「烏の神なのか?」

 洛風ルオフォンの言葉に思わず笑ってしまった。夜静イェジンは曖昧に首を振る。

「違うと思います。烏の神をこんなに祀る意味が分かりません」

「まあそうか。でも前の小さいやつには烏鬼って彫ってあっただろ。烏のゆうれいってことじゃねえの?」

「いえ、烏鬼というのは何を指している言葉なのかよくは分かっていないんです。私が聞いたことがあるのは、鵜か豚ですね」

「全然違うだろ」

「だからよく分かってないんですって。でもたぶん、この村では鵜でも豚でもないがいるんでしょうね」

「それが烏夜七頭神?」

 変な名前だと呟く。それに同意し、夜静は床に転がった神像を眺めた。

 一体どういう神なのだろう。こんなにたくさん祀られているということは、生活に根ざした大事な神だったはずだ。この地方では珍しくないものなのだろうか。なににせよ、誰かに訊かなければ分からない。


 だが、こんなものを調べるためにここまで来たわけではなかった。

「とりあえず出ましょう。江軒ジャンシェンの故郷にも同じものが祀られているかもしれませんし、先に烏南へ行かないと」

「そうだな。誰かいれば道が訊けるんだけど」

 ひんやりとした廟の暗がりから出ると、再び眩しい日差しに肌を焼かれる。あまり汗を掻かないからか、熱が内に籠もって気分が悪い。陽炎のように道が揺らいで、なんだと思えば眩暈だった。


 あ、倒れると思った瞬間、洛風が背を支えた。

「……本当にもうちょっと気をつけろよ。結構怖いんだよいきなり倒れられると」

 文句が頭上から降ってくる。眩暈が治るように目を閉じたまま、夜静はむっとして反論した。

「でもいま倒れるって分かってましたよね君」

「あのなあ……慣れたんだよ。今まで何回倒れたか覚えてるか?」

「……五回?」

「十三回だ。さすがに慣れる」

 そのまま洛風の説教は続く。右から左に聞き流すうちに気分は治った。礼を言って自分で立つと、不満げに眉をひそめる洛風が見えた。

「道長、何も聞いてなかっただろ」

「ちゃんと聞いてましたけど。ところで彼、生きてる人じゃないですか?」

「そうやって話を逸らして――」

 夜静の指差す方を見た洛風は、言葉を止めた。唖然としたように突っ立っている男がいる。農夫らしく野良着に身を包み、水桶を担いでいた。


「あ、あんたら旅人か? こんなところに……」

 夜静と洛風を見比べ、彼は奇妙な顔をする。道士のような夜静と剣を腰に下げた破落戸のような洛風はどういう関係なのか分かりにくい。夜静は自ら名乗ることにした。

「私は道士の夜静です。こちらは……知人の洛風。道に迷ってしまったのですが、烏南はどこかご存知ですか?」

 その言葉に洛風は何か言いたげだった。男は夜静が道士だと聞くと、嬉しそうに歯を見せて笑う。

「はあ、道士様か。道理で仙人みたいだ。俺は四郎スーランって呼ばれてる。烏南はここだよ」

「ここ?」

「この辺り一帯。俺の村も烏南だ。でもなんで道士様がこんなところに?」

 ということは、道を間違えたわけではなかったのだ。安堵して少し息を吐いた。

「ああ……実は、江軒という少年のいた村を探していて。柳州にいた時彼と知り合ったんです。遺品を預かっているので、ご遺族に会えないかと」

 平然と嘘を並べ立てる。だが道士だということで信用されたのか、四郎はあっさり答えた。

「阿軒のことかい。なら俺の村だな。江さんとこの三男坊だ。死んじゃったんだってなあ。可哀想に。賢い子だったんだが」

 案内してくれるか問うと、彼は快諾した。


 四郎が廃村に来たのは、彼の村の井戸がよく干上がってしまうからだという。あの村は洪水の被害に遭いやすくて廃村になったが、水資源は豊富だから近隣の村からよく水を汲みに来る者がいるのだ。

 四郎はよく喋った。話しかける相手はもっぱら夜静だ。洛風のことは怖いのか、ちらちら窺うだけで話しかけはしない。洛風もいつもは愛想よくしているのに、今は不機嫌そうに黙ったままだ。

