目の前が真っ白に弾けた。銅鑼を鳴らしたような音が頭の中で響いて、頬に熱が集まる。思わずよろめいて、洛風が慌てたように肩を支えた。

「……もう少し手加減してほしかったです」

 唇から流れる血を手の甲で無造作に拭った。洛風は気まずいのか、目を逸らしている。やっぱり洛風に移すべきだったと思いながら、夜静は子言に向き直った。

「……このように、貴方の行う術は病を治すものではなくものなんです。知って……なかったみたいですね」

 子言の表情は静止し、理解できないという風に何度かぎこちなく首を振った。突然現れた夜静の怪我から目を逸らす。

「……嘘だ。私は……」

「誰から呪符を貰ったんです? 貴方が書いたわけではないんでしょう」

「嘘だ、嘘だ……」

 虚ろな目でそう繰り返す子言を見て、洛風は呆れたように呟いた。

「こいつ、どっかおかしいんじゃないか」


 余計なことを言う洛風の足を踏みつけ、夜静はさらに問う。

「貴方が蘇生術だと言ったものも、その誰かに教わったんでしょう。誰なんです? 話してくれたら解放しますよ」

 なるべく優しく言ったものの、相手に通じているのか分からなかった。洛風はしびれを切らしたように顔をしかめる。

「道長、優しくしたって意味無いよ。こいつ勝手に人に病を移してたんだろ? ちょっとくらい酷い目に遭っても誰も文句言わねえって」

 その言葉に、子言は噛みつくように声を荒げた。

「私は知らなかった! 私は――ただ人助けができると思って――」

 人助けがしたかっただけ、みんな喜んでくれた、私はただ善意でやっていただけだと言い訳を繰り返す。夜静はその言葉を遮った。

「そうですね。知らなかったのなら仕方ないです。で、貴方を騙したのは誰ですか?」

 子言は目を見開き、そして意気込んで何度も何度も頷いた。

「だま――そうだ――私は騙されたんだ! あいつ、あいつが全部悪い――なんてやつだ――義士を気取っておきながら」

 他人の挙動にそれほど関心のない夜静でもさすがに呆れた。洛風は殴る気も失せたのか、興味なさげに壁の染みを眺めている。


「では、どんな人でしたか?」

「よくは知らない。彩游さいゆう鎮で会ったんだ。老爺だったけど、変装かもしれない。元々霊玉真人って呼ばれてた江湖郎中はあいつの方で、私はあいつから引き継いだんだ」

 突然協力的になったことに呆れながらも、夜静は訊いた。

「引き継ぐ? なぜ?」

「事故で片腕を失ったからだと。私を同じ義士だと見込んで病を治す術を教えると言っていた。とんでもない詐欺師だったが……」

 子言は沈鬱な顔をして俯く。彼の感傷に付き合う気もなく、夜静は淡々と続けた。

「呪符も彼から?」

「ああ。私が見た時はすでに名前は書かれていた。全員知らない名前だ。あいつはすでに死んだ人間の名前だと言っていたが……死者に病を持っていってもらうとか」

「嘘ですね。それでは効果が出ません。では、蘇りの術は?」

「あれは……」

 子言は躊躇いがちに答えた。

「病を治す術を教える代わりに、あれをやれと言われた。危険はあるけど、蘇りの術が完成すれば全ての人間が救える。だから人を集めて、できるだけ目立つようにして宣伝してほしいと。あいつが江湖郎中で人を無償で治して霊玉真人の名前を広めていたのは、蘇りの術を試すためだったんだ」


 ようやく納得した。蘇りの術だけをあんな形で行ったのは、むしろそれが目的だったからなのだ。誰も無名の道士に大切な人の遺体を預けようなどとは思わない。だから先に名前を広めておいて、蘇りの術を大々的に行えるようにする。結果的に失敗――いや。

「王道士、阿軒アーシェンと呼ばれていた少年についてご存知ですか」

 誰も蘇らないと思っていたが、少年だけは不完全ながら蘇った。彼だけは条件を満たしていたのだろう。

 子言は怪訝に夜静を見た。

「あんたはあの術を調べてるのか?」

「まあ……非常に危険な術です。貴方も死んでいたかもしれませんよ」

 嘘だったが、これくらい言っておいた方がいいだろう。二度とあの術を遣わせるわけにはいかなかった。

 子言は目を泳がせる。罪悪感の滲んだ表情だった。

「……あの少年は、楚氏の親戚の子だ。田舎の村から来たらしい。頭が良かったから、柳州に出て来たんだと」

「村の場所は分かりますか」

「岳州の常というところだと……」

 柳州よりさらに南だ。考え込んでいると、洛風は壁の染みから目を離して近づいてきた。

「道長、もういいか? 夜が明けたらさすがに人目につくかも」

「あ、いえ、最後に一つだけ。呪詛返しを行います。病を元に戻しましょう」


 あの呪符は大抵、二枚で一組だ。呪いが成就すれば手元に残した方の呪符に赤い印が浮かぶ。さっき夜静がやったように呪う相手が身近にいる時はいらないが、呪いが成功したのかどうか確認用に持つのが普通だった。

