事の顛末を知った洛風ルオフォンは呆れたように笑った。

「茶器で撃退? 道長が?」

「無理だって思ってるんですか」

「杖振り回す方がまだいいと思うよ。四郎スーランとかが相手なら勝ち目無いけど」

「君もですか?」

「道長だけに決まってんだろ。俺はあんなんに負けないよ」

 ただの農夫にも勝てないと言われて顔をしかめる。夜静イェジンだって護身術は少し習ったのだ。


「で、やっぱり他に道士がいるみたいだったな」

 洛風は笑みを消してそう言った。彼の手には破られた鎮煞ちんさつ符の切れ端がある。見せてもらうと、確かにそれは道士の手になる護符だった。

「……ああ、でも、私の探している相手じゃないかもしれません」

 落胆を隠せない。護符の絵は確かに魔封じだが、〈赤釵〉のものではなかった。

「何か違うのか? 大体一緒だろ」

「私の知っている道士なら、これは描きません」

 魔物に見立てられた男は、さらに三角形の模様に閉じ込められている。これは夜静たちは描かないものだ。

「まあ、協力者の可能性もありますけど……そもそもこんな村に道士が来ること自体不思議ですから」

「だな。それに聞いた感じ、あいつらその道士をどっかに閉じ込めてないか?」

「そうですね。そう聞こえました」

 四郎たちの会話を思い出し、頷く。

「それに、一人譲るというのは――」

「俺のことだな。あいつら奴隷みたいに人売ったり買ったりしてるんじゃねえの。だから儲かってるんだよ」

 洛風の意見は一理ある。旅人を捕まえて人買いに売り捌くという事件は聞いたことがあった。

 だが、それでは説明できない奇妙さがあるのも事実だ。夜静のような不自由な人間は売るにしても価値が下がる。なのになぜ彼らは道士だからとありがたがるのだろう。


 ふとある推測が浮かんだが、突拍子もない考えだったので言わずにとどめた。


「とりあえず、捕まっていると思われるその道士を探しましょう。その道士がなぜ廟に鎮煞ちんさつ符を貼っていたのかも気になりますし。あと――」

 しばらく躊躇ったのち、夜静は曖昧に訊いた。

「この村で葬儀の際に変わった風習があるとか聞きませんでした? 昼間、村の人と話したんでしょう」

「葬儀? さあ。明日訊いてみる」

「すみません。あと江軒ジャンシェンが病弱だったかどうかも」

「うん、訊く。よく分かんねえけど」

 洛風は説明を求めずに頷いてくれた。おそらく「説明したくない」という夜静の表情を見て取ったのだろう。


 ――どちらか肯定だった場合はいい。問題は、どちらも否定された時。


 なぜ江軒だけが蘇ったのか。この村に来るまでは、江軒が病弱だったからではないかと軽く考えていた。夜静の目的は道士であり、屍仙符の条件に関しては正直どうでもいい。生きている間にその条件を満たしてしまうことは、ごくわずかだが可能性がある。

 だが、そこに例の烏夜七頭神という正体不明の神が絡んでくると話が違う。もし夜静の推測通りなら、この村の人間はほとんどが条件を満たしてしまうかもしれないのだ。それはまずい。


 屍仙符というのは、死んでしまった親しい人を蘇らせるための呪符ではない。本来は、を作るためのものだった。

 ただの兵士は死んでしまう。だが、一度蘇った屍人しじんは恐怖も痛みも無く、ただ命じられたことに従う。首を切られれば動かなくなるが、他にどんな怪我を負っても手足がある限り動き続けるだろう。それは国にとって理想の兵士だ。

