第二章 烏夜七頭神
一
柳州から水路で岳州まで行った二人は、街道で立ち往生していた。
岳州常県は、一面に青々と田の広がる長閑な場所だった。徐々に夏が近づいているからか、この辺りはもう薄っすら汗ばむ暑さだ。
「……どこだろうな、ここ」
「暑いですね……」
「どっかで休むか」
「そのどこかってあるんですか……?」
「待ってて。俺探してくるから」
軽快に答え、洛風は走って行く。元気だなあと年寄りのように呟き、道端に座り込んだ。
左足が熱を持って痛んでいる。伸ばして摩ったが、筋肉は強張って上手く動かせなかった。最近は貧血で倒れることも多いし、疲れると一歩も動けずにへたり込んでしまう。洛風が時々背負ってくれるが、自分の情けなさにさすがにどうかと思い始めていた。
目に染みるような青空を見上げる。ずいぶん遠くまで来たと思う。碧華洞から一生出られないと思っていたのに、気づけばこんなところまで来てしまった。洞主が知ったら卒倒するだろう。
阿軒と呼ばれていた少年の名は、正しくは
評判通り頭の良い子だったが、風邪で高熱を出して呆気なく亡くなってしまったらしい。遺体は岳州に送られる予定だったが、あの儀式に巻き込まれたせいで損傷が激しい。柳州侯は勝手に焼いてしまい、骨灰だけを遺族に送って誤魔化すことにしたようだった。
可哀想な子だ。柳州へ行かなければ風邪を引くことも遺体を焼かれることも無かっただろう。その話を聞いた時は、さすがに夜静も心が痛んだ。
「道長、あっちに廃村がある」
洛風が戻ってきてそう言った。夜静は眉をひそめて聞き返す。
「廃村? 人はいないんですか?」
「ああ。結構前からだと思う。ボロボロだけど家っぽいものはあるし、休めると思うよ」
「そうですか」
ありがとうと呟き、杖に縋って立ち上がる。差し出した手を無視された洛風は苦笑して手を下ろした。
「村に人がいれば何か訊けたかもしれませんね」
「川があるし、他にも村はあると思う。休んだら探そう」
道に迷っても洛風は特に慌てず、相変わらず呑気な態度だった。その余裕に助かっているところはあると自覚している。本人には絶対に言わないが。
洛風の言った廃村はすぐに着いた。人気の無い家が立ち並び、中を軽く覗くと埃と蜘蛛の巣で荒れ果てているのが見える。まばらにある家の中には、斜めに傾いているものもあった。
比較的状態の良い家の扉を無理やりこじ開けた。埃が舞って何度か咳き込む。足を踏み入れると、床の上にはっきり足跡が残った。
「結構長いこと人がいないみたいだな」
「何があったんでしょうね」
「うーん……ああ、でも洪水かもな」
洛風が残された家具の足元の方を指す。膝辺りの位置に、泥が線状にこびりついた跡が残っていた。思えば、妙に傾いでいた家は水に押し流されたせいなのかもしれない。
夜静が椅子に座り込んでいる間に、洛風はあちこち物色した。部屋の隅にあった棚を探っていた彼は、ふと笑顔で振り返った。
「道長、もち米があった。食えるかな?」
「……腐ってません?」
「いや、大丈夫っぽいけど。棚の中だから冷えてるし、虫も湧いてない」
洛風が手で掬った米粒は、黄ばんでいるが確かに腐ってはいない。
「道長は料理できる?」
「粥しか作ったことありませんよ」
それも十年前に一度きりだし、自分では食べたことがない。作れると言えるものなのか分からなかったが、洛風は構わず頷いた。
「それでいいよ。俺が水汲んでくるから作って」
「はい?」
「決まりな。そっちに鍋あったから」
「いや、洛風は作れないんですか?」
慌てて訊くと、洛風は快活に笑い飛ばした。
「これくらいいいだろ。分かったよ、一食分の金を返したことにするから」
「……」
金銭の問題を持ち出されると勝機が無かった。一体どれほど借りた額が積み重なっているのか考えると恐ろしい。しぶしぶ頷くと、洛風は嬉しそうに笑った。
洛風が取り出した鍋に洛風が汲んできた水を入れ、洛風が火を起こす。もう彼が作ればいいのにと思いながら、ぎこちない手つきで粥を作り始めた。
戸棚にはいくつか正体の分からない調味料が残っていて、なんとなく粥に合いそうなものを適当に投げ入れてかき混ぜる。ぐつぐつ煮え立った鍋を睨みつけたが、どれくらいが頃合いなのかも分からない。自分の知っている粥のような見た目になったところで竈から鍋を上げた。箸でつつくと、もち米が糊のようになっていた。
「……」
ちらりと椅子に座っている洛風を見る。何が面白いのか、にやにやしてこちらを眺めていた。申し訳なさより腹立たしさが勝って、夜静は糊のような粥を無言で彼に押しつけた。
一口食べた洛風は、しばらく黙ったのちに控えめな感想を言った。
「まあ、食べられるよ」
空腹だったから、夜静も少しだけ食べてみた。だが、なんともいえない苦みと奇妙な甘さと纏わりつくような粘ついた米に、急速に食欲を失った。
「やっぱり君が作れば良かったのに」
箸を置いてそう呟くと、洛風は微かに声を立てて笑った。
「なんで? 食べられるって」
「味覚がおかしいんじゃないですか?」
