三
「中に入っては駄目です。声も上げないでください。今の貴方なら簪一本で殺せそうですから」
師妹とは思えない
紫沁は碧華洞の道士だ。道士が直接追ってくるのは本来ならありえないことだが、理由を探ろうとしても頭が回らない。
「……それにしても、なぜこんなに身体が悪くなっているのです? あの男にやられたのですか」
紫沁はちらりと部屋の中、
「まさか。碧華洞から出たからです。代償が跳ね返ってくるのは君も知っているでしょう」
「でも、洞主の見立てでは――」
「洞から出る際に同胞を殺しました。だからです。君はその断罪に来たのですか」
彼女の言葉を遮るように言うと、紫沁は微かに眉をひそめた。
「断罪は私の役目ではありません。師兄、端的に言います。碧華洞に戻ってきてください」
「――え?」
それは全く予想外の言葉だった。紫沁を見ると、彼女は黒々とした瞳でこちらを見返す。
「脱走した者は……殺すのが洞の掟でしょう。戻るなんて前例が無い」
狼狽が声に滲む。紫沁はやや表情を緩めた。
「特別です。師兄、貴方に殺してほしい人間がいます。その人を殺してくれれば、洞主は同胞殺しも不問に付すと言っています。ですから」
「――信じられません。他に道士はたくさんいるのに」
「皆失敗しました。もう夜師兄しかいません」
「相手は道士ですか。なら普通の刺客を送ればいい」
紫沁は初めて躊躇うように口籠ると、首を横に振った。
「いえ。でもどうしても自然死にしたいと」
経験上、「どうしても」自然死に見せたいという場合は危険な事案が多い。顔が強張りそうになり、どうにか抑えた。
「私はもう無理です。こんな身体ですから」
「洞に行けばある程度治せます。それに、その身体で外にいれば一年も生きられません。戻ってくるのが貴方にとっても一番良いはずです。私と一緒に帰りましょう」
冷ややかな紫沁の目に僅かな感情が浮かぶ。それがどういうものなのかも分からず、夜静はただ拒絶した。
「無理です。私は……もう洞には戻りません。呪殺もしない」
紫沁は一瞬言葉を失った。微かに目を見張り、そして取り繕うように真顔に戻る。
「なぜです? 大師兄、同胞は殺せても罪人は殺せませんか」
その言葉は的確に突き刺さった。何も反論を思いつかず、何を言う気も起きない。絶句した夜静を見て、紫沁は明らかに気分を害したように唇を歪めた。
「なぜか教えてください。貴方も私たちを人殺しだと言うのですか?」
「……いえ、ただ私は……」
光を失った右目を押さえる。
「よく……分からなくなって」
答えはどこにも無かった。突然消えてしまった。自分の殺してきた人数を数えて、彼らがどうして殺されたのか、どうやって死んだのか思い出して、その度に混乱した。殺すべきだと思ってそうしたはずなのに、そう思っていた自分が遠かった。
紫沁は小さく息を吐いた。彼女は忌々しげに呟く。
「貴方は文清のように腰抜けではないでしょう」
彼女と文清はほとんど同じ時期に〈赤釵〉に入ったが、親しいとは言えなかったと思う。文清が紫沁から厳しいことを言われて落ち込んでいるのが常だった。腰抜けという呼び方に、この状況にも関わらず懐かしいと思ってしまう。
紫沁は小声で、でも目には激情を湛えて夜静を見上げて言った。
「今さら――罪悪感でも覚えたんですか? 昔、言ったじゃないですか、私たちは悪くないと。私たちのおかげで助かる人もいるんだと。私は、師兄がそう言ったから――」
腰に当てられた簪がさらに食い込む。ちくりと痛みが走ったが、夜静はただ紫沁を見つめていた。彼女は目を逸らし嫌悪の表情で吐き捨てる。
「今になって……本当に遅いです。貴方が私たちを否定するなら、私は貴方を殺します。それでも帰ってきてくれないのですか?」
「否定しているわけでは……ないです。でも、もう帰れません」
「大師兄、他に貴方が帰る場所なんて無いですよ。よくお分かりでしょう。外にいたって死ぬだけなのに」
夜静はただ黙っていた。珍しく興奮したようだった紫沁は、しばらく唇を引き結び目を閉じる。ややあって彼女は落ち着きを取り戻した。
「――いいです。少しだけ待ちます。明日の昼、錦華楼という店に来てください。そこで答えを聞きます」
「逃げたら?」
「逃げようとしたら宿まで行きます。見張りは用意しているので」
淡々と答え、紫沁は薄く微笑んだ。
「だから一人で来てくださいね」
