起きた瞬間、失敗したと悟った。

 洛風ルオフォンは赤く夕日に染まった廊下に立ち尽くしていた。乱暴に髪を掻きむしり、外衣を羽織る。

 ずっと警戒していたせいで、思ったよりも疲れが溜まっていた。それでも夜静イェジンが声を上げれば聞こえたはずだから、予想よりも相手の方が手慣れていたのか、あるいは夜静の体調が急変して倒れたのか。


 剣を握る手に力が籠る。誰がやったのかはどうでもいい。出会って最初の人間に訊くと決めて廊下を歩く。

 人の気配がしたので東の部屋へ行き、音を立てずに戸を開けた。


 ――なんだ、これ。


 最初、人間だと分からなかった。

 薄暗い部屋の中、痩せ細った男が横たわっている。落ち窪んだ眼窩、白目だけが冴え冴えと輝いていた。

「眩しい……四郎スーラン、戸を閉めろっていつも言ってる……」

 開けた戸の隙間から入ってくる光線から逃れるようにもぞもぞ動く。毛布に覆われた身体は異様に薄い。埃っぽい部屋には饐えた病人の臭いが漂っていた。


 病で伏せっているという長男だろう。戸を閉めろと言うように毛布から覗いた指先がゆらりと横に動く。長い黒髪は束ねられずに床に広がり、不健康に白い肌が夜静を思い出させた。

 途端に頭が冷える。洛風は無遠慮に部屋の中に入ると、戸をぴたりと閉じた。

「四郎……?」

 弟ではないと気づいたのか、声音に不審が混ざる。洛風は病人のそばに屈むと、毛布を剝ぎ取った。

「なっ――お前、誰だ」

 滑稽なほど声が震えていた。真っ白な肌、痩せた頬とぎょろりとした目。なんだ、と思った。こうして見ると夜静とはあまり似ていない。

 相手は怯えたように眼球を動かし、枯れ木のような腕で自分の身を守るように抱きしめる。

 洛風は歯を見せて笑った。犬歯が覗いて、ひどく獰猛に見えた。


「客人だよ。訊きたいことがある。なあ、この村なんなんだ? 俺の連れがいなくなったんだけど、知ってるか?」

 親しげな声音だが、目は笑っていない。逃れようと藻掻く男を押さえ込み、腕をきつく握った。

「道士を隠してるだろ? 何が目的だ」

「ぐ、っう」

 骨が軋むほど強く握りしめた。痛みで蒼白になり、男の額に汗が浮かぶ。

「早く答えないと骨が折れるぞ」

「ひっ……す……四郎……!」

 喘鳴混じりの悲鳴だった。同時に、鈍い音がして骨が折れた。

 力を入れ過ぎた。泣き喚きながら腕を押さえる男を見て、洛風は少し呆れる。

「おい、大袈裟だろ。綺麗に折ったのに――」


「兄ちゃん!」


 慌てたような声と共に戸が開いた。鍬を持った四郎が洛風を見て唖然と立ちすくむ。腕を押さえて泣いている兄とそばに立つ客を見比べ、彼は鍬を洛風に向けた。

「な――何やってんだ! 兄ちゃんに何を――」

「あ? そっちが先に手出したんだろ。道長どこにやったんだよ」

 不機嫌に答えると、四郎は顔を強張らせた。逆光で目元は見えないが、こちらをきつく睨んでいるのが分かる。

「どうしたの兄さん」

 四郎の背後から三梅がこちらを覗き込む。彼女は洛風と目が合うと微かに息を呑み、一歩後ずさった。

「男衆呼んでこい」

「あ――ええ」

 四郎の言葉に彼女は転げるように廊下を走っていった。


 洛風は部屋の中にあった青銅の水差しを手に取る。鍬相手に剣で応戦して折れてしまったら堪らない。

「道長をどこにやったのか教えてくれたら、何もしない。他の道士のことはそっちで好きすればいい。俺は道長だけ戻ってくればそれでいいからさ」

「悪いけど」

 四郎はかぶりを振った。

「駄目だ。あの人には、俺たちの神様になってもらわねえと」

「はは……」

 久しぶりに、腹の底から怒りが込み上げてくる。笑みが引き攣るのが分かった。

「無理だ。先約がある」

「先約?」

 四郎は怪訝そうに眉をひそめた。

 遠くから大勢の足音が聞こえてくる。三梅が村の男たちを呼んだのだろう。軽く十人はいる。洛風は足元でまだ唸っている四郎の兄を蹴り飛ばした。そして、


「――俺が先だよ。残念だったな」


 そう吐き捨てた。


 ***


「人を殺してその鬼を祭る。聞いたことあるか」

 玉燕ユーイェンは濡れた指先で岩壁をなぞる。殺、人、祭、鬼。

「文献を少し読んだことはあります。南の方で多いと聞きましたが……」

「北では馴染みが無いか。この辺りでは烏夜七頭神と呼ばれているが、他だと獰瞪神、稜睜鬼なんか聞いたことがある。いずれも目を見開いているような印象を受けるだろう」

 瞪も睜も目を見張るという意味だ。烏夜七頭神の像も目が飛び出していたと思い出し、頷く。

「ここの神像も例外じゃない。それと背面を見たか? あそこに彫られていた姓は、鬼として祭られた人間の姓だ。殺された者は神となり、殺した者もその功徳によって呪力を得る。官吏や科挙に受かった秀士は三人分、僧と道士は二人分の呪力が宿るらしいぞ。あとは女子どもが好まれる。外道の妖神だ」


