幸い洛風ルオフォンに祟られた様子は無かった。ただ杖で踏みつけられた足の甲が痣になった程度だ。

「いってえ」

 わざとらしく声を上げているのを無視し、夜静イェジンは問う。

「村で何か分かりました?」

「うーん」

 下手な演技をやめ、洛風は頬杖をついて唸る。

「適当に話し掛けてみたけど、なんかやたら道長のこと訊かれた。本当に道士かって。疑ってるわけじゃなく、念押しみたいな感じだったけど」

「道士に何か拘りでもあるんですかね」

「さあな。あと妙だったのは、この村、やたらと裕福な家が多かった。この家だってだいぶ立派だろ? 何で儲けてんのかな」

「農業以外ってことですか?」

「まあ、でもそれ以外やってるようにも見えないし。不作の年がほとんど無いとは言ってたけど。それもあの変な神様のおかげなんだと」

「烏夜七頭神ですか」

「そう。廟も見てみたけど、いくつか道長のと同じ護符が貼ってあったぞ。まだ新しかったけど」

「護符?」


 洛風が言っているのは鎮煞ちんさつ符のことだった。それを聞いて眉をひそめる。

「本当に? 絵は同じですか?」

「見間違えないって。手足を縛られた男。道長のより凝ってたけど」

「……それはおかしいです。魔を封じる鎮煞ちんさつ符を廟に貼るなんて」

「煞」という字には、「じっくり時間をかけて殺す」という意味がある。間違っても神を祀る廟に貼るものではない。

「近くにいたやつに訊いたら、福をもたらす護符だとか言ってたけど」

「嘘ですね。知っていて嘘をついているのか、知らなくて嘘をついたのかは分かりませんが。――誰が貼ったのか分かりますか」

「訊いたけど、忘れたとか言われた。そう昔に貼られたようには見えなかったけどな」

「……」

 あの七面の神は鎮煞ちんさつ符と一緒に祀るという風習があるのかと一瞬思ったが、それはありえないと打ち消した。廃村では鎮煞ちんさつ符は一枚も見なかった。ということは――。


「誰か、おそらく道士が、この村に最近来た……?」


 夜静の呟きに、洛風は薄ら笑いを浮かべた。

「おかしいな。俺も訊いたけど、道士なんて一人も来てないってみんな言ってたよ」

「隠しているんでしょうか。でも農民が鎮煞ちんさつ符を用意できるとも思えませんし、どうして……」

 意味は分からないが、この村に道士が来た可能性があるのなら調べなければならない。その道士が探し人かもしれないからだ。

「俺としてはこんな村さっさと出て行った方がいいと思うけど。さっきの変な子どももいるし。あいつなんだったんだろう」

「ああ……彼女、なんでしょうね。出ていけと言われて」

 思えば、洛風が短刀を投げつける前は何か違うことを言いかけていた。何と言おうとしていたのだろう。

「君があんなことするから分からなかったじゃないですか」

「うん? よく分からないけどごめん」

 八つ当たりに素直に謝られても困る。正体不明の少女のことは頭の隅に追いやり、道士のことに話を戻した。


「つまり、私たちが来る以前、おそらく最近、廟に鎮煞ちんさつ符を貼って回った誰かがいて、村人はそれを隠している――かもしれないってことですか」

「で、その誰かがひょっとしたら探してる道士かもしれない」

「……手掛かりが少ないですね」

 そもそも洛風には屍仙符を夜静が作ったことも、あれを使う条件のことも何一つ言っていない。ただ危険な呪符を使っている道士を捕まえたいとしか伝えていないのだ。もしこれからも彼に協力してもらうならいずれ教えた方がいいが――。

 しばらく考え、駄目だと思った。そういう話をするのなら、〈赤釵〉のことも触れなければいけないだろう。部外者で〈赤釵〉のことを知った者はほとんどが殺される。教えるということは、相手を死なせるのと同じことだった。


