洛風ルオフォンは尾行に慣れているようだった。前を歩く四郎スーランと叔父はまったく気づいていない。


 四郎の家は村の東にある。村の中心には大きな廟があるが、彼らはまず一番近くの廟に行くようだった。暗い夜道を北に向かっている。

 他の村人に伝える気は無いのか、あるいは二人だけで全て回り切れると思ったのか、おそらく後者だろう。小さな村だから、廟の数自体はそう多くないと洛風は言っていた。


 いくらも経たないうちに最初の廟に着いた。二人が中に入ったのを見届けてから洛風は壁に身を寄せる。

「……あった……さないと」

「でも……が」

 ぼそぼそとした声が聞こえる。ついで、ぴりぴりという音。護符を剥がしているのだろう。

「……って……あっちだ」

「こんなもの貼っていたなんて」

 声が鮮明になる。中から二人が出てきた。

「でも、今の道士様が嘘を言っているんじゃ?」

「まさか。嘘をつく理由が無いだろ。大体、無断でこんなもの貼ってるんだから良くないモノに決まってる」

「じゃああの道士、烏鬼様のことに気づいてたのか?」

「さあ――」

 再び声が遠のく。洛風の目がちらりと腰の剣を見た。いつでも抜けるように全身を緊張させている。


 彼らは廟を回り、貼ってあった鎮煞ちんさつ符を全て剥がしていった。最後の廟の中で、ふと四郎の不安げな声が聞こえた。

「これで全部なのか? 見落としてるかも」

「暗いからな。どうする、あの道士にどこに貼ったか訊くか?」

「無理だ。たぶんもう口が利けないだろうし――」

 ぼそぼそとした会話に洛風の緊張が高まった。彼を通して会話を聞いた夜静も眉をひそめる。


 ――あの道士。


 夜静とは別人だろう。やはり他に道士がいたのだ。でも、口が利けないというのはなぜだろう。

「様子を見るだけでも――」

「駄目だろう。うちには道士様がいるんだ」

「ああ――三日後だったか」

「三梅はもっと早くできないかって。小梅を取られるんじゃないかって不安がってる」

 何が三日後なのか、取られるとはどういうことなのか。


 洛風が思わずという風に少し身を乗り出す。途端にそばの枝が揺れ、微かな葉擦れの音が立った。

 指先に力が入る。だが慌てず、洛風はゆっくり身体を戻した。幸い聞こえていなかったのか、二人は廟からまだ出てこない。


「しかし、江さんにも困ったよな。一人譲れって」

 ため息まじりの声が聞こえる。江軒の家族のことだろうか。

「仕方ない。息子を亡くしたんだから。信心が足りなかったんだ」

「阿軒のことは俺も残念だけどさ」

「いいじゃないか。若い男は一人分だ。こっちは道士が二人だし、金も払ってくれるんだろう」

「柳州侯からもっと金を貰ったんだ。不公平だよ」

 不満げな四郎を叔父が宥めている。洛風の目が再び剣を見て、その柄を握る。殺意が伝わってきて、夜静は本気で彼が殺すのではないかとふと不安になった。


「そりゃあ、勝手に焼かれたんだろう? 伝染病だからとかって……ひどい話だよ。金持ちなら何してもいいと思ってるんだ」

 叔父の声は暗い。反発するように四郎の声が聞こえた。

「でも俺たちだって十年振りだ。兄ちゃんの病気も治らねえし」

「もうすぐ治るさ。道士様がいるんだから」

「……そうだな。だと良いんだけどなあ」

 再び声が遠くなる。廟から出て来た二人の表情は分からなかった。洛風は足音を立てずに追うが、彼らが家に向かっているだけだと分かって微かに首を横に振った。


 夜静も思わず脱力する。妙な会話に、どこかにいるはずの道士。その道士の居場所が分かれば一番良いのだが、そう上手くはいかないだろう。

 それでも家に戻ってくるまでは洛風の目を借りようと思っていたのだが、ふと身体に違和感を覚えた。


 正確には肩だ。何かがそっと触れている。衣越しにも分かるほど冷えていて、徐々に食い込んできた。

