第三章 太歳星君
一
天候に恵まれ、
洛佑は大平原に位置する都市だ。柳州も岳州も水の多い土地だったから、乾いた空気が久しぶりのように感じる。元々交通の要衝として発展した街だったため、街路や運河はよく整備され民家が密集して立ち並んでいた。高い建物は楼門や酒楼、あるいは大商人の家がほとんどで、宮城は逆に小さい。現皇帝の御世になってから商人の金持ちが増えたと聞いていたが、洛佑の様子を見るとそれを実感した。
洛風は落ち着かない様子で歩いている。街を縦横に流れる天井川を物珍しげに見上げていた夜静は、それに気づいて振り返った。
「どうしたんです? お腹空いたんですか?」
「いや別に……ああ、分かった。道長が食いたいんだろ」
「……そういうわけでは」
苦笑されて顔をしかめる。洛風は川に浮かぶ舟を指差した。舟縁を叩き客引きする少年がいて、蓮や漬け込んだ魚を売っている。
「適当に買って来るよ。そろそろ休みたいだろ。あの茶屋に座ってて」
店主にいくらか金を払い、軒先に出ていた胡床に座る。出された茶を飲んでいると、隣に腰かけてくる男がいた。
「茶を一杯ください」
「兄ちゃん、この銭じゃ駄目だ。どこの国のだ、これ」
「あれ? ごめんなさい、ちょっと待って」
隣の男はごそごそと懐を探っている。その拍子に手が滑ったのか、ばらばらと握っていた銭が地面に散らばった。
夜静は足に当たって止まったそれを拾う。確かに見たことのない銭だ。
「落ちましたよ」
隣の男を見た。まともに目が合う。彼は夜静の差し出した銭を受け取ると、困ったように笑った。
身なりの良い男だった。夜静と同い年くらいだろうか。浅黒い肌に複雑に編み込まれた髪で異国の人間だと分かったが、言葉は流暢だ。着ている衣服は見たことのない装飾がされ、夜のような濃い紫と深い青の糸で織られた光沢のある美しい布地のものだった。
「――良ければ私が払いますよ」
見たところ、ひどく喉が渇いているようだった。夜静が店主に金を払うと異国の男は目を瞬き、それから丁寧に頭を下げる。
「どうもありがとう。私は
「夜静です。礼はいいです。倒れたら大変ですから」
それに洛風の金だ。本当に礼をされるべきは洛風だろうが、夜静は平然とそう言った。
景羽と名乗った彼は出された茶を美味そうに啜った。少し興味を引かれて夜静は問う。
「高梁生まれではないですよね? 観光で来たんですか?」
「確かに出身は違いますが、ここに住んでますよ。来て日が浅いのでまだ慣れないけれど」
彼は夜静を見て微笑む。その瞳は微かに灰色がかって不思議な印象を受けた。
「夜静さんは道士ですか。ここらだと雪玉観かな」
「いえ、私は道観には属してません」
へえ、と意外そうに景羽は呟く。彼は立ち上がると飲み終わった茶杯を店主に返し、再び夜静に向かって礼を言った。
「感謝します、夜静さん。お礼をしたいのに何も持っていなくて……」
「構いません。大したことではないですし」
俺の金だけど、という洛風の顔が思い浮かんだが追い払う。景羽はちらりと迷うように目を伏せた。
「でも申し訳ないな。じゃあお礼に一つ良いことを教えましょうか」
「良いこと?」
景羽は頷き、少し口角を上げる。
「親しい相手に気をつけて。あまり良くないことが起きると思う」
は、という声が漏れた。景羽はまた困ったように笑った。灰色の瞳が僅かに揺らいだ。
「違うかな。違ったら気にしないで。また会えたら今度は私が奢りますよ」
「――待って。親しい相手というのは――」
夜静の問う声はひどく掠れていた。景羽は振り返らず雑踏に紛れていく。人混みに目を向けたが、あの特徴的な異国の服すら埋没しそうなほどの賑わいに微かに眩暈がした。
やがて洛風が焼き魚を手にやって来た。夜静の茫然とした様子に眉をひそめる。
「どうしたんだよ」
我に返り、今までの経緯をぽつぽつ語った。洛風はしばらく黙った後、首をひねる。
「気味悪いな。でも嫌なことを占って高いモンを売りつけようとするやつもいるらしいし、そういうのじゃないのか」
「……そうですね」
釈然としなかったが、余計なことを考えている暇は無い。夜静は話を変えた。
「結構時間掛かってましたけど、混んでたんですか?」
「いや、ついでに話を聞いてきたんだよ。あの玉燕ってやつが言ってた千里眼の巫師の話と、墓が荒らされてるって話」
「墓が?」
「墓地は城外にあるんだけど、そこで何度か墓が荒らされたって。最近は無いみたいだけど、ちょっと妙だろ? 盗まれたのは遺体で副葬品は放っておかれたみたいだし」
確かに関係があるかもしれない。考えながら洛風の買ってきた焼き魚を齧ったが、硬くて上手く食べられなかった。
