十二

夜静イェジン!」


 頬を思い切り叩かれた。ばしゃりと水を被せられ、強い臭いに噎せる。咳き込みながら目を開けると、玉燕ユーイェンが余裕を無くした目でこちらを強く睨んでいた。

「おい、分かるか? 戻ってこい!」

 もう一度手を振り上げる。夜静は慌てて首を振った。

「だっ――げほっ――だい、じょうぶ……です」

 だから叩かないでほしい。玉燕は寸前で手を降ろすと、今度は肩を掴んで強引に揺すぶってきた。

「じゃあ吐け! 先に言っとくけど、怒るなよ!」

 言葉と同時に腹を蹴られた。喉につっかえていた熱い塊がせり上がり、堪らず吐いた。赤黒いそれは血の混じった泥のようだ。胃酸で口腔が痛む。泥のようなものを吐き続け、何度か気が遠くなった。そのたびに玉燕は頬を叩いてくる。

 拷問のような時間が過ぎて、やがて腹の底に溜まっていた淀みが消えた。泥のようなものが出なくなったのを見ると、玉燕はようやく吐かせるのをやめてくれた。


「あ……貴女、は、私に恨みでもあるんですか……」

 息も絶え絶えにそう言うと、玉燕は心外そうに眉を上げた。

「助けたんだろうが。お前の身体、棺桶に片足突っ込んでるからあっちに呼ばれやすいんだろうな。嫌な夢見ただろ。目覚めないかと思ったぞ」

「ならもうちょっと穏当に起こしてください……」

 岩壁に凭れる。本当に死んでしまうかと思った。まだ喉が痛い。上を見上げると、夜なのか射しこんでいた日の光が消えていた。それでも井戸の底の様子がぼんやり見えるのは、玉燕の持っている呪符に指先ほどの火が点いているからだ。ふん符だろう。