「そうかもな。これよりひどいもん食べたことあるからかも」
「犬の餌でも食べたんですか」
呆れて言うと、洛風はふと真顔になった。怒ったのかと思ったが、彼は珍しく自虐するように言った。
「犬以下だったよ。餌盗んで食ったこともあるしな。腹壊した」
少しの間言葉を失った。ついで、微かな羞恥を覚える。
「……すみません、嫌なことを言いました」
「ん? ああ、別に責めてるわけじゃない」
それでも不用意なことを言ってしまった。少し反省していたが洛風は本当に気にしていないようで、不味い粥を結局食べきってしまった。
「道長、料理あんまやったことない人は目分量で調味料入れない方がいいよ。あとやたらかき混ぜたりずっと強火は駄目だ」
食べ終わった後でそんな助言をされ、夜静は顔をしかめた。
「そんなこと言うなら君が作ればいい。私はもう作りません」
「拗ねるなよ。道長って時々子どもみたいだよな」
「本気で怒りますよ」
杖を振り上げてみせたが、洛風は適当に「悪かったよ」と嘯く。一度痛い目に遭わせた方がいいのではないかと真剣に考え始めたが、実行に移す前に彼は笑みを消して言った。
「そういや、さっき水汲みに行った時さ、妙なもの見つけたんだよ。道長なら何か分かるかも」
「妙なもの?」
「古い廟っぽいんだけど、神像が変なんだよな。ていうか神なのかなあれ」
「はあ……? 異教の神なら私も分かりませんよ。どういう神像なんです?」
「なんか、頭が多くてやたら目が飛び出てる」
洛風の簡潔な説明は、簡潔すぎてむしろ分かりにくい。異形の神であるというのは伝わってくるが、それ以外のことがいまいち分からなかった。
だが、興味は引かれた。元から、気になることは分かるまで調べないと気が済まない質だ。行ってみたいと言うと、洛風は少し眉をひそめた。
「いいのか? 貧血っぽかったのに」
「大丈夫ですよ」
「道長の大丈夫って信用できないんだよな」
ぶつぶつ文句を言いながらも案内してくれるようだった。駄々を捏ねられても面倒だと思ったのだろう。
洛風が言った廟にはすぐ着いた。朽ちかけた屋根の下、簡素な台と神像がある。線香は床に散らばり、香炉は割れていた。放置されて長いのだろう。何の汚れなのか、神像も黒ずんで素材が何かも分からない。両手で抱えられるほどの大きさで、洛風の言った通り頭がたくさんある。
夜静が躊躇なく神像を掴んで持ち上げると、洛風は珍しく慌てた声を上げた。
「それ、神様だろ? 大丈夫なのか?」
「え? ……ああ、見たところ道教の神でもないし平気でしょう」
取って付けたようにそう言うと、呆れたようにため息をつかれた。何も考えていなかったことがばれているような気もしたが、気にせず夜静は袖で汚れを擦った。
「ちょっと貸して。服が汚れるだろ」
見かねたように洛風は神像を取って手拭いで表面を擦る。力が強いからか、夜静がやるよりずっと早く汚れが落ちていった。
像は木製の簡素なものだった。彩色すらされていないが、七つの頭に加えて全ての目が飛び出ている。憤怒の表情なのか、ひどく醜い形相だ。
「気持ち悪いな」
洛風が正直な感想を言う。
「魔除け……でしょうかね。異国には多面の神もいますが、私は初めて見ました」
高梁国は広い。馴染みのない神を祀っていること自体は珍しいことでもないのだろうが、この神像の異様さは何か引っ掛かる。目を見開いて虚空を睨む姿は、異常な憎しみに溢れていた。
「――あ、なんか彫ってある」
もう慣れたのか無遠慮に神像を調べていた洛風は、背面を見てそう言った。夜静が覗き込むと、見やすいように傾けてくれた。
「ん……鳥? じゃない、烏……
「その上にもなんか彫ってあるよ」
「これは……李氏、とありますね」
「この神様、李なのか?」
「いや……」
神に姓があること自体はありえなくないが、わざわざ彫っているのはなぜだろう。考え込んでいると、洛風が言った。
「他にも廟っぽい場所あったけど、行ってみる?」
「そうですね」
本来なら寄り道している暇は無いが、迷っているから関係ない。歩いているうちに人に会えるかもしれないと考え、夜静は頷いた。
調べると、廃村の中には多くの廟が残っていた。屋根があるだけの小さなものから、しっかりと拝礼する空間のある立派なものもある。中には夜静に馴染みのある道教の神もいたが、ほとんどが例の七面の神だった。
一番大きな廟に行き、洪水のせいか倒れていた神像を奥から引きずり出した。子どもほどの背丈があり、元は彩色されていたのかところどころ剥げた痕が残っていた。
扁額は落ちてしまったようで、何の廟なのか分からない。だが、さっきと同じように像の背面に文字が彫ってあった。
「なんだこれ……趙氏……」
洛風の指が文字をなぞる。李氏ではない。つまり、これはこの神の姓ではないのだ。夜静はその下にある文字を読んだ。
「烏……
まったく聞き覚えのない神の名だった。
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