「石みたいですよこれ」
「大袈裟だな。まだ冷めてないぞ」
魚自体より、自分の噛む力が弱まっているのだ。それに気づいて夜静は黙った。
ちょっとずつほぐして食べる。やっと半分ほど食べた時、洛風はすでに食べ終わって茶と
「では、巫師の方は? 本当に千里眼なんて持ってるんですか」
「みんな信じてるみたいだったな。偉い役人が食客として養ってるなら本物だって。それに南慶の巫師だっていうのも物珍しいから」
本物なら是非とも屍仙符を盗んだ道士を見つけて欲しい。少ない手掛かりを追ってほとんど当てずっぽうにあちこち旅をする手間が省ける。
「お客さん、白家の巫師のことかい、それ」
洛風に茶を出した店主が口を挟む。知っているのか訊くと、もちろんと彼は頷いた。
「白家の祟りを抑えてるんだとさ。白家の当主が前に突然重い病に罹ってさ、死ぬんじゃないかって言われてたんだけど巫師が治してくれたらしいぞ。それで、これはただの病じゃなく祟りだって。実際、
「……祟りというのは、今も続いているんですか?」
「ああ。前は息子が病に罹ったし、白吟之の母親も死んだ。吟之は巫師に大金積んでどうにか自分だけは助けてくれって泣いたらしい」
どこまでが真実なのかは分からないが、その巫師が白吟之を騙しているのは分かった。白吟之が病になったのは王子言のせいだし、治ったのは夜静が呪詛返しをしたからだ。
「では千里眼というのは?」
「元々は未来を言い当てるってので有名だったんだ。南慶の伝統的な巫術らしい。巫師はあの国の有名な一族の一員だったんだと。でも前に戦争があっただろ?」
洛風は首を傾げていたが、夜静は頷いた。
五年ほど前、南慶で跡目争いが起こった。あの国では一番力の強い巫師が王となる。だが同じ南慶の巫師でも派閥があって、それぞれが自分たちの派閥の中から王を選びたがった。公平を期すために煩雑な選定方法があるのだが、それに横槍を入れたのが南慶よりさらに西にある
南慶の国王である大巫師は、南慶だけでなく様々な国から尊敬される。その影響力は絶大で、高梁国の皇帝すら対等に扱わざるを得ないほどだ。
その大巫師を、柯蕃は自分の思い通りの者にしようと画策した。だが高梁にとって柯蕃は政敵で、南慶の大巫師が柯蕃側につくと色々な不都合があった。碧華洞もあの時期は不穏な空気が流れていたと覚えている。
だが結局、柯蕃の立てた大巫師候補は政争に敗れた。柯蕃は、南慶が独自に選んだ大巫師を彼の属する派閥ごとある寺院に閉じ込め、その間に自身の推す大巫師候補を即位させるという強硬手段に出たが、閉じ込められた巫師の一族が強く抵抗した。その際に柯蕃が派遣した真の大巫師を守る親衛隊と現地の南慶人とで争いが起きたのだ。
結果、南慶の土地を荒らした柯蕃は自身が推した巫師一族からも見限られ、南慶に援軍を送った高梁は南慶人から感謝された。残念ながら南慶の選んだ大巫師候補は亡くなり、高梁の後ろ盾を得た別の派閥から大巫師が立てられることになった。
説明を聞いた洛風はしばらく黙ってから言った。
「つまり、この国だけ得してないか?」
「そうですね」
「なんか嫌な話だな。南慶はちゃんとした後継者を失った上に荒らされて、柯蕃も全部裏目に出てる。高梁だけ良いとこ取りだ」
「皇帝陛下の徳の違いさ。で、白家にいる巫師はその正統な後継者の派閥だったんだ。寺院に閉じ込められて死にかけたが、高梁の援軍に助けられて最近こっちに来たらしい」
俺も将来を占ってほしいよと店主は笑う。洛風が焼餅を齧りながら訊いた。
「そいつ、どんな見た目なの?」
「顔は誰も見たことが無い。いつも布で顔を隠してるんだ。白家に逗留してるけど、会わせてくれないしな」
「ふうん。じゃあ名前も分かんねえか」
「南慶の名前は発音しにくいよ。ツォ……なんとかって。こっちの名前もあるみたいだけど俺は知らんな」
礼を言って茶屋を出た。洛風は串を弄びながらついてくる。
「……その巫師、王子言と繋がっていたのでしょうか」
その呟きに洛風は微妙な顔をした。
「でもあそこで道長が呪詛返しをするのは誰も分からないだろ? たまたま呪いが返ったところに居合わせて自分の手柄にしたのかも」
「――あるいは、元から本当に治す気だった可能性もあります。呪詛返しを自分でするつもりが、私が先にやったから咄嗟に自分がやったように見せた。王子言に協力していたのか、あるいは利用したのかは分かりませんが」
「だけど、なんでそんなことする? 白吟之の金目当てか?」
夜静は微かに首を振った。
「分かりません。だから、確かめましょう」
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