 彼女の説明にふと引っ掛かり、夜静は首を傾げた。

「そんなに知っているのなら、神像を見た時点でそういう村だと分かったんでしょう。なんで捕まったんです?」

「……」

 玉燕は咳払いすると、目を逸らした。

「どういう風に祭っているのか興味があったんだ。妖神だが、実際に福をもたらしている。どういう儀式を経てああなるのかなって」

「自業自得じゃないですか」

「うるさい。――そういや、私は連れがいたんだけど、見なかったか? すごく綺麗な子なんだけど」

「いえ……捕まらなかったんですか?」

「ああ。お前は? 一人で来たのか」

「いや、私も連れが――あ」


 洛風のことを今まで忘れていた。やっぱりろくな目に遭わなかっただろうと呆れているだろうか。

「なんだ? そいつも捕まったのか?」

「……たぶん捕まらないと思います」

「へえ。助けに来るかな」

「さあ……お互いよく知らないんです。成り行きで一緒にいるだけで」

 逃げてくれれば金を返さなくて済むというろくでもないことを考えた。それにこのままでは、夜静はこの村の神に祭られて終わりだ。

「よく知らない相手とこんなところまで来たのか?」

 呆れたような言葉に夜静も苦笑した。

「こんな村だと思いませんでした。どういう風に殺されるんでしょうね」

「よくは知らないけど、ろくな殺され方はしないだろうな。こういうのは、残虐に殺せばそれだけ力が増すと考えるから」

 暇だからか、玉燕はそのまま嫌な話題を続けた。


「私が文献で読んだことがあるのは、目を抉って耳鼻を削ぎ、四肢を断ってそれを穴に埋めて熱湯をかける。肝は抜き取って食べるっていう方法」

 肝を食べる、と夜静は繰り返し呟いた。蒼白な顔に誤解したのか、玉燕は眉を高く上げた。

「人食いは北の方でも珍しくないだろ? ほら、北方に花骨族っていう部族がいただろ。彼らは葬儀で火葬した故人の骨を食べる」

 ああでも疫病で全滅したんだっけ、と玉燕は思い出したように呟く。夜静の顔はますます青白くなった。

「あとは――もっと南西の方だと南慶なんけいだな。あの国は確か、生薬としてよく人の髪とか爪を煎じて飲む習慣があった。邪術を遣う蛮国だって皇帝陛下は嫌っているらしいが。邪術といえば、三年くらい前に人の臓腑を霊薬とか言って売ってたやつが捕まってたし」

 他にもあるぞ、とさらに話を広げようとした玉燕を止めた。

「もういい、もういいです。貴女の趣味が悪いのはよく分かりました」

「なんだと? 暇だから色々読んでるだけだ」

 気まずそうに言い訳するが、一応やめてくれた。井戸の底に囚われている今の状況でこんな話をするなんて、あまり尋常の感性とは思えなかった。


「貴女は、自分が殺されるのは怖くないんですか」

 夜静の問いに、彼女は一瞬虚を突かれたように黙る。しばらくして慌てたように口を開いた。

「え? あ、うん、怖い。もちろん」

 洛風以上に演技が下手だった。冷え切った視線に気づいたのか、玉燕はまた咳払いで誤魔化す。

「私のことはいい。お前が捕まった以上、どうにかして神になるのは避けないとな」

「一人だったらどうする気だったんですか?」

「……儀式に興味があるから……」

「目を抉られて耳鼻を削がれて四肢を切られる気だったんですか?」

「まあまあ。私には霊玉真人の加護がある。なんとかなるよ」

 実際、彼女は長い間こんな場所に閉じ込められているのに憔悴した様子もない。だからといって、目に見えない加護なんかに頼るのはごめんだ。寿命は短いが、そんな悲惨な死に方はしたくなかった。

「おい、霊玉真人の加護を疑っただろ」

「そんなことないです。で、どうやって外に出ましょう」

 井戸は思ったよりも深い。周囲の岩壁は濡れていて上ろうとしても滑り落ちてしまいそうだ。

 しばらく考えた末に、結論が一つしかないと分かってしまった。玉燕を横目で睨むと、彼女は肩をすくめた。

「儀式に興味無くても、それまで待たないと出られないぞ。あと二日、仲良くしよう」

「……最悪ですね」

「お近づきになれて嬉しいって言え」

 玉燕の言葉に返事はせず、遥か頭上にある細い光を見つめていた。

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