重い雪片が指に触れ、溶ける。濡れた指先は寒さで赤く染まっていた。


 雪に混じり、白い道服の夜静イェジンが立っていた。彼の前には、同じ道服姿の男。左目は眼帯で覆われ、袖に血が染みている。何度か咳き込み、手の中に血を零していた。

「夜静、お前はまだうちから逃げた者がどうなるか知らなかったよな」

 投げやりな低い声に頷く。眼帯の男は、夜静より三年前に〈赤釵〉に入った師兄だ。彼は残った右目で夜静を見つめる。

「俺は洞からそう長く出られないから急ぐぞ。お前、呪殺を打ったのは初めてだろう。身体はなんともないか」

「左の薬指が折れました」

「それだけなら上出来だ」

 師兄の右腕は腐りかけ、血と膿で濡れている。それは今までの負債だ。いずれああなるのだろうかと、内から血の滲む彼の袖を見つめる。

 痛みを表に出さず、平坦な声が続けた。

「いいか、呪殺が成功したか確かめるのは大抵新人の役目だが、脱走者の場合は呪殺をした者ともう一人、計二人で確認する。今回脱走したのはお前と同じ新人だからお前に任せたが、これが他の道士――たとえば俺とかなら、呪詛返しをされる可能性が高いから洞主が他に刺客を用意する場合が多い」

 雪の積もった道を進みながら、淡々と説明する。踏み出すたびに軋むような音が耳を突いた。

「だが脱走者は大抵新人だ。今回みたいに、他の道士の呪殺の練習台にされることがほとんどだな」

「――それは牽制ですか」

 夜静の問いに、前を歩く男は軽く笑った。

「ああ、そうだ。自分で脱走者を殺せば、抜け出そうなんて考えなくなる。一人脱走するとしばらく脱走者が続くんだが、自分たちで始末させれば経験にもなるし馬鹿なことも考えなくなるから良い方法だろ」

 話す声に苦しげな喘鳴が混じる。白い雪道、そこにぽたぽたと血が染みているのを見て夜静は眉をひそめた。

「師兄、大丈夫ですか」

「大丈夫じゃねえよ。外に出られるのは今日が最後かもな」

 自嘲ぎみな言葉だった。痩せた背中に自分の未来を見た気がした。


 しばらく経って、朽ちた廃寺に着いた。閉ざされた門扉の向こうに、夜静が呪殺した仲間の男がいるはずだった。

 僅かに躊躇ったが、師兄は無造作に門扉を押し開ける。冷気が寺院の中に吹き込んだ。同時に中から、鉄臭い匂いが漂ってくる。


「――ひっ」


 掠れた声が響く。闇の中、もぞもぞと動く人影が見えた。

 まさか失敗したのだろうか。緊張に身体が強張ったが、やがて違うと分かった。

 寺院の床一面に、まだ乾いていない夥しい量の血がぶちまけられている。その血の海の真ん中、倒れ伏した男に寄り添うように赤子を抱いた女がいた。

 面倒だな、と背後で呟く声が聞こえた。脱走者に連れがいたのは予想外だ。死んだ男の妻子ではないだろうが、血縁関係があるのかもしれない。恐怖に青ざめた顔は、記憶の中の仲間とよく似ていた。

 彼女は夜静たちの道服を見て何かを察したのか、座り込んだまま後ずさる。衣服が汚れてしまうのにと、場違いなことをぼんやり思った。

「あの……」

 何か言おうと思ったが、言葉は出てこない。普通に話し掛けてきたことに驚いたのか、女は茫然と夜静を見つめる。

 夜静が血に濡れた床に一歩踏み出した時、不意に赤子が大声で泣き始めた。


 耳を劈くような、身を振り絞るような泣き声だった。その泣き声に女は目を瞬き、腕の中の赤子を見る。


 彼女の目に理性が戻った。ふらふらと立ち上がった女は気丈に夜静たちを睨みつけると、底なしの憎悪を滲ませた声で吐き捨てた。

「――人殺し」

 そのまま、寺院の裏口から外へとまろびでる。血に染まった裾が翻り、あっという間に雪の中へと消えていった。

「師兄……」

 横を見ると、彼は顔を歪めて女が走り去った方を見つめていた。

「――放っとけ。それよりあいつだ」

 言われて、倒れている男に近づく。うつ伏せになった顔をそっと窺うと、まだ微かに息があるのが分かった。

「楽にしてやれ」

 師兄の言葉に頷いて、懐から短刀を出した。身体を仰向けにして、切っ先を首筋に当てる。

 その歪んだ顔はひどく様変わりしていた。口元から血が垂れ、時折喘ぐように呼吸し、目蓋が震える。

 仲間内では珍しく、明るい男だったと思い出す。年が近いこともあって、よく話した。美人の妹がいるのだと自慢して、幸せにしてやりたいと口癖のように言っていた。夜静はそれを黙って聞いた。兄弟のいない夜静は、その話を聞くのが楽しかった。