「最初は穏やかに起こそうと思ったけどさ、丸一日起きないから」

「丸一日……え、丸一日ですか?」

「正確には一日と半分だな。もう日が暮れたし」

 まさかそんなに眠っていたとは思わなかった。玉燕は少し困ったように腕を組む。

「お前の身体、ひょっとしたらまずいかもな。また引っ張られたら戻って来れないかもしれない。さっさと外に出ないと」

 玉燕はぺたぺたと岩壁を叩く。濡れた壁は取っ掛かりが無く、夜静の不自由な身体では到底上れないし、玉燕もあまり力は無さそうだ。


 二人揃って上を見上げていると、不意に目を刺すような明るい光が見えた。ガタガタと物音がして、井戸の蓋がずれていく。

「村のやつらか? 思ったより早い――」

 玉燕の独り言は、呑気な大声に掻き消された。


「どーちょー、いるかー?」


「――え」

 唖然として固まった夜静を見て、玉燕は代わりに怒鳴り返した。

「おい、どっちの道士のことだよ? お前らが捕まえた道士は二人だぞ!」

「あ? お前誰だよ」

 呑気な声が途端に不穏さを孕む。夜静は慌てて玉燕の袖を引いた。

「あ、あの、あれ、たぶん私の連れです……」

「連れ?」

 玉燕は呆気にとられ、そして上を見る。洛風の顔は見えないが、再び剣呑な声が降ってきた。

「道長、無事か? なんかされたの? 待ってて、降りるから」

「だっ――大丈夫です! 洛風、降りなくていいですから、縄か何かで引き上げてください!」

「……いいけど、もう一人の道士って道長の探してたやつじゃないのか? 何もされてないよな?」

「人聞き悪いぞ! それに人違いだ!」

「そ、そうです! とりあえず引き上げてください!」

「――まあいいけど」

 訝しげな声とともに縄が投げ入れられた。

「とりあえずそれで身体を縛って」

 言われた通りに縄を身体に巻く。少し不安だったが、洛風は軽々夜静の身体を引き上げていく。井戸の外に出られた時は解放感で思わず地面に倒れ込んでしまった。


「あ、ありがとう……って、それどうしたんですか」

 洛風の衣は血まみれだった。結った髪も乱れている。彼は「おっと」と呟き、手にこびりついた乾いた血を擦り落とす。

「なんでもない。ごめん汚したかも」

「いえ、元から汚れてるので構いませんが……怪我したんですか?」

「え? あ、俺はなんともない。ちょっと無茶した」

「ちょっとって……」

 衣は元の色も分からないほどどす黒く変色している。引き攣った夜静の表情に洛風は慌てて手を振った。

「別に、殺してない! あっちから襲ってきたんだ。俺は……」

 洛風は途方に暮れた顔で自分の手を見て、無闇に衣の皺を引っ張った。お互い探り合うような妙な空気の中、井戸の方から玉燕の苛立った声が聞こえてきた。


「おい、私も引き上げろよ!」


「――あ」

 夜静は慌てて自分の身体の縄を解き、井戸の方へ放り投げた。端を握った洛風は不機嫌そうに問う。

「中にいるやつ、本当に無関係なのか? 騙されてるんじゃねえの?」

「いえ……助けてもらいましたし、今のところ怪しくはないです」

「俺にとっちゃ、こんな村に来てる時点で怪しいけど」

 文句を言いながらも引き上げてくれた。玉燕は這いずって井戸から出ると、洛風を見て目を大きく開く。

「これが夜静の連れ? この破落戸みたいな野郎が?」

「なんだ、この女。本当に道士かよ」

「あ? 呪い殺すぞ。……ていうか、お前の顔どっかで見たことが……」

 顔を合わせた途端に睨み合う二人に呆れ、夜静は強引に話を変えた。

「ところで、さっさとここから離れるべきですよね。村人に見つかったらまずいですよ。ほら、足音が――」

 適当に言葉を並べ立てていたが、不意に闇の向こう、ちらちらと輝く光が見えた。同時に、踏みしめられる草の音が。


「――足音だな」


 ざわざわと空気が揺れている。点滅する光は徐々に大きくなり、松明を持つ人影が大勢見えた。

「逃げるぞ」

 玉燕は、洛風が持ってきた松明を踏み潰して消した。一瞬何も見えなくなったが、彼女の焚符が小さな明かりを生む。


 井戸は森の中だった。集落からは少し離れている。松明を持つ村人たちは明確にこの井戸を目指していた。

「夜静、歩けるか? 私が背負う?」

「い、いや、結構です」

 自分より小柄な女に背負われるのはさすがに矜持が傷つく。洛風は隣で大きく頷き、言った。

「そうだよ。俺が背負うから」

「なんでもいいから急ごう。あっちに廃屋があったから、そこで夜静の具合を見る。私の目の前で死なれたらむかつくからな」

「……」


 洛風は夜静を背負ったままでも足音を立てない。玉燕の身のこなしも何か武術をやっているように思えた。今からでも鍛えようかと、目の前で揺れる洛風の毛先を眺めながら思う。

 森の中には、玉燕の言う通り崩れかけた廃屋があった。入ると床は微かに軋み、埃が舞う。穴の開いた壁からは遠く井戸のある辺りが見えた。

「おい破落戸、井戸の方見張ってろ。あいつらがこっちに来たら教えろよ」

「えらっそうな女だな」

「私は雪玉観の道士様だぞ」

「喧嘩しないでください……聞こえるかもしれませんよ」

「お前は黙ってろ」

 容赦なく腹を押されて呻いた。触診にしては乱暴だ。

 洛風は言われた通りに穴の向こうを見張っている。少し不思議だった。なぜ彼は逃げなかったのだろう。


 ふと、思った。屍仙符の使い方を知りたいのなら、自分で試すより夜静を脅して吐かせた方が早い。あるいは――信用させて聞き出すか。


 余計なことを考えてしまった。もしそうだとしても今はどうにもできない。頭を振ってその疑問を追い払った。

「お、あいつら帰ってくぞ」

 洛風がそう言った。玉燕は意外そうに目を瞬く。

「諦めたのか? だいぶ切羽詰まってると思ってたんだけど」

「んー……俺が半殺し……じゃなく、殴り倒したからじゃないか。何人かまともに立てなくなっただろうし」

 井戸を見に来たのは四郎スーランの叔父とその家族数人、あとは知らない老爺が数人らしい。若い男たちは洛風が半殺しにしたそうだから動けないのだろう。

「物騒な男だな。でも諦めたなら都合が良い。ここで一晩過ごして朝になったらさっさと逃げろよ。私は証拠を掴んで州城に持っていく」

「訴えるんですか?」

「当たり前だろ。殺人祭鬼は妖術殺人だ。普通の殺人より罪は重いぞ」

 妖術殺人というと蟲毒が思い浮かぶ。蟲毒殺人を犯せば、確か最高刑である凌遅刑だったはずだ。身体を一寸刻みにされるそれに、耳を削ぎ落された感覚を思い出してまた吐き気が込み上げた。


「今晩は交代で見張りだな。洛風だっけ? 一時辰ごとにしよう」

「私もやりますよ」

「お前は寝てろ」

 玉燕に額を小突かれた。洛風も追い打ちを掛けるように頷いている。

「でも……」

 どろりと疲れが身体の底に凝っている。少しずつ気が遠くなる。玉燕の切れ長の目が細まり、低い囁き声が聞こえた。

「いいから寝ろ。年上の言うことは聞きなさい」

 玉燕が額に触れた。その途端に、気絶するように意識が落ちた。

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