七
蘇ったのは、まだ幼い少年だった。白濁した瞳と、半開きの唇、蛆の湧いた肌。どこからどう見ても死体だが、それは確実に自分の意思で動いていた。
棺から倒れるようにして床に落ちる。ずるずると這いずり、ゆっくりと起き上がった少年を見て、楚氏夫婦は悲鳴を上げた。
「あ、あ、
「
「わ、私にも分からない――あの子は――なぜあの子だけ――」
足を引きずりながら、のろのろと少年は三人の方へと向かう。どうも、音に反応しているらしい。楚氏夫婦は先を争うようにして大門から外へと逃げ出した。霊玉真人は後始末をする気はあるのか、一人で少年と対峙した。
「お前のことは呼んでいない!」
彼は少年に呪符を突き付ける。符は少年の身体に触れると燃え上がった。肉の焦げる臭いが鼻をつく。青い炎に包まれた少年は、それでも動きを止めずに宙に手を彷徨わせている。バチンと音が鳴って少年の皮膚が破裂し、飛び散った体液が義荘の床に奇妙な染みを描いた。
霊玉真人は狂ったように周囲の闇に手を伸ばす。それでも何も見つからず、ゆっくりと自分に近づいてくる少年を見て低く呻いた。
「
「屍人ってあいつのこと?」
「ええ」
「道長、大丈夫なの?」
「私は平気です」
そっかと呟くと、洛風は棺の陰から躍り出た。
霊玉真人は悲鳴を上げる暇も無かった。正確に首筋に一撃を食らい、ぐったりと昏倒する。
少年と向き合った夜静は、彼の燃える身体に手を触れる。素早く霊玉真人の付けた呪符を剥ぎ取ると、炎はようやく収まった。焦点の合わない双眸からどす黒く腐った血が流れ出ていて、それは涙のように見えた。
腐った両腕が夜静の身体を捕えようとして、途中で何かに縛られたように止まった。夜静は少年の白装束に手を触れ、血と煤で何か文字のようなものを描いていく。
「ごめんなさい、苦しいでしょう」
小さく呟く。意味は分かっていないだろうが、少年の白濁した瞳は夜静の方を向いた。
「――泰山の主の元に還りなさい」
文字を描き終えると、夜静は柳州侯の娘の棺に近づき、中に入れられていた呪符を取り出した。
――
見覚えのあるそれに、心臓が痛むような苦しさを覚えた。呪符を破ると、少年の身体は操っていた糸が切れたように頽れる。
「道長、屍人ってなんなんだ? なんでそいつが蘇った?」
洛風は、今まで見たことのないような真剣な顔で夜静を見つめていた。逃れられないと悟って、そっとため息をつく。
「……分かりました、説明します。その人……霊玉真人も一緒に連れて行きましょう」
***
目を覚ました霊玉真人は、自分が縄で縛られているのを見て怯えたように目を見開いた。周囲は埃にまみれた暗い小屋で、ぽつりと一本だけ蝋燭が灯っている。影が炎とともにゆらゆら揺れていた。
「起きたな。霊玉真人――違うよな。名前なんて言うんだ?」
親しげに笑う、だがどこか威圧感のある洛風を見て、彼の顔から血の気が引いた。
「な――誰だ、お前」
「ん? 俺は洛風」
「どこだ、ここ――私は――こ、こんなことしても病は治さないぞ」
「そんなの別にいいけど」
「なら……なら金か? いくらでもやるから、解放しろ!」
「金もいらねえよ。名前訊いてるだけだって」
「私には家族はいない! 脅しても無駄だ」
見事に噛み合っていなかった。夜静は見かねて口を挟む。
「私たちは貴方に危害を加える気はありません。貴方の知っていることについて教えてほしいだけです」
初めて気づいたように、霊玉真人は夜静を見た。夜静の白濁した右目に一瞬驚いたような顔をしたが、同じ道士だと分かったからか彼は納得したように微かに笑う。
「なるほどな……私の術を知りたいのか。だが、人を脅すようなやつが人を救えるわけがないだろう」
「……」
馬鹿にしたように夜静を嘲笑する。もしかして、と思った。
――霊玉真人は、自分が何をしているのか知らない?