 屍仙符を盗んだ者の目的は分からないが、本来通り兵士を作り出すことが目的なら、この村の人間は格好の材料ということになる。


 難しい顔で黙り込んだ夜静を見て、洛風は邪魔しないようにか部屋の隅で膝を抱えて目を閉じる。

「……横にならないんですか?」

「変な奴が来たらすぐ起きないといけないだろ」

「なるほど」

 真似しようとした夜静に気づき、彼は苦笑して止めた。

「道長は普通に寝ろよ。身体痛めるぞ」

 でも、一人だけ呑気に横になるのも気まずい。洛風の言葉を無視して座ったまま目を閉じる。

 疲れていたのか、それ以上考える前に呆気なく眠りに落ちた。


 ***


 目が覚めた時、すでに日は高く昇っていた。

 いつの間にか床に横になっていて、身体には衣が掛けられている。洛風の外衣だ。

 身体の節々が痛んで、思わず呻いた。それでもどうにか起き上がったが、部屋の中に洛風の姿は無かった。ぼんやりと辺りを見回し、のろのろと這って戸を細く開ける。


「あ、起きた!」


 甲高い声が耳に突き刺さる。夜静は眩しさに目を細め、廊下からこちらをじっと見つめている幼い少女の姿を見とめた。

「……小梅シャオメイですか?」

 掠れた声に、少女は大きく頷いた。笑みを浮かべると、ふっくらした頬にくぼみができる。

「そうだよ。母さんが、朝餉はどうしますかって」

「……大丈夫です。いりません。ありがとうと伝えてください」

 昨晩の妙な出来事があったから、この家で出されるものを口にしたくはない。だが、小梅はその言葉に眉を寄せた。

「どうして? お腹減っちゃうよ」

「私は道士なのでお腹は減らないんです」

 適当に答えて少女を追い払うと、夜静は壁に凭れて痛む足を擦った。調子が悪い日はしばらく歩くこともままならないほどの激痛に襲われる。洛風がどこへ行ったのか気になるが、これでは立ち上がることすらできないだろう。


 痛みが引くのを待っていると、不意に戸が大きく開けられた。開けたのは小梅だ。彼女は跳ねるような足取りでこちらに近づいてくると、手に握っていたものをずいっと押し付けてきた。

「これ、食べていいよ。母さんには内緒ね。あたし、阿軒からこっそり貰って溜めてたの」

 重大な秘密を打ち明けるように声をひそめている。呆気に取られ、夜静は押し付けられたものに目をやった。

 それは紙に包まれた飴だった。小梅が握っていたからか、体温で柔らかくなっている。

「道士様でも、飴は食べるでしょ?」

 さも当たり前のようにそう言われ、思わず笑った。夜静は痛みを堪えて頭を下げる。

「ありがとう。勿体ないから後で食べますね」

 本当は痛みで食欲が失せているだけだ。だが、小梅は真面目な顔で頷いた。

「あたしもいつも勿体なくて食べられないの。阿軒は死んじゃったから、もう貰えないし」

「阿軒……江家の子と仲が良かったんですか」

「うん。よく遊んだよ。道士様たちは阿軒と知り合いなんでしょ?」

「……ええ」

 嘘をついたことを思い出し、少し後ろめたくなる。夜静は少女から目を逸らして話を変えた。


「すみません、洛風がどこに行ったのか知りませんか?」

「あの大きい人? 四郎スーラン兄ちゃんの仕事手伝ってたよ。でもあの人怖いね」

「怖い? 洛風が?」

「うん。あたしが飴あげようとしたら睨んできたもん。道士様とは全然違うのね」

「へえ……」

 意外だった。世話好きだという勝手な印象があったから、子どもも好きだと思っていたのだ。

 小梅は夜静に興味があるのか、立ち去る気配は無い。子どもの相手などほとんどしたことが無かったが、目の前の少女の物言いは面白く、自分の知らない奇妙な生物を見ているようだった。


「道士様は……」

「様はいりませんよ。道士に対する敬称は道長です」

 言葉の意味はよく分からなかったようだが、小梅は嬉しそうに「道長」と繰り返した。

「道長は、あの人のお兄さんなの? それとも友達?」

「知人です」

 丁寧に訂正したが、小梅は釈然としないのか首を傾げている。

「友達じゃないんだ。道長は友達いるの?」

 その問いに驚き、また笑いが込み上げた。

「残念ながら、いません。私はあまり……人から好かれませんから」

「そうなの? あたしは道長好きだよ」

 子どもらしい素直な言葉に一瞬絶句し、笑みが消える。居た堪れなくなって、誤魔化すように目を伏せた。

「それは……そうですか。ありがとうございます」

「うん。だから、あたしが道長と友達になる。どう? ほら、道長も友達できたよ!」

 どうやら一生懸命慰めてくれているようで、夜静は強いて口の端を上げた。

「そうですね、ええ……そう、小梅、ありがとう」

「うん! 阿軒がね、友達はいっぱいいた方が楽しいよって。道長も楽しい方がいいでしょ?」

 そうですねと答えたが、ちゃんと笑顔で言えたか分からなかった。


 小梅は母親に呼ばれて帰っていき、しばらく夜静は部屋の中に一人だった。幼い少女がいなくなると、部屋は途端に物寂しく見えた。


 手の中に残った飴を転がす。端が少し欠けているのか、ちくりと指先に痛みが走った。


 外に出てから、自分がどこか欠けていると感じる。大事なものがボロボロ欠けていて、それでも崩れないように杖に縋って人間の真似事をしている。

 いつからだろう。何かが少しずつ欠落して、それを気にしないようになったのは。

 友人を作らなくなったのは、いつからだっただろう。


 夜静は、血に染まった雪の日を思い出した。

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