十三

「大嘘つき」


 夜静が眠りに落ちたのを確認すると、玉燕は立ち上がって洛風を押し退け、穴の向こうを見る。

 松明の明かりは確実にこちらに向かってきていた。帰ってなどいない。


 洛風は薄く笑う。

「言ったら道長、自分で何とかするって無茶しそうだから」

「ずいぶん優しいんだな。お前、州の北風ベイフォンだろ。雇い主を皆殺しにして金だけ持ち去って逃げた破落戸」

「知ってんの?」

 流れるような動作で玉燕の喉元に刃が突きつけられる。彼女はぴくりと眉を動かしたが、一歩も引かなかった。

「雇い主は国の禁制品を売り捌くご立派な組織だったよな。何で殺した?」

「金が欲しかったから」

 真意の見えない目で、洛風は玉燕を見る。

「お前こそ、雪玉観の道士なのになんでそんなこと知ってるんだよ。普通の人間なら知らねえぞ。ずいぶん世俗に染まった道士様だな」

「私は普通の人間じゃないから」


 玉燕は先ほどまで小さな明かりを生んでいた焚符をひらひら振る。

「お前がなんで夜静に付き纏ってんのか知らないけど、妙な考えでもあるなら消し炭にするからな」

「なんでそんなこと言われなくちゃならないんだよ」

「夜静はがあるから。……まあ今はあっちが先だ。夜静は目覚めないから荒っぽくやっても大丈夫だろ」

 そう言うと頬を引き攣らせて笑った。洛風も剣を構えて立ち上がる。


 歪んで建て付けの悪い戸を、玉燕は思い切り蹴破った。ついで焚符が刃のように飛んで、一瞬後で轟音とともに爆発する。


 爆風で髪が舞い上がる。視界が赤く照らされ、昼間のように明るくなった。狼狽えたような悲鳴が上がり、外にいた村人たちは慌てたように松明を放って逃げ出す。

 洛風は呆れたように隣の女を見下ろした。

「なんだあれ」

「焚符の正しい使い方。驚かせるだけだけどな」

 だが半分は逃げ出し、あとはほとんど腰を抜かして座り込んでいる老人ばかりだ。洛風は拍子抜けしたように剣を収めた。

「人を生贄にしてるくせに、普通の農夫なんだな」

「当たり前だ。殺人祭鬼ってのはここらでは普通のことなんだよ。私たちが天帝を祀るのと一緒のことだ」


 玉燕が印を結ぶ。すると、地面に落ちた松明の火が小さくなった。木々に燃え移った火は消えていく。洛風は少し感心したように目を見張った。

 火が消えていくのを見た農夫たちは、不意に持っていた鋤や鍬を手放し玉燕に向かって叩頭した。


「仙人様、どうぞお許しください!」


「……は?」

 玉燕はぽかんと口を開く。農夫たちは何度も地面に頭を打ちつけ、謝った。

「お許しを……お許しを! どうぞ命だけは……」

 必死に叩頭していた老爺が、震える手で懐から布袋を出す。銭が擦れる音が聞こえた。

「お見逃しを……」

 買命銭だ、と玉燕は呟く。殺人祭鬼を行う村では、殺そうとした相手が強く返り討ちに遭った場合、村人たちは見逃してもらうために銭を差し出す。受け取ることで交渉は成立し、お互いにそれ以上干渉しないことになるのだ。


 玉燕が銭の入った袋を受け取ろうとした時、不意に横から獣の唸るような声が聞こえた。

 重たく風を切る音が鳴る。振り下ろされた鋤を避け、玉燕はそちらを見た。

 鋤を持った男が目を血走らせ、玉燕を睨みつけていた。髪は乾いた血で固まり、見える肌は痣だらけで元の色も分からないほどだ。

 四郎の叔父だ。洛風は驚いたように眉を上げ、「まだそんなに動けたのか」と呟く。片足が折れているのか、彼は踏鞴を踏んで悲鳴じみた声を漏らした。


張三ヂャンサン! おい、やめろ!」


 他の村人が焦ったように彼の腕を捕らえる。叔父はそれでも諦めず、震える手で鋤を握り直した。

「――駄目だ。俺の家の神様だ。皆、捕まえてくれ!」

「張三、もう諦めろ。小梅は残念だが、阿軒だって……」

「あんたらはまだ余裕があるからそう言えるんだ! もう、うちは限界なんだ……」

 ふらふらと鋤の先が宙を彷徨う。玉燕にはまるで当たらない。とうとう泣き崩れ、彼は引きずられるように他の農夫たちに連れて行かれた。


 買命銭を受け取った玉燕は肩をすくめて洛風を見上げた。

「捕まえた相手が悪かったな。これじゃあこっちが酷いことやったみたいだ」

「実際ひでえな。あの呪符、道士ならみんな作れるのか?」

「威力に差は出るだろうな。夜静が作ったらいいとこ蝋燭の火くらいじゃないか」

 二人は廃屋に戻る。床で倒れるように眠ったままの夜静を見て、洛風は自分の外衣を掛けた。暗い中でも夜静の顔色が悪いのが分かる。時折苦しむように身じろぎし、痩せ細った指先が床を引っ掻いた。