 骨が軋むほど強く食い込む。小さな手が、夜静の肩を掴んでいる。


 印を結んで目を閉じたまま、夜静は動かなかった。袖には鎮煞ちんさつ符があるはずだが、効いていないのだろうか。何が肩を掴んでいるのか分からないが、きっと人ではない。

 冷え切った空気が淀む。さらさらとした髪が頬に触れて、耳元で幼い声がした。


「で、て、い、け」


 ――あの少女だ。


 分かった途端に途方に暮れた。洛風に祟ればいいのに、なぜこちらに来るのだろう。人違いだと文句を言いたくなったが、言葉が通じる相手ではなかった。

 掴まれた肩がひどく痛い。それに、何か濡れている感じがする。気づいた途端に鉄臭い匂いが鼻先を掠めた。――血だ。

 夜静のものではない。少し考えて原因が分かった。洛風が少女の額を割ったからだ。

「……」

 舌打ちしたくなったが堪えた。このまま我慢すればいずれ洛風が帰ってくるだろう。それまで無視だと思ったが、不意に部屋の外から奇妙な音が聞こえてきた。


 ず、ず、ず……と何か引きずるような音が廊下から聞こえる。抑えきれない足音と、床の軋み。それは確実にこの部屋に向かってきていた。


 途端に、肩を掴む圧迫感が消えた。異様な少女の気配も絶える。咄嗟に目を開けて振り返ったが、暗い部屋にはもう何も残っていなかった。

 袖の中の護符は引き裂かれ、無惨な状態に変わっている。自分の力がそんなに落ちたのだろうかと一瞬落ち込んだが、それどころではなかった。


 廊下の足音はあの少女とは別だ。何かを引きずる音は、この部屋の前でぴたりと止まった。

 廊下に面する戸は閉じてある。向こうに何がいるのか分からないが、今は夜静一人だ。もし相手が人間なら歯が立たない。

 杖を引き寄せてしっかりと胸に抱いた。じっと廊下を窺う。相手も部屋の中を窺っているのか、足音は絶え、それが逆に微かな息遣いを明らかにした。視力の落ちた夜静の目は、辛うじて戸の輪郭を捉えるだけだ。

 暗く、一人で、戸の向こうには正体不明の何者かがいる。そのことに意外なほど自分が怯えているのが分かった。指先が震えているのが見えて、恐怖より先に驚愕と可笑しさを覚える。

 今さら何を怖がっているのだろう。何度も死にそうな目に遭って、今も実際死にかけているのに。


 相手は客人たちが寝ていると思ったのか、長い沈黙の末に戸を開けることにしたようだ。ぎしっと戸が鳴って、僅かに揺れる。建付けが悪いのだろう。静かに戸を開けるのに苦労しているようで、夜静はその間に部屋の隅にあった茶器を手に取った。

 今声を出して追い払ってもいいが、相手が誰か確かめたい。格闘している間に洛風が戻ってきてくれれば捕まえられる。無茶するなよという洛風の言葉が思い浮かんだが、頭を振って追い払った。


 だが、ようやく戸が少し開いたところでその動きが止まった。何かが床を擦り、微かに息を飲む音が聞こえた。

 ついで、再び廊下を歩いていく足音が聞こえる。さっきよりもいくぶん早く、焦っているように聞こえた。どんどん遠ざかっていくのが分かり、夜静はしばらく茫然とした。

「――ええ……?」

 せっかく迎え撃とうと思っていたのに、なぜか相手が先に逃げてしまった。釈然としないまま突っ立っていると、まったく気配もなく洛風が帰ってきた。


 するりと猫のように忍び込んできた彼は、立ち上がって茶器を持っている夜静を見て呆気にとられた。

「……道長、茶でも飲みたいの? 俺が淹れてやるよ。火傷するぞ」

「……」

 当たり前のように失礼なことを言う洛風に腹が立ったが、火傷するというのは自分でもそう思うから反論できなかった。

 夜静は「違います」と力なく呟き、活躍しなかった茶器を床に転がした。

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