十一
口の中が切れていて、鉄臭い。端から血が零れて衣を汚していく。指先の感覚は無く、ただ自分の上に馬乗りになった男を見上げる。
「はっ……はぁ……まずいな、お前しか残ってない」
顎を掴まれた。戯れのように何度か殴られると、ぼんやりとしていた意識が戻る。目の前の男は獰猛な色を宿した目でこちらを見つめていた。
「言えよ、なあ」
一人で十三人の男を殴り倒した
「もう……もう、やめて……ごめんなさい、私が……」
啜り泣きに混じって
「……私が……私がやったんです。兄さんたちはまだ待てって、言ってた、のに……」
洛風はちらりと振り返る。そちらに三梅がいるのだろうか。三梅。呼ぼうとしても息が漏れるだけで言葉にならない。
「殺したのか?」
ぞっとするほど低い声だった。洛風の殺気を感じて四郎は身体を強張らせる。逃げろと、そう言おうとした途端に首を絞められた。
「そんな――違う、違います、違います、やめて、兄さんを殺さないで!」
「違う?」
微かに力が緩む。喘ぐように息を吸う。折れた骨がところどころ痛んで、もうどこが折れているのかも分からなかった。
「違います! う……烏鬼様にするには、ただ殺すだけじゃ駄目で」
「どうでもいい。生きてるならどこにいるんだよ?」
「そ……れは」
三梅、と縋るような声が聞こえた。部屋の中、兄を庇うようにして倒れていた叔父だった。
「駄目だ……小、小梅のこと……を」
小梅。その名に、三梅が息を呑む。洛風は苛立って床を殴った。
「さっさと言え! あんなに廟があるんならもういらないだろ。俺は別に人殺しをやめろって言ってるんじゃない。道長を返せって言ってるだけなんだよ」
それは無理だと、四郎は思う。もう十年、この家では神を祭っていない。家を守り、繁栄させる呪力はどんどん枯れていく。兄の病気を治したい。これ以上家族が不幸な目に遭うのは嫌だ。豊かになりたい。それだけだ。誰でもそう思うだろう。何が悪いのだろう。ただこの痩せた土地で暮らしていくには、こうするしか無かっただけだ。
道士は貴重だ。普通の人間の鬼を祭るよりずっと効果がある。それに、神になった人間は普通の修行では得られないほどの功徳を得るのだという。だから。
気づけば、譫言のようにそんなことを呟いていた。洛風はそれに気づき、血みどろになった四郎に顔を寄せる。
端正な顔だが、隠しきれない凶暴さが滲んでいる。こんな獰猛な男だとは気づかなかった。知っていたらすぐ殺したのに。
彼は唇を歪めて嗤う。
「知らねえよ。お前の家がどうなろうが俺には関係無い」
なんでだと泣きたくなった。やっと見つけた神様なのに。彼を逃せば、もうどうしようもなくなる。兄が、小梅が――。
「お、……お願い、します。いくらでも払います。ですから……」
三梅が呻くようにそう言って床に額づく。洛風はしばらく黙り、不意に四郎の上からどいた。
ほんの少し期待した。だがそれは、彼が三梅の肩を掴み、無理やり顔を上げさせたのを見て絶望に変わった。
「それ以上言うなよ。――殺したくなる」
三梅の腫れ上がった泣き顔が見えて、四郎はどうにか力を振り絞って床を這った。洛風の足に縋りつき、とうとう折れた。
「教える、教えます、だから、三梅を放してくれ……」
喉が潰れ、声はひどくしわがれていた。
「そうか。早くそう言えば良かったのに」
洛風はさっきまでの凍えるような殺気を消し、三梅を放して明るい笑みを浮かべた。血に染まった手で四郎の肩を親しげに叩いてくる。
化物だと思った。この男の良心は一体どこにあるのだろう。
「はは、化物? 爺さんにもそう言われた」
声に出ていたのだろうか。分からない。
真っ直ぐな目が四郎を見る。まだ若い、いっそ幼いような目をしていた。
「良心な、そんなもん犬に食わせた」
お前は家族思いで良いやつだなと笑う声が聞こえた。