 思った通り、子言は呪符を持っていた。赤い印が浮かんでいるものだけでも二十枚以上はある。

 呪詛返しはおそらく簡単だろう。子言が夜静より強い道士だったら面倒だが、その心配はなさそうだ。だが、子言は恐ろしいことを聞いたように顔を歪めた。

「呪詛返し? あの子……あの子たちの病を戻すのか?」

「ええ」

 呪符に書かれた名前を見たが、夜静も知らない人間ばかりだ。無作為に選んだのだろうかと思ったが、ある名前に手が止まった。


 ――白吟之バイインヂー


 夜静はしばらく固まっていたが、子言の声に我に返った。

「ほ、本気で戻すのか? それ以外ないのか? お前、力のある道士だろ? 他に方法はないのか?」

 必死に言い募る。夜静は目を瞬き、困ったように首を傾げた。

「助けたいんですか?」

「当たり前だろう! お前、そんな――普通、できないだろ!」

「貴方が助けたいなら、方法はありますよ」

「本当か!」

 この人は騙されやすいだけで善人なのかもしれないと夜静はぼんやり思った。彼が無償で人を助けようとしたこと自体は否定できないのだ。まさか助けたいと言ってくるとは思わず、少し反省して彼に向き直った。

「返ってくる呪詛を貴方が全て引き受ければいいんです。大丈夫ですよ、すぐには死なないように私も頑張りますから」

 少しなら負担できるかもしれない。手足は困るから、あとは左目だろうか。全盲になってもまあ、どうにかなるだろう。


 だが、子言は引き攣った顔で身を引いた。

「な――わ、私は……そういう方法じゃなく……いや……」

「はい?」

「だから……それ、私は死ぬんじゃ……」

「私も少しなら引き受けられます。数年なら普通に生きられると思いますが」

「数年……」

 最初の勢いを失くし、狼狽えたように口籠る。偶人ひとがたを作って身代わりにする方法もあるが、失敗した時の反動が怖い。確実な方法はそれしか無かった。それくらい道士なら分かっているだろう。返事をしない子言を訝しげに見ていると、洛風が嘲るように笑った。

「お前なあ、人助けして感謝されて良い気になってさ。どうせ、霊玉真人だって崇められなくなるのが嫌なだけなんだろ? 気持ち良いもんな、他人が這いつくばって感謝してくるのは」

 洛風の嘲笑に、子言は顔色が真っ青になった。唇が震えているが、言葉は出てこない。夜静は茫然として、二人を見比べた。


 ――人助けして、感謝されて、良い気になって。


 それは、夜静も同じことだ。感謝されはしないが、陰で自分がこの国を守っているのだと奢っていた。そういう幻想に浸るのは確かに気持ちが良い。その幻想が冷めた時には、文清ウェンチンはもう死んでいた。


「他人に縋って自分の名誉だけは守ろうなんて、ずいぶん良い根性してるな」

 洛風の言葉に、夜静も微かに胸が痛んだ。子言はのろのろと何か呟く。

「……私は……ただ……」

「道長、いいよもう。その呪詛返しってのやれよ。霊玉真人が詐欺師だってなるだけだ」

「……ああ、はい」

 茫然としていた夜静は、洛風に言われて動き出した。子言は縛られたままだったが、一回り縮んでいるように見えた。青ざめて項垂れた彼は、もう夜静の方を見ない。


 呪詛返しは恙なく終わり、赤い印が消えた呪符は燃やしていった。だが、白吟之と書かれた呪符だけ自分の懐にこっそり仕舞う。

 全て終わった後、夜静は子言の髪を一本引き抜いて言った。

「いいですか、私たちのことを誰かに言えば私が貴方を呪殺します。もう二度とあの術を遣わないことを約束してください」

 子言は何度も何度も頷いた。夜静は洛風の方を振り返り、言う。

「もう出ましょう。見つかったら、面倒――で――」


 あれ、と思った途端、身体の均衡が崩れた。

 視界が明滅して、大音量で羽音のようなものが鳴っている。ぐるぐる天井が回って、気持ち悪い。

 肩を掴まれた。洛風だ。

「すみません……」

 何か温かなものが顔の上を這っているような気がした。撫でると、手のひらにべったりと血がついた。口からも鼻からも血が流れて、白い道服を汚していく。鉄臭い。

 道長、と洛風が言ったような気がした。

 意識が途切れ、真っ暗な陥穽の中に落ちていった。

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