「――つまり、道長よりあんたの方が強いってこと?」

 夜静の寝顔を見つめていた洛風が問う。玉燕は首を傾げた。

「まあな、私より強い道士なんてそんなにいないから」

「……」

「嘘じゃないぞ。でも呪殺だけなら夜静の方が上手いと思う。経験の差だ」

 洛風が何の反応もしないのを見て、彼女は眉を上げる。

「なに、お前知ってるのか。夜静が大量に人を殺してるの」

「前に知らない男がそう言ってた。道長がケダモノだって。俺はどうでもいいと思ってたけど、道長は違った。寝てる時によく魘されてるんだ。ずっと誰かに謝り続けてる。よく分かんねえけど、道長がやったことは悪いことなのか? 悪いことをやれば悪人なのか」

 玉燕は壁に凭れて目を伏せる。洛風は独りごとのように続けた。

「俺は道長が良い人だと思う。だけど道長はそう思ってない。不思議だよな。一つ間違えたら、それだけで悪人になる」

「夜静は一つどころじゃないんだろ」

「だとしても、俺は道長がケダモノだっていうのはよく分からない。自分に良心があるのか悩む人はまともだろ。俺が化物だって言われるのは分かるけどな」

 玉燕は低く笑った。

「善人と悪人の区別なんて人それぞれだ。お前にとって夜静が良い人でも、違う人間にとったらケダモノなんだろう。夜静自身にとっても、夜静という人間は悪人だった。悪いことをした人間がすなわち悪人というのは私も違うと思うけどね」

「じゃあ、良いことをした悪人もいるのか?」

「はは、お前面白いこと言うなあ」

 しばらく沈黙した後、玉燕は再び口を開いた。


「私にとってそれは、霊玉真人だな」

「はあ? 神様って良いもんじゃないの?」

「神なんて無茶苦茶なやつばっかだぞ。霊玉真人は全ての病を根絶し、不老不死を目指した傲慢なやつだ。そこまでした理由は、衆生を救うためじゃない。人が死ぬのが怖かったからだ」

「怖い?」

「お前には理解できないかもな。周りの人間だけでなく、知りもしない赤の他人の死までも恐ろしかった。いっそ誰より早く自分が死のうと思ったが、それも嫌だった。放っておけば死ぬ病人があちこちにいると考えただけで気が狂いそうで、だから手当たり次第に治したんだ。そこに義侠心なんて無い。見境も無く、犯罪者だって治した。治したやつが誰かを殺すことだってあった。しまいには泰山から使いが来て、仙人にしてやるからもう他人をやたら治すなと言われた。それが霊玉真人の物語だ」

「……意味分かんねえな」

「だろう。霊玉真人は自分の中から死が消えたことでどうにか正気に戻った。世間で言われているようなやつじゃないが、霊玉廟の道士は馬鹿正直にそんなこと言わないしな」

「あんたはじゃあなんなんだよ」

「私は別。それにお前に言っても言い触らしたりしないだろ」

 軽やかに言って、彼女は洛風の肩を叩いた。


「私が一応見張るから眠っていいぞ。難しいことは考えなくていい。善悪の区別なんて誰も分からないんだ」

「――でも、なんか気持ち悪いんだよ。道長が何を悩んでるのか、なんで悩んでるのか全然分からないから」

「それは夜静の問題だし、お前が夜静を良い人だと思うならそれでいいだろ。わりと救われるぞ、誰かが肯定してくれるっていうのは」

「なにそれ」

「私の意見」

「聞いてねえよ」

 可愛くない餓鬼だと呟き、玉燕は不貞腐れたように壁に向かって座る。見張ると言ったのにそのままうたた寝し始めたのを見て、洛風は剣を抱えて夜静のそばに座り込んだ。


 玉燕は守る意味も必要も無いが、夜静はただ眠っているだけなのにどこか危うさを感じる。閉じた瞼が透けて血管が見え、時折微かに震えていた。また嫌な夢でも見ているのか眉間に皺が寄っている。乱れた髪の下、蠟のように白い肌がまるで死人のようで、ちゃんと生きているのか見るたび不安になった。


 ぼんやりと昔を思い出す。蝋のような肌、それを汚す大量の血。赤黒く濡れた手で頭を撫でられた。

 あの時の夜静は、まだ右目が見えていた。

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