***
高く水滴が落ちる音が響いていた。
ゆらゆらと頭が揺れている。帳のように髪が流れ落ち、視界が狭まっていた。自分が水を張った盥の上に膝を抱えて座っているのが分かり、
身体は薄衣一枚を纏っているだけで、全身濡れてひどく寒かった。左足の壊疽が消えているのが見えて、これが夢だと気づく。
誰かが夜静の腕を取り、無理に立たせた。軽く背中を押されると勝手に足が歩いてしまう。周りは暗く、裸足の足裏に感じる凹凸でどこか外を歩いているのだと分かった。
前方からは焚きしめられた香の匂い。闇の中に、真新しい廟が見える。
促され、高い敷居をまたいだ。廟の中には何本も蝋燭が立ち並び、ぼんやりとした明かりの向こうに鏡がある。そこに映った自分の顔を見て夜静は唖然とした。
(誰だ)
知らない、若い男だ。茫洋とした目をしていて、時折がくんと首が垂れる。何か薬でも飲まされたのだろうか。背後にいる男は三人。いずれも農夫の恰好だ。
廟の床に跪かされる。三人の男たちは叩頭し、意味の分からない呪文を唱えていた。それが自分に向けられていると悟り、夜静はどうにかこの場から逃げようとした。だが、指先すら自由に動かせない。
(嫌だ――)
自分に向けて叩頭している男たちを見つめる。彼らはやがて立ち上がると、鈍く銀色に光る刃物を手に持ってきた。
ようやく薬が切れてきたのか、ぼんやりと座っていた身体が徐々に震えはじめた。逃げようと緩慢にもがく身体を二人が押さえつけてくる。叫ぼうと息を吸い込むが、舌を切られていることに気づいた。
凍るほど冷たいものが、こめかみに当たる。耳の付け根、そこに冷たい感触が滑っていく。
頭を僅かに傾けられ、そのままで固定された。髪が邪魔でよく見えない。だが、白く光るものがちらちらと視界の端に映る。
呼吸が浅く、速くなっていく。恐怖で汗が滲む。一人の男が手に桶を持って夜静の左側に置いた。ちらりと見えた桶の底には、粘度の高い黒ずんだ液体が溜まっていた。
これは夢だと、心の中で繰り返した。夢だからすぐに目は覚める。これ以上先には進まないはずだ。だから大丈夫――。
耳の付け根に当たる冷たい感触は、何度か探るように位置を変えた。痙攣するように身体が震え、歯の根が合わない。凍える。ここは、ひどく寒い。
刃物を握った男は、不意に、呆気なくそれを振り下ろした。
冷たい。それが激痛に変わり、噴き出した血が温かく首筋を濡らした。
不明瞭な声を上げた。嗚咽のようなそれが廟の中に虚ろに響く。一度では切り落とせず、何度も刃物を振り下ろされて衝撃で身体が揺れた。切り落とされた左耳は、下に置かれていた桶にぽたりと落ちた。零れた血も桶に溜まっていく。
彼らは素早く移動し、右耳も切り落とそうと準備を始める。痛みで朦朧としている中、再び激痛が走った。
(痛い、いやだ、怖い――死にたくない)
それが夜静の気持ちなのか、この名も知らない男の感情なのかは分からなかった。
右耳も落とされ、激痛と恐怖で限界まで目を見開く。涙と汗が混じり、噎せるほどの血の臭いに鼻の奥が痛む。
血と汗でへばりついた髪をそっと避けられた。明瞭になった視界に農夫らしい男が映る。その手には――歪な細い鉄の棒が。
(だれか)
良い顔だと拝む男が見えた。この人は良い神になると。目を見開く神像。目、を――
(たすけて)
舌の無い口を開ける。絶叫しても、声にならない。見開かれた目に、尖った棒の先端が迫る。
何か助けを探すようにせわしなく視線が動いた。だが、何も無い。血の溜まった桶、そこに浮いている切り落とされた耳を見て絶望に力が抜けた。
視界が黒く塗り潰される。脳が焼き切れそうな苦痛とともに、目を抉られたのが分かった。
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