべる。二十七人も殺した。中には夜静に対して恨みを抱く道士もいるだろう。でも紫沁の帰ってきて欲しいという言葉は嘘ではないと思えた。
そっと、腕を掴む手を外す。紫沁の瞳は頼りなく揺れ、夜静の胸元辺りを彷徨っていた。
「洞主に申し訳ないと伝えてください。私を殺す気ならそれでも結構です。でも、私は外で片付けないといけないことがあるので」
「片付ける……?」
「ええ。少し――不始末があって」
紫沁は時間が止まったように静止している。黙って眺めていた洛風は、夜静に向かって笑いかけた。
「話、終わった? じゃあ帰ろう。
「ええ。別宅の場所は分かりますか?」
「ちゃんと昨日訊いてある」
そのまま帰ろうとしたが、不意に紫沁がガタリと立ち上がった。彼女は夜静と洛風を睨みつける。
「よく分かりませんが、その不始末とやらが解決すれば大師兄は帰ってくるんですね」
一瞬彼女が何を言いたいのか分からなかった。夜静は呆気に取られて目を瞬く。
「……えっと」
「白家の別宅を調べたいなら、私ができます。あそこでは婢女を頻繁に入れ替えるので、私なら入れる。そこの大男では無理でしょう。女には見えませんし」
洛風は指差されて微妙な顔をする。
「何がしたいのか知りませんが、夜師兄が帰ると言うまで私も帰りません。その破落戸より私の方が役に立ちますよ。どうですか」
どうですかと言われても困る。予想外の言葉に夜静は絶句して二人を見比べた。紫沁は洛風に近づくと、腕を組んで彼を傲然と見上げた。
「何が目的で夜師兄に近づいたのか知りませんが、もう家に帰って結構ですよ」
洛風は引き攣った笑みを浮かべると、夜静に向かって囁いた。
「道長に似てるな」
「わ……私ってこんな感じですか?」
「無茶なところがな。どうする? 道長が帰れって言うなら帰るけど」
「え――」
目を見開いて洛風を見返す。彼は真意の分からない顔で微かに笑っていた。
上手く声が出ない。なら帰ってくださいと、そう言いたいのに言葉が詰まる。居た堪れなくなって何度も杖を握り直した。
ふと、洛風は困ったように眉を下げた。半笑いで夜静から目を逸らす。
「――冗談だよ。なんだっけ、ああ、紫沁? あのな、用済みだからって帰るわけにはいかないんだよ。俺、金貸してるから」
紫沁は虚を突かれたように目を瞬いた。
「……誰が誰にですか?」
「俺が、道長に」
「逆じゃなく?」
「失礼だな。お前のとこの大師兄は金使いも人使いも荒いぞ」
ようやく我に返り、気まずさを誤魔化すように咳払いした。
「君の言葉の方が失礼ですよ」
「事実だろ」
あっさり言い返され、反論できない。紫沁に信じられないというような目で見つめられ、また咳払いで誤魔化した。
***
「紫沁、いい加減機嫌を直してください……」
隙があれば逃げるとでも思っているのか、紫沁は夜静の左腕を掴んでいた。歩きにくいから放してほしいのだが、そんなことを言えばさらに機嫌を損ねそうだ。
酒楼で騒ぐわけにもいかず、三人は大通りを歩いていた。洛風は少し先で、屋台を覗いたり大道芸を披露している芸人に拍手したりと気ままに歩いている。紫沁はその背中を見つめて問う。
「あの男、どこで知り合ったんです?」
「柳州で……助けてくれたんです。路銀が無くなって……」
徐々に声が小さくなる。何か言いたげだったが、紫沁は路銀が無くなったことには触れずにいてくれた。
「怪しいと思いませんか。見ず知らずの人間に気前よく金を貸すなんて。夜師兄が〈赤釵〉でやっていたこと、あの男は知らないんですか」
「言ってませんし、信じるとも思えないです。私はただ人探しをしているとだけ」
「私にも詳しいことは教えてくださらないんですか?」
「……ごめんなさい」
ため息をつき、紫沁は頬にかかる髪を弄ぶ。
「師兄は変わりましたね」
「――そうですか? 確かに見た目は変わりましたけど……」
「違います。以前なら他人をあんなに近づけたりしませんでした。私にも洞主にも壁があった。近くにいたのはあの腰抜けだけで」
一瞬沈黙が落ちる。紫沁は決して夜静とは目を合わせずに呟いた。
「それでも、私にとって夜師兄は兄なんです」
足が止まった。紫沁は数歩進み夜静の左腕から手を離す。彼女は振り返り、淡々と続けた。
「覚えていないのでしょうけど、私が洞へ入った時、師兄は兄のようなものだから頼って良いと、貴方はそうおっしゃった」
そんなことがあっただろうか。
覚えているのは洞に入ってすぐの頃、紫沁が周囲を凍るような目で睨みつけ、一言も話さずにいた姿だ。洞主も他の道士も困って、彼女の教育はその頃まだ若い方だった夜静に押しつけられた。
他人と関わるのが面倒であまり後輩を教育しなかったから、夜静から直接教えられたのは紫沁と文清くらいだろう。そもそも処罰担当だった夜静は敬遠されていた。
紫沁は他人と話せるようになって違う師姐の元に引き取られたから、そんな昔のことを未だに覚えているとは思わなかった。
「それは……まあ、当たり前のことです。他の師兄だってそう言う」
迷った末にそう言うと、切り込むように彼女は睨む。
「でも、私にそう言ってくれたのは貴方だけでした。周りが怖くて仕方なかった私と一緒にいてくれたのは夜師兄です」
「……」
優しくした記憶は無かった。ただ黙っていただけだ。時々思い出したように道術の基礎を教えた。相手が無反応でも、面倒が無くて助かるとしか思っていなかった気がする。
「紫沁、それは――昔のことだからそう思えるだけで、私は……とにかく、私を兄だと言わないでください」
どうしても文清を思い出してしまう。
紫沁は何か言いたげに目を細めたが、結局俯いて黙った。彼女を傷つけたことは分かったが、なんと言えばいいのかどうしても分からなかった。
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