「道長、どっか痛むのか?」

 洛風の声に我に返った。気づかないうちにひどく険しい顔をしていた。眉間の皺を指で伸ばし、ゆるゆる首を振る。

「いいえ。とりあえず、四郎スーランたちに探りを入れてみましょう。私がこの護符を渡す時に廟の護符のことも訊けるかも」

 床に散らばっていた鎮煞ちんさつ符を集める。だが、その手が止まった。

「……洛風、これに触ってませんよね」

 夜静の手許を覗き込み、洛風は乾いた笑い声を立てた。

 護符は、半分ほどがずたずたに引き裂かれていた。


 ***


 夕飯が終わった後で四郎を捕まえ、三梅サンメイに護符をあげるという話をしたことを伝えた。

「どうも悪い気が溜まっているようで、そのせいで魔が寄ってくるのだと思います。私の護符で良ければ差し上げますが」

 その申し出に、四郎は純粋に喜んだ。人の良い顔で笑う彼を見ていると、何か隠しているのではないかという疑いが揺らいでくる。

「俺はよく分からないけど、三梅がすごく怯えてるからありがたいよ」

「いえ、こちらも泊まらせていただいているので」

 鎮煞ちんさつ符の絵を見た四郎は少し眉を寄せたが、それ以上の変化は無かった。洛風は何気なく口を挟む。

「俺、村の廟でそれと同じ護符を見たんだよな。他の道士に貰ったのか?」

「――さあ。俺は詳しくないからなんとも。誰かが街で買ってきたんじゃないかなあ」

 当たり障りなく答え、どこに貼ればいいのかと熱心に訊いてくる。夜静は丁寧に説明した後で思い出したように付け加えた。

「私は見なかったのですが、本当に廟にこの護符があるのなら剥がした方がいいですよ。魔封じは神を祀る場に相応しくないと思います」

 四郎の笑顔が一瞬静止した。彼は努めて平静にしようとしていたが、僅かに焦りが滲んでいた。

「それは、何か障りがあるとか?」

「ええ。この絵の男は魔物なんです。その手足を縛って徐々に息の音を止める図ですから、そんなものがそばにあったら祀られた神は嫌でしょう。きちんと全部剥がすべきです」

 夜静の黒い左目が四郎を見据える。彼はたじろいだように目を逸らした。

「あ、ああ……うん、たぶん誰かが間違えたんだな。俺が後で剥がしておく。ありがとう、教えてくれて」


 四郎と別れた後、二人は部屋に戻った。だが眠らずに廊下を見張る。

「障りがあるって本当に?」

 洛風の問いにあっさりと首を横に振った。

「嘘です。貼る意味はありませんけど神が嫌がるなんて聞いたこと無いです」

「はは……道長って真顔でそれらしいこと言うの本当に上手いな」

 眠気を紛らわせるためにぽつぽつと会話する。四郎が今夜行動するかは分からないが、万一を考えて見張るべきだと夜静が決めた。

 洛風は剣を抱えて座っている。それは彼の手によく馴染んでいた。興味を引かれて、夜静は囁き声で訊いた。

「君は、剣は誰かに習ったんですか? それ、良い剣に見えますが」

「ああ、うん。爺さんに教わった。あの人、死ねか殺すしか言わねえんだよ。怖かったな」

 その言葉に思わず笑った。洞主も、部下たちが何か失敗すると「死にたいのか」と穏やかに訊いてきた。あの時だけは本当に怖かったと思い出す。

「剣の名は?」

北風ベイフォン。爺さんが拾ってきた」

「君と同じ名前ですね」

「正確には剣が先だな。風の字だけ貰ったんだ」

 ということは、そもそも洛風には名前が無かったのだろうか。

 触れていい話題なのか迷ったが、ふと洛風は目を眇めて廊下を見た。


「道長、来た」


 低い声に緊張が滲む。夜目が利かない夜静にも、ゆらゆらと向かいの廊下で揺れている蝋燭の火が見えた。闇より濃い人影が二つ。

「四郎となんとかっていう叔父だ。俺はあいつらの後を尾ける」

「はい。気をつけてください。こんなに早く動くなら、あの神像が相当大事なんでしょう」

「分かってる」

 夜静は事前に用意していた呪句を描いた人型を洛風に渡す。洛風はそれを小さく丸めて飲み込んだ。それを見届け、夜静は印を結んで目を瞑る。

「見える?」

 洛風の問いに夜静は目を閉じたまま頷いた。

「よく見えます。君は目が良い」

 一時的に視覚と聴覚を共有したのだ。夜だというのに、洛風の視界は明瞭だった。彼の視線は、印を結ぶ夜静に向いている。他人の目を通して見た自分はずいぶん奇妙に思えた。

「爺さんにもそこだけは褒められたな。行ってくる」

 軽快に答え、洛風は部屋から足音を立てずに出て行った。

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