 短刀を握る手に力を籠める。だがその瞬間、虫の息だった男が僅かに目を開けた。


 虚ろな目に夜静の姿が映る。無意識に呼吸が止まった。


 彼は自分の置かれた状況に一瞬困惑したようだった。瞳が微かに揺れ、夜静が突きつける短刀に気づき、ぴくりと目尻が震える。そして、ひどくしわがれた声で囁いた。


「あ……阿静アージン……」


 その呼び方はやめて欲しいと言ったのに。


「……頼む……い……あの子……駄目だ……」


 どこから力が出るのか、血に染まった手が夜静の袖を掴む。もう声が出ないのか、ただ「駄目だ」と口の動きだけで繰り返した。

 それ以上見ていられなかった。ひどい嫌悪に突き動かされて、夜静はなおも訴えてくる男の首筋に向かって短刀を突き刺した。

 肌と肉を突き破る感覚にぞっとし、短刀を引き抜く。血が噴き出して白の道服を汚した。ぱたぱたと顔にも生温かい液体が掛かって気持ち悪い。袖を掴んでいた手がずるりと血だまりに落ちた。

 男の目から光が消えた。黙って見ていた師兄は、咳き込みながら問う。

「さっきの女、誰だ?」

「……さあ」

 たぶん妹だ。だがそれは言わず、夜静は男の死体から目を離さずに呟く。

「私は……寺院の裏手に墓を作ります。彼は身内がいないので……。あの女のことも調べておきますから、師兄は先に洞に帰ってください」

 墓を作るという言葉に何か言いたげだったが、結局彼は頷いた。

「ああ。帰って来いよ。お前が逃げたら俺が殺すことになってるんだ」

「迷惑は掛けません」

「分かってる。あの女の居場所が分かったら殺しとけよ。見られたからな」

「はい」

 従順に頷く夜静を訝しそうに見つめる。軽く首を振り、師兄は微かに笑った。

「みんなお前みたいならいいのにな。俺だって、仲間を殺すのは後味悪くて好きじゃない……」

 眼帯の下から血が滲んでいる。まずいと呟いた彼は、ふらふらと寺院を出て行った。


 夜静は自分の身体を見下ろす。道服は血で汚れ、元の美しい白が台無しだ。ため息をついて立ち上がり、寺院の裏手に行く。

 地面に積もった雪が血で汚れていく。物置にあったシャベルを取り、黙々と穴を掘った。

 結局墓を作り終わった頃には日が暮れていた。


 ***


「道長!」


 ぐらぐら揺すぶられて気分が悪くなった。目を開けると、間近に洛風ルオフォンの顔が見える。驚いて後ずさると、背が壁にぶつかった。

「大丈夫? うなされてたけど」

「だ……いじょうぶ。大丈夫ですから、手を離して。気持ち悪くなる……」

「あ、悪い」

 肩を掴んでいた手が離れる。ほっと息をついて、夢の残滓を消すように頭を振る。

 いつの間に寝ていたのだろう。日は高いままだから、おそらく少し微睡んだ程度のはずだ。


「……いつ帰ってきたんですか?」

「ついさっき。半時辰くらいしか出かけてないよ。なんかあったのか?」

「いえ、別に」

 吐き気を抑える。洛風は疑うように目を細めていたが、慎重な手つきで夜静の指先に触れた。

「すげえ冷えてる。ダメだろ、身体冷やしたら。またぶっ倒れるぞ」

「君は母親ですか……」

 洛風は低い声で笑う。その笑みにどういう意味があるのか分からなかったが、指の先から伝わってくる他人の熱に不思議と気持ちが静まるのを感じた。


 しばらくして夜静が落ち着いたのが分かったのか、洛風は口を開いた。

「ごめんなさいって、誰に謝ってたんだ?」

 不意に訊かれた言葉の意味が分からず、洛風をまじまじと見つめる。微睡んでいる間に寝言を言っていたらしいと気づいて、微かに頬に血が上った。

「別に……君には関係ないです」

「俺に謝ってたんじゃないんだ」

「なんで君に謝るんですか」

「人使い荒くてごめんって」

 笑みが漏れた。力なく翳った夜静の目を見て、洛風は眉をひそめる。

「やっぱり具合悪いのか? なら寝てろよ」

「いえ……昔の夢を見て……それだけです」

「昔?」

「……昔、友人……に、とても……ひどいことをして」

 ぽつぽつと呟く。言葉がつっかえる。友人という言葉の馴染みの無さに戸惑った。


 あの時はひどいことをしたとは思っていなかった。どうして今さら思い出したのだろう。なぜこんなに、居た堪れないのだろう。

 それが後悔だということにしばらく気づかなかった。気づいた途端に、自分に呆れた。本当に今さらだ。

 目を閉じる。動揺したのを洛風に知られたくなかった。俯いて、冷え切った指先を握り込む。


「君は、良心ってあると思いますか」


 どうしてこんなことを訊いたのか分からない。一体自分は何を言っているのだろう。


「誰にでもあるものなんですよね。私の良心はどこにあるんでしょう」


 怖くて目を開けられない。冗談だと流してくれるのを待っていたが、洛風はややあって答えた。


「俺はそんなもんいらないと思うけど、道長は良い人だよ」


 珍しく強張った声だった。

 目を開けると、どこか途方に暮れたような表情の洛風が見えた。

「だって俺に粥作ってくれただろ」

 気まずいのか、彼は目を逸らして小さく言う。揶揄われているのかと思ったが、真面目に答えているようだ。


「――なんだよその顔。道長が訊いたのに」

「いや……本気ですか?」

 自分で作ったものだが、正直かなり不味かった。釈然としない夜静を見て、洛風は苦笑を浮かべた。

「ああ――うん、まあいいや」

 分からないよなと微かにそう聞こえた。それ以上追及しようにも、拒絶を感じて言葉を発せない。

 ただ何か、大事なことを忘れているような気がした。

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