「ところで、四郎さん。あの村にあった廟は何を祀っているんです? こう……頭が七つあったのですが」

 烏夜七頭神、という名を口に出しそうになって慌てて飲み込んだ。その名を出せば、勝手に神像の背面を見たことが分かるかもしれない。

 四郎は目を軽く見張り、それから照れたように笑った。

「ああ、あれか。あれは余所の人が見ると怖く見えるんだってな。ここら辺ではみんな祀ってるよ。村を守って福をもたらす強い神なんだ」

「強い?」

「うん。あの村だってひどい洪水には遭ったが、死人は出なかった。みんな余所の村に移って元気に暮らしてる。あの神様のおかげだな」

「その神に名はあるんですか?」

「ん? 俺たちは呼ばねえけど……老人とかは烏鬼様って呼ぶ。ちゃんとした名前は偉い人しか知らねえ」


 それからも何個か質問したが、四郎は詳しいことをあまり知らないようだった。ただ村を守ってくれる強い神様だとしか分からない。その神の素性――伝説でもよかったが――それは一つも出てこなかった。土着の神だとしても、大抵は伝承として何らかの逸話が残っているものではないだろうか。

 なのにあの神には、福をもたらした結果の話しか存在しなかった。あの時の洪水で助けてくれた、この年が豊作だったのもあの神のおかげ、従姉の病が治った等々、ご利益を得た話には事欠かないが、なぜ福をもたらすのか、どういった性格の神なのかは伝わっていないようだ。

 中身のない、伽藍洞の神像。なのに福だけはもたらす。それは歪ではないだろうか。


 強く信仰されるにはそれ相応のが必要だと、夜静は思う。

 例えばあの「霊玉リンユー真人」ならば、貧しい家の子どもが道士として修行を重ね、血の滲むような努力の末に自力で仙人となり山に行ったという逸話がある。そういう話があるからこそ、霊玉真人は今なお庶民に人気なのだ。また病人を無償で救ったという伝説から、普通は病平癒や家内安全の神として祀られた

 なのにあの烏夜七頭神は、神としての素性が不明なのにも関わらず信仰されている。そして実際に福をもたらしていると思われている。それはどうしても噛み合わないように思えてしまう。

 ――あるいは、伝承などいらないほど、あれが強い神であるという根拠が別にあるのか。


「道長」

 洛風の低い声で思考が中断した。彼は四郎に聞こえないよう小声で囁く。

「どうすんだよ」

「何がです?」

「遺品。持ってないだろ」

「……あ」

 何も考えていなかった。

 少し考え、どうにかなるだろうと根拠もなく思った。ただ考えるのが面倒だったせいもある。

「大丈夫ですよ。忘れたとか何とか言えば」

「……最低だな……」

 洛風にそう言われて複雑な気分になった。でも、最初の目的は王子言に接触した老爺だ。江軒の家族のことまで気にしている余裕は無い。

「四郎さん、貴方の村に最近、老人……いえ、道士が来ませんでした?」

 何気なく訊いたつもりだったが、四郎は唐突に足を止めた。


 彼はぐるりと夜静を振り返る。日焼けし、皺の寄った目元が翳っていた。さっきまでの純朴な笑みが消えて、奇妙に強張った表情でこちらを窺っている。

 四郎の担いでいた水桶が傾いて、一滴、二滴、水が零れてゆく。それに気づいていないのか、彼は食い入るように夜静を見つめていた。

「なんでそんなこと訊く?」

 ひどく緊張した声音だった。夜静は足を止め、そして慎重に答える。

「……探しているんです。その人に――大事なものを盗られて」


 途端に、四郎の緊張が緩んだ。目を細めて笑いながら、水桶を担ぎ直す。

「そりゃあ災難だなあ。名前は?」

「それが分からないんです。おそらく道士だとしか」

 夜静の答えに彼は呆れたように言った。

「それじゃあ探しようがないんじゃないかい」

「ええ――だから困ってるんです。たぶんこの辺りに行ったと思うんですけど」

「ふうん。少なくとも俺の村には来てないよ」

 素っ気なく答え、四郎は心なしか足を速めた。軽く俯いた横顔は地面を見据え、逃げるように微かに前のめりになっている。


「何かあるのかな」

 背後にいた洛風は、剣に手を掛けていた。それを見ていると、視線に気づいた彼は仄かに笑う。

「危ない、あいつ斬るところだった」

「……冗談はやめてください」

「ん? 冗談じゃないよ」

 洛風は軽く身をかがめ、夜静の耳元で低く囁いた。

「あいつ、なんか変だよ。さっきから道長のことずっと見てる」

「……ただ話してるからじゃないですか?」

「違う。身体のどこが悪いのか観察してた。あいつの村、行かない方がいい気がするんだけど」

「何言ってるんです。せっかくここまで来たのに」

「はいはいそう言うと思った。なら、勝手にどこか行くなよ。俺の目の届く範囲にいて」

 子どもじゃないという反論が喉元まで出かかる。それでも洛風が真剣だったからしぶしぶ頷いたが、彼はまったく信用していない目で夜静を見つめていた。

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