二
鳥の嘴を象った酒瓶から注がれる蜜酒の琥珀色を見つめながら、夜静は隣で機嫌良く妓女と話している洛風を小突く。
「なんですかこれ」
「妓楼。来たことないの?」
「ありますよ」
師兄が酒と女に狂ったある官吏を呪殺した時、妓楼で血反吐を吐いて悶死したところを確認に行かされたのだ。あまり思い出したくない。
「へえ、道長も遊ぶんだ」
意外そうに洛風は呟く。遊んだとは言えないが夜静は訂正しなかった。
「で、なんで妓楼に来たんですか」
「え?
洛風が遊びたいだけじゃないかという反論は呑み込んだ。夜静のそばに侍る妓女は艶然と微笑んで盃を差し出してくる。
「お兄さん、飲まないの?」
「あ、道長は酒飲めないんだっけ?」
そういえば柳州でそんな嘘をついた。結局柳州の酒を飲めていないと思い出し、夜静は腹立ちまぎれに盃を受け取った。
「飲めますよ。いただきます」
蜜酒は高級品だ。香りが高く甘みが舌に残る。一息に呑み干すと、隣にいた妓女は目を細めて柔らかな声で言った。
「道士の方なの? じゃあ占いとかできる?」
「えー……と」
洛風を横目で見たが、彼は別の妓女と喋っている。話が上手く見目の良い洛風は妓女に好かれるのだろう。洛風が何か言うと妓女たちは鈴を転がすような笑い声を上げた。
仕方なく盃を置き、夜静は妓女の方に向き直った。
「できますよ。占いましょうか」
「いいの?」
紅を引いた唇が笑みを形作る。頷き、夜静は彼女の手を指差した。
「触れても大丈夫ですか?」
「ええ。八卦とかじゃないのね?」
「はい。道具が無いので観相にしようかと」
彼女の柔らかな白い手を取った。花の汁で染めたらしい爪が赤い。掌の皺をそっとなぞると、くすくすという抑えた笑いが聞こえた。
「お兄さん、掌だけで何か分かるの?」
目を上げる。黙ったまま顔を覗き込むように見つめると、彼女は笑みを止めて微かに戸惑ったように瞳を揺らした。
しばらく見つめた後、夜静はようやく口を開いた。
「良い相です。商売と金運に恵まれる。でも身体には気をつけた方が良いです。あまり冷えた物ばかり食べるといずれ臓腑を病みますよ。水難の相もあるので河の近くには行かないように。あと」
続けようとしたが、肩を叩かれて振り返った。洛風がこちらを探るように見ている。
「何やってんの?」
「……占いですけど」
観相です、と言うと、洛風は拍子抜けしたように「ああ」と声を漏らした。
「……観相って顔見て占うってやつだっけ? 道長そんなことできたんだ」
「少しだけですよ。ただあまり得意ではないのですみません」
「いいのよ、占ってくださってありがとう。でも私って本当に水難の相があるのね」
妓女は何気なくそう言った。その発言に引っ掛かる。
「誰かに同じことを言われたんですか?」
「ええ。さっきお二人、白家の巫師のこと話してたでしょ? その人がね、一度だけ白家の旦那さんと一緒に来たことがあるの。それで占ってもらって」
「本当ですか」
彼女は頷き、もう一人の妓女に声を掛ける。
「そうよね? 不思議な占いだったわよね、お酒を使うもので」
「ええ。白家の旦那さんが褒めてらしたわ。よく当たるんですって。南慶の巫師はやっぱりすごいのね」
妓楼に来たのなら男だ。顔を見たかと問うと、彼女たちは首を横に振った。
「肌までしっかり隠してるの。巫師はあまり人に見られてはいけないからとか」
「老人ではないと思うわ。声は若かったわよね」
二人は次々憶測混じりの噂話を喋る。いわく、南慶の巫師は実は鬼だとか布の下には恐ろしい獣の顔が隠れているのだとか、逆に泰山から遣わされた仙人だとか大巫師の生まれ変わりだとか好き勝手な内容だ。
「では、
夜静の問いに彼女たちは気まずそうに顔を見合わせた。
「お客さんのことは言えないわ。白家の旦那さんはお得意だもの」
「そこをなんとかさ、噂でいいから。俺たち口は堅いよ」
洛風はねだるように言う。都合の良い時は年下のような顔ができるのだ。妓女たちは少し絆されたように口を開いた。
「うーん……詳しいことは言えないけど、旦那さんが一年前に建てた家がねえ……」
「家?」
白家は一年ほど前に別宅を建てたのだという。別宅とはいうが、実際は妾を囲う為のものらしい。その家に問題があったのだと言いにくそうに妓女は答えた。
「巫師はその別宅に逗留しているのよ。会えないと思うけど。お二人も何か占って欲しいことでもあるの?」
洛風は軽く笑い、適当に嘯く。
「まあ、有名だしな。誰だって自分の将来は気になるだろ。でも別宅に巫師を住まわせていいのか? 妾宅なのに」
彼女たちは首を横に振った。
「問題ないわ。その妾は祟りで死んでしまったのよ」
***
冷たい夜風に酔いが醒める。欄干に凭れ、妓楼の二階から路地を見下ろした。
灯籠が連なり、濃厚な闇が赤く染められている。あちこちから嬌声と楽の音が聞こえ、張り出した舞台では踊り妓が
部屋の内では洛風が楽しそうに妓女と笑っている。部屋の外には回廊が巡り、高欄が取り付けられて外気に当たれるようになっていた。賑わいに馴染めずに疲れ、部屋の中から逃げ出したのだ。
酒は美味しいが、楽しい気分にはなれなかった。それは屍仙符の問題のせいかもしれないし、ただ自分の中に何かを楽しむ気持ちが欠けているせいかもしれない。
ぼんやりと下の喧騒を眺めていると、不意に人の気配がした。死角になっている右側からだ。夜静はそちらに顔を向ける。
そこにいたのは妓女だった。まだ若く美しい少女で、目元に塗られた朱と濃い睫毛が印象的だ。彼女は笑いもせずに夜静を見つめている。
まだ酔いの残る頭で、微かに疑問に思った。こんな娘が部屋にいただろうか。いなかったような気がするが――
「大師兄」
その声に、残っていた酔いが全て吹き飛んだ。
少女は乱暴に目元の化粧を拭う。忌々しそうに領巾を丸め、重く下がった簪も引き抜いた。こちらを睨む冷たい美貌は、碧華洞で見慣れたものだ。
夜静は目を見開き、無意識に一歩下がる。少女は紅を引いた唇からぞっとするほど冷え切った声を出した。
「私のことをもう忘れてしまったんですね」
彼女は銀の簪の先を夜静に向ける。頷いたら刺されそうだ。夜静は掠れた声で呟いた。
「……
少女はやはり笑いもせず、「お会いしたかったです」と淡々と頭を下げた。
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