目を覚ました時、自分が宿の寝台に寝ていることに気づいて少しの間茫然とした。


「道長?」


 のんびりとした声が聞こえたが、身体は上手く動かない。瞳だけ動かして横を見ると、洛風が頬杖をついてこちらを見つめていた。

「気分はどうだ?」

「……最悪です。臭う……」

「え、俺か?」

「違います。私の血」

 べったりと胸元に血の染みが広がっていた。妙に焦っていた洛風は、「ああ」と呟いて窓の外を指した。朝になったのか、通りの方から賑わいが微かに聞こえてきた。

「新しい服、買ってくるよ。ついでに食い物も。何なら食べられる?」

「肉……」

「はいはい」

 呆れたように笑って洛風は出て行く。静かになった部屋の中で、ぼんやりと天井を眺めた。


 あの程度の呪詛返しでも倒れるとは思わなかった。自分の余命なんて大して気にしていなかったが、意外に短いのかもしれない。

 だが、考えなければならないことがいくつもあった。第一に、なぜ屍仙符が外に漏れているのかという謎だ。


 あれは夜静が作って、そして闇に葬ったものだ。あれの存在を知っている者は、この世には夜静一人だけのはずだった。知っていた者たちは、〈赤釵〉から抜ける際に全員殺したからだ。

 あの晩、自分の部屋から屍仙符が消えていることに気がついた。誰が盗んだのかは分からなかったが、碧華洞から何かを盗めるのは〈赤釵〉の者しかいない。だから、あの符の存在を知っていた五人と、その晩夜静の部屋に忍び込めた二十二人を念のために呪殺した。

 だが、遺体を確認している余裕は無かった。まさかしくじっていたのだろうか。夜静はもう普通に歩けないから、先回りして江南で王子言を霊玉真人に仕立て上げることも可能だろう。柳州に行くまで、夜静の足で三か月掛かった。追手を撒く必要もあったからかなり遅い。あり得ない話ではない。


 気分が悪くて考えは纏まらない。殺した二十七人のことを思い浮かべたが、動機も何も分からなかった。

「なんで顔しかめてんの?」

 いつの間にか洛風が戻っていた。彼は夜静に鶏肉の粥を買って来てくれたようだ。自分は豚肉を包んだ薄餅を食べている。羨ましげに見ると、洛風は苦笑した。

「道長は駄目だ。油物は胃に悪いだろ」

「まだ若いですよ私は。余裕で食べれます」

「血吐いた人の台詞じゃねえな」

 しばらく粘ってみたが駄目だった。そもそも洛風の金だと思い出して、夜静は大人しく味の薄い粥を啜る。不味そうに顔をしかめている彼を見て、洛風はくつくつ笑っていた。


「で、道長はこれからどうするんだ?」

 食べ終わると、洛風はそう訊く。

「ひょっとして、岳州に行ったり?」

「……そうですね」

 曖昧に答えたが、そうしようと思っていた。屍仙符を遣える条件を全て知っているのは夜静だけだ。おそらく、王子言に接触した謎の老爺が蘇りの術を試したかったのは、その条件を知るためだろう。ならば、一人だけ不完全ながら蘇った少年の故郷に行く可能性は高い。

 老爺が〈赤釵〉の関係者なのかは分からなかった。〈赤釵〉は早死にするから老人はいない。変装か、あるいは王子言のように騙されているのかもしれない。どちらにせよ、手掛かりが欲しい。自分の生み出したものの後始末くらいは、死ぬ前に終わらせたかった。