演技かと思ったが、その怯えも嘲りも本物だ。なんだこいつと、洛風は呆れたように腕を組んでいる。
「なあ道長、こいつちょっと痛い目に遭わせた方が良くないか?」
「洛風やめなさい。貴方はなんだか……ちょっとで済まないような気がします」
話せなくなったら困る。牽制すると、洛風は肩をすくめて口を噤んだ。
夜静は霊玉真人の目を見て問う。
「私は夜静、姓は夜です。貴方のお名前は?」
「教えるわけないだろう」
敵意剥き出しの目が夜静を睨む。途端に、洛風が腰の剣を抜いてその首に突きつけた。
「おい、よく考えてものを言え。ここは都の北の端、誰も近づかない廃屋だ。お前が悲鳴を上げても誰も聞こえないからな」
「……まあ、そういうことです。安心してください、殺す気はないですから」
霊玉真人は、突然冷水を被せられたように目を見開き、震えだす。剣を握る洛風の手にますます力が入るのを見て、彼は降参したように言った。
「王……
「洛風、知ってますか?」
「聞いたこともない。少なくとも江南で有名な名じゃないな。道長は?」
「道士であの術を遣う者なら私は知っているはずなんですが……王道士、貴方は誰かにあれを教わったんですか?」
「……蘇生術のことか?」
王子言は諦めたように項垂れ、呟く。夜静は身を乗り出して訊いた。
「それもありますし、病をなんでも治すという術もです。あれがどういう術なのか、貴方は分からずに使っていたんでしょう?」
「どういう意味だ」
胡乱な目で夜静を見る。夜静はしばし黙ると、不意に洛風を手招きした。
「私が貴方と同じことをしてみますよ。私の身体だと支障があるので……洛風、彼を一発だけ思い切り殴ってみてください」
「は?」
子言は恐ろしげな顔をする。反対に洛風は、明らかに嬉しそうに笑った。
「いいのか?」
「気絶しない程度に、でもちゃんと痛むようにお願いします」
「いや、おい、やめろって。お前さっき、危害を加える気はないとか――」
言葉の途中で、ひどく痛そうな音が響いた。
わりと本気でやったな、と夜静は思った。子言の唇は切れ、頬は赤く腫れている。涙目で洛風を睨んでいるあたり、意外と胆力はあるのだろう。
「えっと……まあいいです。これから私が貴方と同じことをして、その怪我を治してあげます」
子言は胡乱な目で、洛風は不機嫌に顔を歪めて夜静を見た。
「道長、どういうことだよ」
「安心して。移す相手は私ですから」
「なんでだ。なら俺に移せばいいだろ」
「大丈夫です。私は痛みに強いので」
どうしてそうなるんだよ――とまだ文句を言いたそうだったが、まったく聞く気が無いのを見て洛風は引き下がった。子言は怯えたように目を泳がせている。
「おまっ……お前、何する気だ!」
「だから治すだけですって」
適当に答えながら懐を探る。よれよれになった護符の余りが見つかった。まあいいかと思い、指先を噛み切って血で上から呪文を描く。肩越しに覗き込んできた洛風は、眉を寄せて言った。
「なんて書いてあるんだ?」
「私の生年月日と名前です。古代文字なので普通は読めませんよ」
廃屋に置いてあった蝋燭に火をつけ、護符を燃やした。
「あ、すみません、何か器とかないですか?」
洛風が戸棚を漁って見つけた器は埃や蜘蛛の巣でかなり汚れていたが、灰を入れれば分からないだろう。廃屋の外の甕に溜まっていた雨水で灰を溶かしていると、引き攣った顔の子言が見えた。
最後に子言の血を少し混ぜる。出来上がったものを得意げに子言に差し出すと、彼は嫌悪に顔を歪めて必死に遠のこうとした。
「やめろ、絶対飲まないからな!」
「毒じゃないですよ。飲めば貴方の怪我は治ります」
「治らなくていいから飲みたくないんだよ!」
「大丈夫ですよ。作ったところ見てたでしょう? 貴方と同じでしたよね」
「全然違う!」
「え? 何か忘れてましたか?」
「そういう問題じゃなく――」
「つべこべ言わずに飲めよ」
見かねた洛風が、無理やり子言の口を開けさせて濁った色の液体を飲ませる。くぐもった悲鳴が上がり、蒼白な顔で子言は項垂れた。
毒ではないはずだが、まさか何か失敗したのだろうかと少し疑った。だが、のろのろと顔を上げた子言は、茫然と呟いた。
「……痛くない……」
彼の頬の腫れは、跡形もなく消えていた。
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