彼女はそれだけ言うと、ふわりと高欄の上に立った。
風で裾がたなびく。長い黒髪が視界を横切り、透けるような白い素足が見えた。そのまま躊躇いもなく彼女は飛び下りた。
思わず下を見る。色鮮やかな雑踏に紛れ、紫沁の姿はもう無かった。
***
二日酔いで寝ている洛風を宿に置き去りにし、夜静は錦華楼に行った。そこは酒楼で、昼間から大勢の人で賑わっている。店内を覗くと、端の方の席にいた紫沁が立ち上がるのが見えた。
「夜師兄、改めてお久しぶりです」
礼儀正しく頭を下げられ、夜静は少し笑う。洛風の礼儀の欠片も無い態度に慣れてしまったからか、どこか違和感を覚えた。
紫沁は先に酒と料理を頼んでいたようで、どれも夜静の好物だった。それを見て夜静は躊躇いがちに口を開いた。
「……紫沁、私は今、一銭も持ってない……です」
正確にはずっと一銭も持っていない。
「大丈夫です、私が払いますから。そういえば洞主は夜師兄のことをとても心配していましたよ。途中で路銀が無くなるんじゃないかって。大袈裟ですよね」
夜静が洞から持ち出したのは、普通の人が三年ほど楽に暮らせるような大金だ。まさかすぐに使い切ったなどとは言えずに夜静は曖昧に笑う。
夜静が逃げずに来たからか、紫沁は昨日よりいくぶん機嫌が良かった。彼女が本題に入る前に確認しておこうと、夜静は料理には口をつけずに問う。
「紫沁、私は逃げる時にかなり……仲間を殺しましたが、彼らの遺体は?」
遺体の確認とそれを遺族に送る段取りは紫沁が仕切っていた。彼女は形の良い目を伏せる。
「呪詛返しに遭ったと遺族には説明しました。全員無事に故郷に帰っています」
「……妙なことを訊くけど、二十七人全員、ちゃんと死んでいましたか」
紫沁は怪訝な顔で頷いた。
「ええ、もちろん。夜師兄に呪詛返しができるのは洞主くらいでしょう」
「そうですか……。では、〈赤釵〉で江南生まれなのは誰か分かりますか」
なんでそんなことをと言いたげだったが、紫沁は素直に答えた。
「死んだ李条と劉師兄、三娘と雪師姐はそうです。あと私も。他の方は出身を言わない人も多いので分かりませんが……洞主も南の方だとおっしゃっていました。そういえばあの腰抜けもですね」
紫沁の答えは夜静の知っていることと大体同じだった。まさか洞主が、とちらりと考える。彼は屍仙符のことを知らないはずだが、誰かに聞いていたのかもしれない。それに、洞主に言われれば代わりに盗みを働く人間もいるだろう。
「何か気になることでもあるんですか?」
「いえ……君には関係無いです。ありがとう」
酒の盃を取ったが、飲む気になれなかった。紫沁が嘘をついているのだろうかと思うが、ならば彼女も屍仙符のことを知っているはずだ。だが、洞主はともかく紫沁に知る機会があっただろうか。
考えていたが、紫沁が箸を置いた音で我に返った。
「大師兄、昨日の返事を聞かせてください。私と一緒に洞へ帰りませんか」
真っ直ぐに見つめられる。指先が微かに震えるのが分かり、きつく拳を握った。
「……私は」
声が掠れる。
一晩、ずっと考えた。紫沁の言う通り、帰る場所などもうどこにも無い。洞に戻れば一年と言わずもっと長く生きられるだろう。今までと同じように、ただ言われるままに人を呪い殺せばいいだけだ。
それはよく分かっていた。このまま外にいても死ぬだけで、何の意味も無いと。
言葉を続けようとした時、何の気配も無くいきなり肩を叩かれた。
「帰るって何? 道長、どっか行くの?」
驚いて振り返る。紫沁も目を見張り、弾けるように立ち上がった。
「な――夜師兄、一人で来てと言いましたよね!」
背後、宿に置いてきたはずの洛風がこちらを見下ろしていた。
唖然として何も言えない。彼は口元に笑みを浮かべていたが、どこか凶悪な目つきをしていた。
洛風は鼻を鳴らして笑うと、紫沁に目を向けた。
「変な態度だったから後を追いかけただけだ。行くなって言ってもどうせ聞かないだろうし」
「洛風――君――寝てたのに」
「道長がつまずきながら出てくから嫌でも目が覚めるんだよ」
紫沁は今にも気絶しそうなほど真っ青になっている。洛風は空いている椅子を引っ張ってきてそばに座ると、図々しい笑みを浮かべた。
「道長の師妹? なんでもいいや。俺にも話聞かせてよ」
いいよな、という言葉は脅しだった。
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