「岳州だと、ここからじゃ水路の方が近いな。道長は船酔いしそうだよな。俺は平気だけど」

「……ん?」

 慌てて寝台から起きようとしたが、駄目だった。横目で洛風を睨む。

「ちょっと……待ってください。貴方も来るんですか?」

「駄目なのか?」

「むしろ、なんでいいと思ったんですか?」

「俺たちもう知己だろ?」

「友人ですらないですよ。大体貴方、母親が病気なんじゃないんですか?」

「そうだよ。十年前に死んだけど」

「……」

 何を言うべきか迷い、結局何も言えずに天井を睨んだ。


「そもそもさ、忘れてることない?」

 洛風はのんびりと話しかけてくる。夜静が不機嫌なのに気にも掛けない。しぶしぶ「はい?」と返事をすると、彼はにっこり笑って言った。

「道長、俺に金借りてるだろ。返すまで付いてくから」

「……あー……」

 返す当てなんかない。最初は、どうせすぐ死ぬから踏み倒そうかとろくでもないことを考えていたのだ。

「道長、実は結構強いんだろ? 護符とか売ったら金儲けできるんじゃないの?」

「簡単に言いますね……」


 しばらく沈黙が流れた。口では文句を言うが、もう仕方ないと諦めていた。さすがに金無しで岳州まで行くのは無茶だろう。

 洛風は何を考えているのか、仄かに笑っている。夜静は不貞腐れて眉を寄せていたが、一炷香ちゅうこうほど経った後で口を開いた。


「貴方は……何なんです? 私に恩を売って何がしたいんですか」


 洛風と一緒にいるのは危険なことだと分かっていた。昔ならば、洛風の足を麻痺させて金だけ奪って逃げるくらいできたはずだ。でも今は、なんとなく気が進まなかった。

 洛風は少しうたた寝していたのか、何度か瞬きして目を擦る。

「――気になるの、道長?」

「だって貴方に得が無い」

「というか、恩って思ってたんだ。それが意外だよ俺は」

「話を逸らさないでください。貴方は道士ではないし、病を治す必要もない。面白いだけで危険な目に遭いたい人間なんていません」

 それとも――蘇りの術に興味があるのだろうか。

 言わなくても、その問いは分かったようだった。洛風は頭を掻くと目を伏せた。

「うーん……俺はただ親切なだけだよ。実は、兄が道長みたいに片目が不自由で――」

「嘘でしょう。さすがに二度は騙されませんよ」

「面倒だなあ。いいだろ別に。俺は害意なんて無いし、ただ協力したいだけ。道長のやってることは良いことだろ?」

「協力して何になるんです?」

「良いことを手伝えば、俺も地獄に落ちなくていいかもしれない」

 にっこり洛風は笑った。どこまではぐらかすのだろうと腹が立つ。それを見抜いたのか、彼は宥めるように手を振った。

「怒るなって。俺は物好きなんだ。そんなに疑うなら、俺の髪の毛いるか? 王子言に言ったみたいに呪殺? ってやつすればいい」

「……あれは嘘です。こんな身体で呪殺なんかしたら私が死にますよ。――そういえば、彼はどうなったんです?」

「王子言のこと? 安心しなよ。あいつは絶対俺たちのこと喋らないから」

「……ひょっとしてまた殴ったんですか?」

 それを聞いて、ひどく愉快そうに笑う。何が面白いのか分からないが、洛風は機嫌良く言った。

「やっぱり道長、ちょっと抜けてるよな」

「はい?」

「なんでもない。……俺さ、十年前に母親が死んで孤児になったんだよ」

 唐突な言葉に驚く。また嘘を、と言いかけてやめる。洛風は真っ直ぐ夜静を見つめていた。

「兄弟も親類もいなかったから、ずっと一人だった。だから道長と一緒にいると楽しいよ。それだけ」



 洛風は日が暮れると部屋から出て行った。

 ――一緒にいると楽しいよ。

 洛風の言葉に上手く答えられなかった。まるで子どもに懐かれたような煩わしさと居心地の悪さを感じる。


 ――大哥にいさん


 文清ウェンチンにそう呼びかけられるたびに、同じような感情を抱いた。彼は孤児で、才能を見込んで洞主がどこかから引き取ってきた。道術を教えたのは夜静だ。だからか、文清はやたらと夜静の後をついて回ってきた。

 思えば、文清と洛風は境遇も似ている。自室で窒息死した文清を思い出し、居た堪れなくなって目を固く閉じた。

 文清と洛風は別人だ。それは分かっている。分かっていても、不毛な考えが浮かんでくる。


 ――やり直せたら。


 ある仕事が終わったばかりの頃だった。自殺する前、一度だけ文清が夜静の部屋を訪れた。ひどく痩せて憔悴していた彼は、どうすればいいのかと夜静に訊いた。罪もない人たちを見殺しにしたのに、なぜ貴方は平気なのだと訊かれた。

 罪はあっただろうと答えた。皇帝に身の程を弁えず意見した。それが罪だ。古来から、忠臣は皇帝を諫めて死ぬ。何度も繰り返されたことだった。

 文清が苦しんでいるのは分かっていたから、一晩中根気よく諭した。文清は表情を失くしてそれを聞いていたが、やがて掠れた声で呟いた。

 ――大哥にいさんは何のために人殺しを続けているんですか。

 国のためだと答えようとしたが、なぜか言葉がつっかえて出てこなかったことを覚えている。弁解の言葉はどこを探しても無くて、絶句している夜静の前から文清は去って行った。

 次に見た時はすでに死体になっていた。初めて後悔した。あの時ちゃんと答えられていたらと、何の意味もないことを考え続けた。


 泥沼に浸かっているような酷い気分だ。左足が疼く。見ると、壊死した部分が膝上まで広がっていた。醜い。見ていられずに目を逸らす。


 文清の死体を最初に見つけたのは夜静と洞主だった。彼の死体を見た時、自分がまるで出来損ないの人形に変わったように思えた。何も考えられず、しばらく呼吸が止まっていることにも気がつかなかった。周囲の喧騒も聞こえず、洞主が夜静を追い出すまで馬鹿のように突っ立っていた。

 文清の死体は仲間の一人が遺族の元に返したという。夜静が正気に戻った時には全て終わっていたから、屍仙符を使う機会すらなかった。使っても意味は無いと分かっていても、もし死体が手に入っていたらきっと試してしまっただろうと思う。


 苦笑が漏れた。あの時の身体中から力が抜けるような虚脱感に比べれば、今の左足の激痛なんてどうでもいい。

「ひどい兄でしたね……」

 許してくださいと、もういない人間に向かって囁いた。

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